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【社説】

週のはじめに考える 隣国に通じる言葉とは

 ドイツの敗戦から七十年がたちました。周辺国との良好な関係はうらやむばかりになりましたが、道のりは決して平たんだったわけではありません。

 第二次大戦末期、ドイツは地上戦を戦いました。西側から米英仏軍が、東からはソ連軍が、挟み撃つように進攻しました。ベルリンはソ連軍に包囲され、ドイツは五月七日に無条件降伏文書に調印、八日に発効して、欧州の戦争は終わりました。

 ドイツでは五月八日は「終戦」ではなく、敗戦であるとともにヒトラーからの「解放」の日と呼ばれます。ナチスを否定して全く違う民主国家になった、とのドイツ人の強い自意識が感じられます。

◆外圧にも迫られ補償

 空爆と地上戦で国土の大半は焦土となり、ソ連兵らによる女性への暴行が横行しました。東西は分断され、ドイツの戦後も苦難の中で始まりました。

 民主国家として国際社会に再出発するために迫られたのが戦後補償でした。西ドイツ初代首相アデナウアーは「ナチスの不法」への責任を認め、イスラエルやユダヤ人団体への補償から始めました。

 ドイツ統一後には、旧ソ連、東欧諸国などの強制労働被害者らが移住先の米国などで独企業を相手取り補償を請求、独製品ボイコットの声まで上がりました。経済への影響を懸念したシュレーダー政権は、独企業の出資を募り補償基金を設立、支払いは約百六十六万人に対し総額約四十五億ユーロ(約五千八百五十億円)に上りました。

 優等生的とされるドイツの戦後補償ですが、時代の状況や外圧に迫られ、不完全部分を補う形で場当たり的に進んできた面も否定できません。ギリシャがあらためて補償要求を持ち出すなどなお火種はくすぶっています。

◆「固有」の領土を放棄

 支払った代償はお金だけではありません。冷戦の最前線だった西独で六九年に登場したブラント政権は、緊張緩和を図る東方外交を展開し、東独を国家として認め、ソ連や東欧諸国と条約を結んで東部国境を画定させました。

 戦後、ソ連は西方に領土を拡張、ポーランド領も西方にずれたため、ドイツはそれまでの領土の約四分の一を失いました。多くがプロイセンなど何百年も前からのドイツ「固有」の領土でした。これに伴い、東方から約千五百万人のドイツ系住民が追放されました。

 東部国境の画定は、これら失った東方領土の領有権を放棄し、追放された人々が故郷には帰れなくなったことを意味します。

 痛みを伴う決断で東側諸国との和解も進みましたが、ドイツ人にはトラウマ(心的外傷)ともなりました。追放された人々は苦難を伝える施設設置を政府に求めポーランドの反発を招くなど、両国の歴史認識には溝も残っています。

◆なお続く「過去の克服」

 ドイツはナチスの犯罪への反省と謝罪を表明し続けてきました。

 戦後四十年に「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と訴えたワイツゼッカー大統領だけではありません。ブラント首相は七〇年、ワルシャワのユダヤ人犠牲者追悼碑前でひざまずきました。ヘルツォーク大統領はワルシャワ蜂起五十周年式典でポーランド侵略への許しを請い(九四年)、ラウ大統領は強制労働被害者らに「皆さんの苦しみは決して忘れません」と謝罪しました(九九年)。

 補償だけでなく、振る舞いや言葉の力でも国際社会に訴える−国の生き残りを図る指導者らの知恵や、したたかさを感じさせます。

 大戦で争った国々は今、欧州連合(EU)という絆で結束しています。しかし、EU内では反移民や反イスラム感情が強まり、疎外感を抱く若者らが過激派組織に走るなど、ナチスへとつながった憎悪や差別の根はなお、なくなっていません。メルケル首相は敗戦の日前のビデオメッセージで、ナチスや少数者迫害の歴史を二度と繰り返してはならない、と訴えました。ドイツの「過去の克服」はまだ続いているのです。

 旧西ベルリン繁華街の駅を降りると、戦災で塔の先端が欠けたまま残されたカイザー・ウィルヘルム教会が目を引きます。ベルリンの壁跡地には多くのコンクリート柱が並んでいます。ホロコーストで殺害されたユダヤ人のため、独政府が十年前に完成させた記念碑です。歴史を忘れまいとするドイツ人の強い意志を感じます。

 「何でもナチスのせいにする」などの指摘もありますが、その戦後は安易な道ではありません。多くの代償を払って周辺国と和解し、負の歴史を繰り返さぬよう心に刻み続けたドイツの歩みが、日本の戦後七十年を考える上でも示唆することは多いはずです。

 

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