☆仏になることが幸せ.前回の記事は、→
ここをクリック!私は子供のいない悩みを解決し、さらに御書を読み進めました。
3度目の拝読を始めたときのこと。
私の心には、1つの疑問がありました。
「大聖人は、御書を通じて結局、何を言われれようとしたのか」
「仏法の目的とは何か。幸福とは何か」という疑問でした。
御書には、「十分な財産があり、幸せな結婚をして、子供が学業優秀で、家族全員が健康で、皆が笑顔で生活している」という幸福論」は述べられていません。
一人暮らしのご婦人や、子供がいない夫婦や、迫害を受ける門徒たちが入れ代わり立ち代わり登場し、茨の道を歩む内容が記されるばかりです。
現代に語られる一般的な幸福はほとんど書かれていないのです。
○一生成仏抄.やがて拝読は、三度(みたび)一生成仏抄に至りました。
大聖人は、繰り返し、人生の目的を「成仏」と述べられていました。
「大聖人は、人生の目的を仏になることだと言われている」
「では、成仏とは何だろう。一生を仏と成って生きることか」
「他を幸福にする行為の中に、確かに悦びがあるよな」
「私は窓際族だ。会社のためを思って戦った結果、こうなった。今、何の利益も生んでいないようでも、少なくとも薬にはなっていると信じている」
そんなことを考えながら、じっと一生成仏抄の表題を見たのです。
と、そのとき、私の心の中に一つの答えが浮かびました。
「仏になることが幸せ」
過去、そのように考えたことはありません。
仏とは日蓮大聖人のことであり、あるいは池田先生のような存在を意味するのだと思っていました。
その存在は、途方もなく遠い存在であり、自分とは無縁の存在と信じていました。しかし、そうではない。全員が仏道修行で仏になれると直感したのです。
否、「今、必死でお題目を唱え、必死で御書を読んでいる自分は、すなわち仏なんだ」と思ったのです。
一瞬にして眼前が開け、私は歓喜に包まれました。
息ができないほどの感謝と感動とが全身を走りました。
○幸福の正体.仏。それはごく限られた人たちが立脚する究極の境地と思っていました。
仏界を湧現する。それはなかなかできないとも聞いていました。
遊びたい、惰眠をむさぼりたい、お金が必要だ‥
仏になれるどころか、普通の人間の幸福すら得られない自分。
そうとしか考えたことのない私に、途方もない一念の転換が訪れたのです。
なぜ、法華経において二乗も畜生界の衆生も仏になれたのか。
それは、広宣流布の決意をして行動したからです。
その闘争の生活が、すなわち歓喜だからです。
広宣流布に立脚したとき、どんな境遇も武器に変わる。
子供がいない夫婦が、一人住まいの人が、貧乏な人が、病気の人が、年老いて死に直面する入院患者も、そのままの姿で広宣流布に目覚め、そのことを武器に変える時、即、仏国土になる。
心の底から「そうだ、その通りだ!」と思えたのです。
私は拳を握りしめて、一人、孤独な部屋の中で叫びました。
「等身大の広宣流布の人生を歩もう!」と。
○消えた悩み.結果、私の人生は、この瞬間から一変しました。
「私はこの私でよい。ありのままの自分で良い」
そのことは先に、国府(こう)入道夫妻への二編の御書から得ていました。
次に得たことは「仏になることが幸せ」という人生観でした。
「ありのままの自分を使って広宣流布を果たすこと。それが幸せ」
こうして、私の人生は劇的に変わるのです。
私は、誰にいわれることもなく仏法対話を始めました。
「この仏法に巡り合いたいという人に巡り合わせてください」と祈り、1年余りの間に10人ほどを折伏し、2世帯の本尊流布を果たしました。
このとき、私はまだ窓際族でしたが、一切の悩みが無くなっていました。
信心の喜びに満たされていたからです。
<別館>ブログトップへ<創価の森通信>へ<本館>ブログトップへ