東方先代録   作:パイマン
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真・地霊殿編その二。


其の五十四「地獄鴉」

「ねぇ、チルノ。強くなって、何の意味があるのかな?」

 咲夜特製のアイスパフェと格闘しているチルノをぼんやりと眺めながら、フランドールは唐突に口を開いた。
 同じように口を開き、スプーンいっぱいのクリームを舌に乗せようとしていたチルノは、少し葛藤してから口を閉じた。
 フランドールの質問は何の脈絡もないものだったが、その目付きだけは真剣だった。
 二人と同じテーブルを囲む橙が、質問の意図を測りかねて、眉を顰ひそめた。

「それって、チルノとの修行がいい加減嫌になったってこと?」
「どういう意味よ!?」

 橙の言葉に、チルノの方が噛み付いた。
 フランドールが慌てて首を横に振る。

「そんなことないよ。こうやって皆で集まって、一緒に遊んだり、修行したりするのはすごく楽しいよ」
「実益があるかどうかは分からないけどね。相変わらず修行って言っても、普通に弾幕ごっこするだけだし、それどころかこうやってオヤツをたかる形になっちゃってるし」
「あはは、気にしないでよ。わたしなんて、咲夜にお願いしただけなんだからさ」
「このパフェってやつ、ンマイわねぇ~! あたい、気に入った!」
「そう言ってくれると、咲夜も喜ぶよ」
「遠慮ってものも、少しは知ってほしいけどね」

 チルノの遠慮のない言動を、フランドールが素直に楽しみ、橙が常識的な観点からフォローに回る。
 三人はすっかり気心の知れた仲となっていた。

「別に修行が不満なわけじゃないの。ただね、そうして強くなった後で、何の意味があるのかなって思っちゃって……」

 察しの良い橙は、フランドールの言いたいことを理解した。
 彼女の心に引っ掛かっているのは、この場にはいない(うつほ)を含めて自分達四人が遭遇した、妖怪の山での出来事である。
 先代巫女と空の嘆く声が、橙の記憶にもまだ鮮明に残っていた。

「わたしが最初に強くなろうって思ったのは、自分の力をコントロールする為だったの。暴走すれば周りを傷つけて、だけど肝心な時に敵と戦えない、そんな弱い自分を変えたかった」

 フランドールは、まだ一度も手をつけていない自分のパフェをじっと見つめた。
 アイスの部分が溶けかかっている。

「自分の能力や精神が、まだまだ危ういものだって分かってる。わたしにきっかけを与えてくれた小母様やお姉様、他の皆の為にも、わたしは強くならなくっちゃいけない。それは……分かってる」

 でも、と唇を噛み締める。

「あの時、わたしは何も出来なかった。わたしの力は役立たずだった」

 あらゆるものを破壊出来る――それが一体どれほど凄いというのだろう。
 凄いというのは、意味があるということだ。
 この力に意味なんてない。
 親しい人達の涙を止めることも、悲しみを消すことも出来なかった。
 全くの無力な存在だった。
 先代と空の涙と声が、心に焼き付いて離れなかった。
 二人が救われたのは、誰の力でもない。
 偶然や奇跡と呼ばれる結果だった。

「もう二度とあんな光景を見たくないのに、どうすればいいのか分からない。もし、またあんなことが目の前で起こった時、わたしはどうすればいいのか……」

 フランドールは震える声で呟いた。

「わたしが強くなれば、あんな出来事は止められる?」

 その切実な問い掛けに、橙は答えることが出来なかった。
 フランドールが理屈を求めているのではないと分かっていた。頭のいい彼女は、もうそれくらい理解している。
 自分では、納得のいく言葉を返してやることができない。
 橙は助けを求めるように、チルノの方を見た。
 普段は散々考え無しの言動を馬鹿にしているが、本当に芯のある言葉を持っているのはチルノだと認めていた。
 フランドールが話している間、じっと考え込んでいたチルノはおもむろに閉じていた目を開いた。

「ごめん、フラン。あたいにも分かんない」
「……そっか。チルノにも分からないか」
「あたいには、強いと便利だってことくらいしか分かんない」

 落胆の声を聞き流しながら、チルノは続けた。

「便利?」
「うん。強いってことは、便利なことだ」
「それは、敵を倒せるから?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ。例えば、地底の妖怪にお師匠がバカにされた時、あたいがもっと強かったら、お師匠の代わりにもっと怒ってあげることが出来た。霊夢との勝負だって勝てたかもしれない。まあ、あれはあたいが間違ってたんだけどね。他にも、てゐと一緒に戦った時とかもっと上手くやれたかもしれないわ」

 思いつくままに例を挙げていくチルノの話を、フランドールと橙は半分以上理解出来なかった。
 おそらく実体験に基づく話なのだろう。しかし、主観で語るその内容は説明不足で拙く、十分に伝わらない。
 それでも、不思議と聞き入ってしまう内容だった。
 地底での話。
 霊夢との話。
 てゐとの話。
 どれも、橙とフランドールは知らない。
 チルノだけが経験した話。
 長年地下に閉じ篭って外の世界を知らなかったフランドールと、妖怪として若輩である橙が、自らの浅い経験と詰め込んだ知識だけで判断して空回りする苦悩に、重く実感が響く話だった。
 知識や理屈の話ではない。
 これは貴重な経験談なのだ。
 この三人の中で、最も力や知恵で劣りながら、最も多くの経験を積んでいるのはチルノだった。

「だから、あたいがサイキョーを目指すのは、これまで出来なかったことや失敗したことを、これからはちゃんと上手くやるためで……それから、ええっと、だからあたいはもっと強くなって、あの時のお師匠やお空のことも――」

 だんだんと自分の言いたいことが整理出来なくなったのか、チルノの声は小さくなっていった。

「ご、ごめん。なんだかこんがらがってきたわ。やっぱり強くなるだけじゃダメなの……かな? あたいはバカだから、うまく話せない。強くなるよりも、もっと賢くなった方がいいのかもしれない」
「ううん。そんなことないよ」

 フランドールは力強く首を振った。

「チルノの話、すっごく為になった!」
「そう? でも、ごめん。あたい、今度はちゃんと答えられるように勉強してくるわ」
「うん、そうだね。分からなかったら、勉強すればいいんだもんね」
「そうそう、けーねに教えてもらうんだ!」

 フランドールの顔にはもはや苦悩はなく、晴れ晴れとしていた。
 釣られるようにチルノも笑う。
 二人の笑顔を横から眺める橙は、小さくため息を吐いた。その口元には、やはり苦笑が浮かんでいた。

「分からなかったら人にきく、だもんね」
「そのとおり!」





「レミリアおぜうさま。あたくし、傷心ですの」

 細長いストローを咥えて、小悪魔はじっとレミリアを見つめていた。

「私は今の状況が意味不明だわ」

 レミリアもまた同じようにストローを咥えて、睨むように目の前を睨みつけている。
 小悪魔から眼を背けないのは、負けたような気がするのと、距離が近すぎて視線の置き場が他にないからだった。
 二本のストローが、一個のグラスに挿されている。
 鮮やかな青色の液体が満たされている。
 咲夜に作らせた『ブルーハワイ』と呼ばれる外の世界のカクテルだった。
 色合いから『ブルー』の意味は分かる。しかし『ハワイ』とは何なのか? レミリアは疑問と興味を持った。
 そして、実物を前にした今も意味は分からない。
 テーブルを挟んで、こうして小悪魔と顔をつき合わせている状況も。

「お嬢様がブルーハワイというものを知りたいと仰ったんじゃないですか」
「それで、何であんたが私の飲み物にストローを突っ込んで、横取りしてんのよ?」
「横取りじゃありませんよ。仲睦まじく分け合ってるんです。これが正しい飲み方なんですよ」
「嘘つけ。私のだ、飲むな」

 示し合わせたように、二人は同時にストローを吸った。

「……それで、何が傷心なの?」
「あらん、聞いてくれるのダーリン?」
「はっ倒すぞ」
「ごめんなさい。でも、お嬢様なら私の気持ちも分かってくれると思いまして」
「一ミリも分からない」
「分かりますよ。なにせ、愛する妹様のことですから」
「お前の妹じゃない」

 レミリアは口を尖らせて、小悪魔は楽しそうに笑って、また同時にストローを吸った。

「……ありゃ、一体何してるんだ?」

 離れた別のテーブルで、二人のやりとりを眺めていた魔理沙が呆れたように呟いた。
 同席しているパチュリーが手元の魔道書から視線を外して一瞥し、

「さあ? 遊んでるんじゃない」

 適当に答えた。

「あれで、あの二人って結構仲いいから」
「とてもそうは見えないけどなぁ……」

 四人がいる場所は、紅魔館の地下図書館の一角だった。
 魔理沙はたまたま今日訪れた来客だったが、普段からレミリアも暇な時はよくここで屯している。
 その場合、暇潰しの相手であり、話し相手となるのはパチュリーだったが、何故か現在このような状況になっているのだった。
 小悪魔の方も、普段のような悪ふざけだけが目的といった様子ではない。
 それを察して、レミリアも会話に応じているのだ。

「子供の成長に一番気付きにくいのは、案外肉親かもしれませんね」

 小悪魔は潤いのある唇を曲げて、ニタリと笑った。
 誘惑と悪意が混同した、文字通り小悪魔的な笑みだった。

「何が言いたいの?」
「妹様が、今日二人の友達を連れてきたことですよ。いつの間に作ったんでしょうね。お嬢様、知ってました?」
「まあね。どっちも顔を見たことはあるわ。湖に住んでる氷の妖精と八雲の式神ね」

 先日、妖怪の山で見た時には、更にもう一人、地底の妖怪が傍にいた。あれもまた同じような関係なのだろう。
 しかし、その内の二人を妹が館に招くほど親しくなっていたのは、レミリアにも予想外だった。

「今も、地下の私室でこっそり仲良くやってるんでしょうね」
「あんたが言うと、妙に卑猥に聞こえるわね」
「酷いですね、今回は結構真面目な話をしているんですよ? 閉じた世界から突然解放されて右も左も分からない子供だった妹様が。私を実の姉のように慕い、頼ってくれた妹様が。いつの間にか私以外に心を許せる友達を作って、自分の悩みを打ち明けているのです。疎外感感じちゃいますねぇ」

 フランドールの抱える悩み――レミリアも漠然と察してはいた。
 その原因だけはハッキリと分かる。
 レミリア自身も現場に立ち会った、妖怪の山に守矢神社が初めて現れた時の出来事だ。
 あの日以来、フランドールの様子がおかしかった。
 何か思うところがあったのだろう。
 具体的にどう考え、思い、そして悩んでいるのかまでは分からない。
 その悩みを姉である自分に相談して欲しいと思っていた。
 しかし、フランドールが悩みを解決する為に選んだのは、友人と自分自身の力だったのだ。
 自分で考え、誰かに頼ることも覚えた。
 妹の成長に、姉として喜びを感じると同時に、一抹の寂しさも味わっていた。
 なるほど。確かにこれは――傷心だ。

「言いたいことは、分かる」

 レミリアは不承不承といった様子で、小悪魔の言を認めた。

「でも、それはフランの為を思うなら喜ぶべきことだわ」
「もちろん、私も喜んでますよ」
「どうかしらね?」
「あらら、心外ですね。私は私なりに、妹様のことを愛しています」
「分かってる。あんたが本当のことを言う時は、本当であることを強調しないからね。自然と零すように口にするのよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないですか。それじゃあ、もうちょっと踏み込んで話しちゃいましょう。私は妹様に心を許せる友人が出来たことに、悪い意味でも喜んじゃってます」

 小悪魔は頬杖をついて、挑発的な目付きでレミリアを見つめた。

「成長という名の階段を登る時、人は常に踏み外すリスクを負うものですよ」
「……あの子に友人が出来て、悪いと思う面とは何?」
「赤の他人から別の関係へと変わるというのは、面倒事の始まりですよ。特にその相手が、他人との関わり方も距離感も知らない無知で無垢で孤独だった女の子ならば、尚更ね」
「ネガティブな視点で見すぎね。それこそ誰かと接しなければ、友人との付き合い方なんて分からないわ。あの二人との関係も良好なのだし、いい経験になるでしょう」
「ええ、初めての経験でしょうね。妹様にとって、現在ぶつかっている問題も、それを誰かに相談する行為も、何もかも初めての経験なわけです。だから、その後の経過も結果も、やっぱり初めての『いい経験』になるかもしれない」

 言葉を弄ぶ小悪魔は楽しそうだった。
 レミリアは顔を顰めた。

「あんたはそうやって最悪の事態を想像して悦に浸ってるだけで――」
「いいえ、いいえ。私は全く可能性の話をしているだけで、悪い方向へ転ばそうとか、不安を煽ろうとかなんて思っちゃいないんですよ」
「――」
「愛情や友情というものは、これでなかなか一筋縄ではいかないものでしてね。人生を善い方向へ導くこともあれば、狂わせることも間々あるものです。そんな話は過去、枚挙に暇がありません」
「……情を深めすぎるのは危険だと?」
「どうなんでしょうね? 私如き小物が何だかかんだ言ったって、本物の絆って奴の前には一蹴されるだけですよ。友情ストーリーのお約束ってやつで。
 しかし、情というものは『強い』と書いて『こわい』とも読みますから。いや、心とは実に複雑怪奇。そこに家族や友人や恋人などが関われば、絡み合って、縄一筋とはいきません。怖い怖い。だから、面白いんですけど。妹様の場合は、一体どうなるんでしょうね?」

 確かに、フランドールの境遇は特殊だった。
 健全な方向へ成長し始めてるとはいえ、未だにその心の奥にはかつて味わった悪夢が消えずに残っている。

「優れた資質や力を持つ者ほど孤独を抱えているものです。誰にも触れられなかった心のある面が全く未熟なまま残ってしまった。初めて出来た理解者に入れ込みすぎて、それまでの自分を見失うというのは、まあよくある話ですね――」

 俯いて黙り込んだレミリアの反応を笑って眺めながら、小悪魔はストローに口をつけた。
 取り繕った無表情の下で渦巻く苦悩を、楽しんでいた。
 ただ家族として純粋に妹を愛して信じるには、多すぎる負い目をレミリアは抱えている。それが原因で、今一歩踏み込めない自分への歯痒さもあった。
 いつかは、この壁もなくなるかもしれない。
 しかし、それは今すぐではない。
 急ぎすぎてはいけない。
 本当か?
 本当は、ただ単に自分が臆病なだけではないのか?
 どちらが正しい?

 ――そうして、自問し、迷っている心の動きが、透けて見えた。
 それを眺めているだけで、小悪魔は退屈しなかった。
 グラスに残った中身を、ゆっくりと飲み干す。
 その間、レミリアは一言も発さなかった。
 十分に堪能し、ストローから口を離した小悪魔は、深みにはまっていくレミリアをフォローすることにした。

「ところで、お嬢様。話は変わるんですが、最近私と若干キャラ被ってる女が先代様に付き纏ってるという噂を聞いて悩んでるんです。どうしましょう?」
「知るか」

 目論見どおり、レミリアは苛立ちをぶつけるように睨んできた。
 小悪魔は満足気に微笑んだ。





 その日、私は青娥と慧音を伴って迷いの竹林にある妹紅の住処へとやって来ていた。
 この中で、当然青娥は妹紅と初対面である。

「貴女が先代様のお弟子さんの藤原妹紅さんですね?」
「そうだけど……あんたは?」
「失礼いたしました。私、先代様の所でお世話になっております。仙人の霍青娥と申します。以後お見知りおきを」
「そ、そうか。よろしく」

 体を前に乗り出すような青娥の挨拶に対して、若干仰け反りながら妹紅が返した。
 最初の伺うような視線が一変して、好意というものを全面に表した笑顔になったことに戸惑っているのだろう。
 そりゃ初対面の相手にいきなり好感度MAXなんだから、警戒もするわな。
 しかし、あれは演技ではなく、本物の好意と敬意を満たした目付きだ。
 何が判断基準なのかは分からないが、青娥は妹紅を一目で気に入ってしまったらしい。

「あの、握手よろしいでしょうか?」
「へっ? あ、ああ、握手ね。うん」

 幻想郷で握手とは、あまり一般的な挨拶の形式ではない。
 おずおずと差し出した妹紅の左手を、青娥が両手で握った。
 いや、握るというよりも、文字通り包み込むような優しい手つきだった。妹紅の手を、まるで貴重な芸術品を慈しむかのように触れている。

「ああ、なんて素敵な手……」

 青娥はうっとりとした表情で呟いた。
 握った手をそのまま頬ずりしかねないような、恍惚とした笑顔だった。
 妹紅はというと、そんな青娥の反応に顔を引き攣らせていた。

「な、何がそんなに気に入ったのかな? 控え目に言っても、あまり綺麗な手じゃないと思うんだけど」

 慌てて手を引きながら、妹紅が訊いた。
 その言葉通り、妹紅の手は左だけに限らず右も含めてボロボロの状態だった。
 指先から手首まで包帯がきつく巻かれ、その下にある無数の傷から血が滲んでいる。
 蓬莱人である妹紅の肉体は傷の治りが早い。表面上の傷ならば、数日で完治する。
 その特性の上で生傷が残っているということは、傷自体が深いか、治る端から再び傷を負っているということである。
 そして、妹紅の傷は後者で間違いなかった。
 あの両手の傷は、私にとって酷く懐かしさを覚えるものだ。
 あれは拳を鍛える為の修行で負った傷なのである。

「この手は、先代様と同じものを目指している手なのでしょう?」

 青娥も、それを見抜いたらしかった。
 妹紅が腰の後ろに隠した両手に、名残惜しそうな視線を送りながら、断言する。

「私も仙人となる為に修行をした身。武術に関する知識は持っております。それは鍛えている手ですわ」
「……まだまだ途中だけどね」
「どのような修行を?」
「師匠もやったっていう貫手の修行を。竹を束ねて、それを何度も突くのさ」
「痛いのでしょうね」
「これでも経験豊富でね、痛みには慣れてる。それに、師匠と違って傷の治りは人並み以上に早い」
「存じております。何でも、不老不死の身であるとか」

 妹紅が私に問うような視線を向けた。
 蓬莱人の秘密に関しては、迂闊に他人に教えられるものではない。
 しかし、私は青娥に、妹紅のことについて事前に話していた。
 青娥自身も方法は違えど既に不老不死を体現しているし、何よりも彼女のことは他人ではなく信頼出来る仲間だと思っているからだ。
 伺うような妹紅の視線に対して、私が頷いて返すと、それで納得してくれたようだった。

「まあ、死なない人間が体を鍛えるなんて滑稽に思えるかもしれないけど……」
「とんでもない!」

 青娥は力強く首を振った。

だからこそ(・・・・・)です。不死でありながら、そこで停滞せず、己を鍛えて高みを目指すその姿勢こそ、素晴らしい。私、尊敬いたします!」
「そ、そうかな?」
「さすがは先代様のお弟子さん。お師匠様に似て、魅力的ですこと。実に、私好みですわ」
「あははっ、なんか照れるわね……好み?」
「ああ、本来ならば貴女に私の仙術をお教えしてさしあげたいのですが、先代様の指導があるのならば、そのままの方がより強くなれるでしょう。なので、宜しければ私が貴女のお世話やお手伝いを――」
「あー、青娥殿」

 何度か見た覚えのある青娥の暴走を横合いから止めたのは、それまで黙っていた慧音だった。
 こほん、と咳払いを挟む。

「ここへ来たのは、元々先代の用事があったからだ。勝手に付き添ってきた我々が、あまり出しゃばるのはどうかと思うが?」
「あら、それもそうですわね」

 いやぁ、ありがとう慧音。
 正直、私もどの辺で口を挟もうか、完全に迷っちゃってたよ。
 青娥ってば、テンションが上がった状態だと妙な勢いがあって、こっちを自然と自分のペースに巻き込んでくるんだよね。
 押しが強いというか欲望に忠実というか、私の周りにいないタイプだった。
 悪意はないっつーかむしろ善意や好意だけなので苦手ではないだが、だからこそ抗い辛い。
 慧音がいなかったら、妹紅も含めて師弟共々青娥の手玉に取られていたことだろう。
 そう、忘れてはいけない。
 私は用事があって、妹紅の所へ来たのだ。

「突然押しかけて、すまない」
「いや、師匠が来てくれたのは嬉しいよ。それで、用事って何? ひょっとして私の案内が要ることかな?」

 永遠亭までの案内人をしていることを指して、妹紅が訊ねてくる。
 まあ、わざわざ迷いの竹林まで来たってことは、目的は永遠亭だと思うよね。
 妹紅自身は度々人里に来て顔を合わせているから、彼女に会う為だけにここへやって来たわけではない。
 かといって、永遠亭に用事があるわけでもなかった。

「修行をする場所が欲しくてな」

 私の目的は、この場所そのものだった。
 迷いの竹林は人が近づかず、棲んでいるのは危険な妖獣ばかりだ。建造物といったら、妹紅の住処以外には永遠亭が一軒奥地に存在するのみ。
 周囲への影響を気にすることなく修行に専念出来るのである。

「つまり、結構派手な修行をするってことだよね?」
「ああ。外の世界で身に着けた技の鍛錬をしたい。まだ扱い慣れない力だ、狭い場所や人のいる所ではやれない」

 言うまでもなく『波動拳』『昇竜拳』『竜巻旋風脚』の技である。
 妖怪の山でも修行させてもらったが、あそこは私を嫌ってる天狗のテリトリーもあるし、今はなんかゴタゴタしてるらしいからねぇ。
 そういったややこしいことも気にしなくていいという点で見れば、この場所の方が更にやりやすかった。
 ついでに、妹紅の修行を見ることも出来るしね。
 いきなり『穿心』の奥義を授けたから、今の所基礎的な修行しかつけられないんだが、一応師匠だからね。あれっきりで放り出すことは出来ない。
 ……でも、それ言ったらチルノと美鈴もなんだよなぁ。
 考えてみれば、全然師匠らしいこと出来てなくね?
 い、いずれ時間を作ってそれっぽいことをしなければ。
 でも、今はとりあえず自分の修行を完了させることを優先する。

「そういうことなら、ここを自由に使ってよ。私も一緒に修行させてもらうからさ」

 私の頼みを、妹紅は快諾してくれた。
 迷いの竹林にはその名の通り、何処であっても竹しかないが、それが生えている密度はやはり場所によって違う。
 妹紅の住処の周辺は生活空間でもあるので、障害物のない拓けた敷地になっているのだ。
 妹紅の家にだけ気をつければ、修行をするのに十分な広さだ。
 ここなら波動拳をぶっ放してもいいし、昇竜拳で空高く跳んでもいい。竜巻旋風脚だってやれる。実にありがたい。
 妹紅が基礎鍛錬に入る傍らで、私も早速修行を開始した。
 よーし、まずはさっさとこの三つの技を自分のものにするぞ!
 自分の持つ能力を理解した今、それは難しいことではないだろう。
 これらの技は基本的なものでしかない。ここから発展した更に強力な技、そしていずれは『殺意の波動』を自分の力とする為に、やることは山積みだ。
 地底での異変が何時起こるか分からない以上、無駄な時間は過ごせない。効率的に修行をこなさねば
 うおおおっ! 待ってろ、さとり!
 あの世で修行した悟空の如く、ピンチに駆けつける為に私は頑張るぞ――!





 二人の人間の修行を、慧音は眺めていた。
 すぐ隣では、青娥も同じように見ている。
 その横顔は楽しげだった。
 実際、楽しいのだろう。
 慧音は霍青娥という仙人の――女の、性格や人間性といったものが、ここしばらくの付き合いの間で何となく分かるようになっていた。
 彼女は先代巫女を尊崇している。
 正確には、その力を尊崇している。
 力というのは、先代が培ってきた単純な力や技、人望、立場、妖怪や神さえも一目置いている高名さなど、全てを含めたものである。
 しかし、ただ単純に『強い者が好き』なのではなく、青娥なりの拘りを持っているらしい。
 妹紅との対面を見て、慧音はそれを確信した。
 青娥は『強くなろうとする者』が好きなのだ。
 自分を高めようとする者。そして、その上で更に優れた素質や才能がある者を敬い、取り入ることに喜びを見出す性質らしい。
 先代と妹紅。優れた人材が、その才能を鍛える光景を眺めるのは、青娥にとって娯楽のようなものなのだろう。
 慧音もまた二人の修行風景を、尊いものだと感じている。
 妹紅が両手を血塗れにしながら、束ねた青竹の間に突きを繰り返している。
 硬い竹が何本もみっちりと詰まった隙間に、揃えた指を強引に捻じ込むのである。
 当然、摩擦によって両手の皮膚は剥けて、ぶつけた指先は爪が割れる。それを繰り返せば、いずれ指の骨までいかれてしまう。
 その苦痛を耐えて、更に突く。
 何度も繰り返す。
 何日も繰り返す。
 そういった修行である。
 常人が見れば、気狂いの所業に等しい鍛錬だった。
 何の目的意識も無しに、ただ漠然と行って、続けられることではない。
 しかし、慧音は、これを何十年も繰り返し続けている人間を知っていた。
 この修行の意味を、そして修行の果てに辿り着ける境地を知っていた。
 傷で埋め尽くされるまで鍛え続けられた、先代巫女の両手。
 その両手が掴んだ勝利や栄光、守り抜いた尊厳、掬い上げた生命、そして宿した信念を、慧音はずっと傍で見てきたのだ。
 妹紅は、先代巫女という師を目指して、苦痛に耐えながら修行を続けているのである。
 その姿に在りし日の先代を重ね、慧音は懐かしさを覚えていた。
 そんな光景から少し離れた場所に、先代巫女当人が立っている。
 地道ながら当人にとっては地獄のような鍛錬を繰り返す妹紅と離れた位置で、先代が初めて見る修行を行っていた。
 両の手のひらを胸の前で向かい合わせている。
 合掌の形に似ているが、両手の間には、拳一つ分程の空間を開けていた。
 その両手の間に、青白く発光する球体が形成されている。
 ハッキリとした輪郭を持たないそれは、物質ではなく、力の塊なのだと慧音は見抜いた。
 しかし、それが何の力なのかが分からない。
 霊力でも、魔力でもない。
 かつて、この竹林で起こった異変で先代が放つのをすぐ傍で見た、強大な光線にも似ているが、それでも同一の物だとは思えなかった。
 新たな力――。
 自分の知らない、先代が外の世界で身に着けたものだと推測するしかなかった。
 たった三日で得た、更なる力。
 驚くことはあれど、不思議に思うことはない。
 この幻想郷でも、先代巫女の偉業は今も尚積み重ね続けられている。
 それも必然だ。
 彼女が人生の大半を費やし、そして今も続けている飽くなき修行の日々が、結果を残さないはずがない。
 先代は強くなり続けている。
 凄い人だ。
 慧音は素直に、そう思った。

 ――しかし。

 先代の修行風景を眺める内に、慧音の中で違和感が生まれた。
 この修行、何かが違う。
 初めて見る修行に対して、漠然とそう感じた。
 そもそも慧音自身は武術に関して素人同然と言っていい。
 長年、先代と付き合う内に彼女の修行を幾度となく目にしてきた。しかし、だからといって鍛錬の中に織り込まれた理論や理屈を理解していたわけではない。
 そういった専門的な内容は、慧音には分からない。
 しかし、違う――と。
 今の先代を見ていると思うのだ。
 これは違う。
 この修行は、これまでの修行とは違う。
 これまで先代がこなしてきた様々な修行と、今回の修行。
 何故、今回に限って違和感を抱くのか。
 先代が手を抜いているわけではない。
 いつもと同じ、修行に対する姿勢は真摯だ。
 むしろ、戦いに臨むかのような厳しい表情からは普段以上の集中力を感じる。
 でも。
 いや。
 そうか。
 分かった。

 ――貴女は、今、全然楽しそうじゃない。

 慧音は自分がおかしなことを考えていると自覚していた。
 しかし、同時に納得のいく答えだと思った。
 先代、貴女は。
 修行をしている時、いつも何処か楽しそうだった。
 私生活をふと垣間見た時、いつも修行ばかりしていた。
 最初の内は、求道者の如く常日頃から己に厳しい姿勢を、ただ漠然と尊敬するだけだった。
 やがて、何故そこまで己を鍛えることに執着するのか分からなくなった。
 修行の果てに、仙人や天人といった人間を越えた領域へ辿り着くことを目的としていたわけではない。
 強くなり、より多くの人命や里の平和を守ってきたが、それもただ自然と結果が伴っただけだった。
 憎い仇がいるわけでもなく、倒したい敵がいたわけでもない。
 もっと突き詰めれば、強くなることさえ、目的としていないように感じられた。
 修行そのものが目的であるかのように、雨の日も、風の日も、雪の日も――。
 両足に傷を負い、立ち上がることが出来なくなった時さえ、新しい修行を見つけて、それを続けた。
 そんな姿を見ていると、ふと感じるのだ。
 普段から寡黙な、あまり動かない表情の内側で、貴女が何処か楽しげに笑っている気配を。
 苦痛と忍耐を伴う修行を延々と続けることが出来たのは、きっとその楽しさがあったからではないか。
 誰も聞いたことがないような、本にも載っていないような修行方法を先代が始めた時、慧音は何時も疑問に思っていた。
 これらの修行を全て、先代自身が自力で考え出したとは思えない。
 本来、修行にはそれを成した先人が居り、それが師となり手本となるものだ。
 先代に、そんな相手が居たとは、見たことも聞いたこともない。
 しかし、それは多分自分が知らないだけなのだ。
 過酷な修行の最中、先代はきっと心の中に師を、目標を、指針を――目指すべき『誰か』を浮かべているのではないか。
 それがあるからこそ、先代は苦痛を苦痛と思わず、耐えることから逃げようとも思わない。
 先代にとって、修行とは目指すべき場所に繋がる道筋であり、そこを歩くことは喜びなのだ。
 慧音は、いつしかそんな風に考えるようになっていた。
 妹紅が弟子となり、共に修行をする光景を眺めるようになってから、より明確にそう思う。
 妹紅もまた修行をしている時、何処か楽しげだった。
 やり遂げた後、必ず誇らしげに笑っていた。
 自分が目指す目標に近づいた手応えを感じられるからだ。
 弟子として、師が教えてくれたことを身に着けるのが楽しいのだ。
 妹紅にとって、目指すべき誰かとは先代だった。
 だから楽しい。
 だから続けたい。
 きっと先代も、その心の中にいる師に対して同じような気持ちだったのだろう。

 ――だが。
 ――そんな貴女が、今はちっとも楽しそうじゃない。
 ――修行を楽しんでいない。
 ――ただ必要だから、必死になって強くなろうとしている。
 ――ただ『強さ』を、目標にしている。

 それが間違っているわけではない。
 正当な努力の仕方だと分かっている。
 現に、慧音以外の誰も違和感を感じてはいない。
 だけど。
 それでも。

「……貴女らしくないですよ、先代」





 空が地霊殿に運び込まれたのは、神奈子が旧都を訪れた次の日だった。
 運んできたのは、神奈子との戦いで負傷した勇儀を世話していた、三本角の鬼である。
 勇儀に頼まれ、神奈子の行方を捜して旧都の入り口まで出向いた彼が、そこで倒れていた空を見つけたのだという。
 神奈子の姿は見つからなかった。
 代わりに見つけた、気絶していた空をわざわざ地霊殿のさとりの元まで連れてきてくれたのだ。

「てめぇのことは気に食わん」

 出迎えたさとりに対して、鬼はハッキリと告げた。
 さとりの乗った車椅子を押す燐が、静かに殺気を滲ませた。

「だが、姉御はてめぇのことを案じているようだ。だから、運んでやった。それだけだ」
「そうですか。それは、どうもありがとうございます」

 鬼の言葉に対して、眉さえ動かさずにさとりは返した。
 わざわざ言葉にされるまでもなく、目の前の鬼が自分を嫌っていることは分かっている。
 それについて特に何か思うところはない。
 さとりにとって、初対面の相手に嫌われるのは自然とも言える出来事だった。
 逆に、淡々と返した礼は、嫌味ではなく本心である。
 来るべき異変の中心となる空の身について日頃から案じていたさとりは、自分を気に掛けてくれている勇儀や、空を運んでくれた鬼に、素直に感謝していた。

「貴方が見つけた時、既にお空はこのような状態になっていたのですか?」
「ああ、そうだ。あの神が何かやりやがったのは間違いないだろうよ」

 空の姿は変わり果てていた。
 気絶したまま一向に目を覚まさないことや、服がボロボロになっていることよりも、もっと深刻な状態に関しての話だ。
 空の体格は、一回り大きくなっていた。
 皮膚や筋肉が腫れているとか、そういった外傷などによる歪な肉体の変化ではない。
 幼い少女のように小柄だった容姿が、たった一晩で成長したかのようだった。手足が伸び、乳房が膨れ、骨格が大きくなっているのだ。
 服が破れている理由は、そういった体格の変化による部分もある。
 変化は外側だけではない。
 空の肉体の内でも、何かが起こっているようだった。
 空が現在、室内のベッドなどではなく、地霊殿の庭に横たえられているのにも理由がある。

「信じられねぇくらい体が熱くなってやがる。鬼の俺でも手のひらが焼けると感じるくらいだ。体の中で、血の変わりに溶岩でも廻り始めたんじゃねぇかって思ったぜ」

 仰向けに寝かされた空の下にある地面が黒く焦げ、雑草が焼けて細い煙が幾筋も上がっていた。破れた服も、端から徐々に焦げて黒ずみ始めている。
 発火にまで至っていないが、ほぼそれに等しい温度が空の肉体の表面で発生しているのだ。
 まるで焚き火を囲んでいるかのように、さとりにも空の肉体を中心にして発せられる熱気が肌で感じられた。
 それほどの熱量を、眠ったままの空は無意識に放っているのだ。

「このガキは、元々チンケな地獄烏だったはずだ」
「ええ、そうです」
「これだけの熱を放つ力は持っていなかった」
「それで間違いありません」
「……なら、やっぱりあの地上からやって来た神が何かしらしやがったってことだ」

 三人の視線は、自然と一箇所に集まっていた。
 変わり果てた空の肉体で、これまでの彼女には存在しなかった最も異質な部位。
 胸の中心――。
 まるで後から植えつけられたかのように、空の頭ほどもある巨大な眼球が、無理矢理そこに収まっていた。
 瞳の奥で地獄の業火が燃え滾っているように、赤い脈動を繰り返す一個の眼球である。
 その場の誰もが、推測するまでもなかった。
 この目玉が、空が変貌した全ての原因である。
 いや、更に正確に言うならば、現在進行形で空の肉体を作り変え続けている得体の知れない力の源である。
 空は、ただ気絶している状態ではなかった。
 時折、手足を痙攣させ、一瞬だけ開く瞼の下にある瞳孔は極端な収縮と拡大を繰り返し、口の端からは溶けた鉄のような涎を垂れ流していた。
 彼女の肉体では、まだ何かが起こっている。
 いつまでこの状態が続くのか。
 このまま苦しみ抜いた末に死ぬのか。
 それとも、変わり果てた姿で眼を覚ますのか。
 誰にも――おそらく本人にも――分からなかった。
 ただ一人、全てを知る古明地さとりだけを除いて。

「俺は、もう行くぜ」

 役割は果たした、と言わんばかりに鬼が背を向けた。

「そいつがどうなろうが、俺の知ったこっちゃねぇ」
「はい。ありがとうございました」
「姉御はしばらく動けねぇ。手助けを期待するなよ」
「知っています」

 旧都で起こった出来事について鬼は説明しなかったが、既にさとりは能力によってあらかた心を読み終えている。

 ――やはり、いけすかねぇ奴だ。

 主人を守る為に殺気立つ傍らの猫の方が、よほど分かりやすい。
 この最後の悪態もしっかりと相手に届いていることを分かった上で、鬼は不機嫌そうに鼻を鳴らして、地霊殿から去っていった。

 ――地上を見限って以来、長い間何も起こらなかったってのに。
 ――今更になって、次から次へと妙なことが地上から舞い込んできやがる。
 ――次は何がやって来る? 人間か?
 ――畜生。今更、俺にどうしろってんだ?
 ――もう、俺の喧嘩は終わっちまったんだぞ。
 ――俺はもう、あの人間の小娘に負けちまったんだ。

 胸の内に渦巻く苦悩までさとりの第三の眼に届いていたことには、気付いていなかった。





 さとりの世話を妖夢に任せた後、燐は外に放置されたままの空の元へ戻ってきていた。
 とはいえ、現在の空にしてやれることは何もない。
 室内に運んだところで、寝かせたベッドや床が焼けて使い物にならなくなるだけだ。
 外に逃げない熱気が篭もって、逆に危険なだけである。
 看病も出来ない。
 そもそも、これが病気なのかどうかも分からない。
 肉体と同じ質量の鉄の塊が真っ赤に焼けているかのように、強烈な熱を放つ空の傍にしゃがみ込み、じっと顔を見下ろす。

「お空……」

 熱に当てられて吹き出した汗が、幾筋も顔を伝って、顎から落ちていく。

「本当に、起こっちまったね」

 空の身に降りかかった出来事に対して、燐は心の何処かで『ああ、やっぱりか』と納得していた。
 倒れた空を見て、最初に連想したのは、かつてさとりの私室で見た絵であった。
 
 ――右腕の肘から伸びる巨大な棒。
 ――溶けた鉄の塊のように変質してた右足。
 ――左足を覆う、二重の輪のような得体の知れない物体。
 ――そして、胸の中央で開かれた不気味な一つ眼。

 一体、どういった発想で生まれたのか分からない、変わり果てた空の姿を描いた絵だった。
 それが今、現実になろうとしている。
 空の肉体は変化を続けている。
 その果てに、あの姿になるのだ。
 燐はもはや確信していた。

「さとり様は、こうなることを知っていた」

 燐にとって、空はよき友人である。
 その親友が苦しんでいるのに、心が痛まないはずがない。
 しかし、だからといってさとりを恨むような気持ちは欠片も湧かなかった。
 さとりが自分の主人だからではない。
 ある面で、さとり以上に空が今のような状態になった原因を理解しているからだ。

「お空――」 

 燐はそっと空の右手を取った。
 凄まじい熱と痛みが、手のひらを焼いた。
 歯を食い縛らなければ耐えられない程の激痛だったが、決して手は離さなかった。

「お前、自分で、やったな?」

 状況からして、地上からやって来たという神が、空にこの赤い眼球を植えつけたのは間違いない。
 そして、さとりがその所業を事前に知っていたことも間違いない。
 では、誰が元凶なのかというと、誰が悪いわけでもないと燐は理解していた。
 これは空自身が望んだことなのだ。
 神が無理矢理行ったことではなく、さとりが謀ったことでもない。
 空はただ目の前に差し出されたものを受け取った。
 得体の知れない強大な力を、空自身が望んで自らの肉体に受け入れたのだ――。

「分かるよ、馬鹿。頭の悪いお前が考えることなんて、あたいには全部分かってるんだ」

 焼けた鉄のように熱い空の手を、燐は更に強く握り締めた。

「馬鹿」

 燐は涙を流していた。

「お前の気持ちなんて、痛いくらい分かってるんだ」

 愛する主人の危機に何も出来なかったことを、死にたくなるくらい後悔したのが自分ならば、現実と己の無力さを突きつけられたのが空なのだ。
 後から知った燐とは違い、空はさとりが一度息絶えた状況に直面した。
 そして、何も出来なかった。
 どれだけ泣いても、言葉を吐き出しても、願い、祈っても、現実は揺るがなかった。
 その時、空が呪ったのは何よりも自分自身だったはずだ。

「そうさ。何も出来ないなら、死んだ方がマシだ」

 自分もそうなのだから。

「分かったよ、お空」

 弱くて愚かだった自分を殺す為に。

「お前、死ね」

 これから、地底ではきっと何かが起こる。
 地上からやって来た神は、その先舟に過ぎない。
 そして、自分達の主人はそのことを予見している。

「さとり様の為に、お前ここで死ね」

 あたいも一緒に死んでやる。





 ――と、そんなことを考えているわけですね。あの子達は。

 燐の決意と覚悟を読み取ったさとりは、小さくため息を吐いた。

 ――ペットの忠誠心が高すぎて生きるのが辛い。

 二人の自分に向けてくれる好意が嫌なわけでも、迷惑なわけでもない。
 ただ少し――重い。
 主人として上にある立場とはいえ、彼女達に望んでいるのは従者としての役割ではなく単なるペットなのだから、そういう命懸けの感情ってちょっと重いんじゃないかなと思うさとりであった。

「お空さんは大丈夫でしょうか?」

 さとりを椅子に座らせた妖夢が心配そうに言った。
 空が運び込まれた時には仕事をしていた為いなかったが、さとりを屋敷内に戻す際に一度空の状態を見ている。
 妖夢にも空の身に何が起こっているのかは分からなかった。
 それどころか、神奈子が関わっていることをさとりはあえて伏せていた。
 教えたところで話がややこしくなるだけだと思った。

「さてね」

 妖夢が地底にやって来て、短くない時間が過ぎた。
 空と燐を含めた地霊殿の住人達とは、今やすっかり打ち解けている。
 空の身を案じているのは本心からだ。
 さとりに対しても、より一層よく仕えてくれるようになっていた。

「貴女が気にすることではありませんよ」

 仮に、妖夢に対して『これから起こる異変の早期解決の為に自分の手足となって働いてくれ』とでも言えば、献身的に協力してくれるだろう。
 妖夢が自分に向ける負い目の感情を、さとりは正確に理解している。
 しかし、だからこそさとりは地底での異変に妖夢を関わらせる気はなかった。
 打算的な理由が幾つかある。
 遂に起こってしまった、地霊殿を巻き込む異変の発端。
 この異変の解決の為に最も大きなアドバンテージとなるのは、自分が持つ原作知識だ。
 妖夢が加わることで強化される自分側の戦力という利点よりも、本来参入しないイレギュラーが加わることで先の展開予測が狂う方が問題だと判断した。
 何より、単純に戦力強化したところで問題が解決するどころか、逆に増える可能性がある。ただでさえ妖夢の存在は、西行寺幽々子に対する厄種だというのに。
 妖夢は異変には関わらせず、むしろこれを切っ掛けにさっさと地上へ返そうと考えていた。

「妖夢さん」
「はい」
「紙と便箋を持ってきてください。手紙を二通書きます」
「分かりました。すぐに持ってきます」
「それと、仕事がひと段落したら、もう一度ここへ来てください。少し話があります」
「はい」

 妖夢が退室し、残されたさとりは机と向かい合いながら、これからの行動を頭の中で軽く整理した。
 空に関しては、今のところ出来ることはない。
 原作通り与えられた八咫烏の力が、今の空を苦しめている原因だろう。
 それが定着するなりして、本来の姿になるまでは、さとりとしても手の出しようがない。
 そして、空が目覚めた後にどうなるかも予想しづらかった。
 案外、自分が望めば空は何も余計な行動を起こすことなく大人しくしているのかもしれないが、暴走する可能性も大いにある。
 そうなれば、知識にある通り異変の始まりだ。
 しかし、原作通り事が起こったからといって、後はただ状況に流されるままでいるつもりはない。
 そこまでさとりは楽観的でもなければ、異変の中心となる空や燐に情がないわけではなかった。
 弾幕ごっこによる決闘とはいえ、こちらは退治される側である。不慮の事故が起こらないとも限らない。
 これから起こることは、運命でもゲームでもないのだ。
 出来れば、可能な限り速やかに、穏便に終わらせたい。

「その為にも、今の内にやれることはやっておかないとね」

 ――薮蛇にならなければいいんだけど。

 ふと、そんな不安が首をもたげたが、慌てて振り払う。
 これまでの実績からして、完全に払拭することは出来なかったが。

「さて――」

 差し当たっては、自分の状態だった。
 日々確実に回復へと向かってはいるが、相変わらず全身の麻痺は続いている。
 寝たきりの状態から姿勢を保って椅子に座り続けるくらいは出来るようになったが、それ以上のことは現状では無理だった。
 妖夢に頼んだ手紙も、自力で書くことが出来ない。
 かといって、このままではあまりに大きなハンデを背負ったまま異変に巻き込まれることになる。
 何とかする必要があった。
 そして、具体的な案が一つ、さとりにはあった。
 一度死から生還した結果自分に起こった変化が、肉体の衰弱以外にもあったことに、数日前から気付いたのだ。
 先程も部屋の中にいながら地霊殿の外にいる燐の心を読み取ることが出来たが、これは以前までのさとりの能力では不可能なことだった。
 対象を絞って集中することで、第三の眼の範囲外に在る心も読めるようになったのだ。人が耳を澄ますことで、遠い物音や声を聞き取るように。
 低下した運動能力に反比例して、感覚が鋭敏化したのだろうか?
 それとも、何処かの漫画脳の発想ではないが、死に瀕したことでパワーアップして蘇った?
 色々考えてみたが、明確な理由は分からなかった。
 重要なのは、自分の能力が強化されていることだった。

「気は進みませんが、試してみますか」

 呟いた言葉とは裏腹に、さとりは妙な確信めいたものを抱いていた。
 これから試すことは、おそらく成功する。
 根拠はない。
 しかし、そう思う。
 そう思うことで成功する。
 思い込みが可能にする。
 あの先代のように。

「――想起」

 第三の眼が、一つのトラウマを再現した。



 ――想起『レガート・ブルーサマーズ』



 見えない糸に無理矢理引っ張られたかのように、動かないはずの筋肉を無視して、さとりの片腕が持ち上がった。





「……ねぇ、チルノ。本当に行くつもりなの?」

 傍らに身を寄せながらも、橙は全く乗り気ではない様子で、今一度訊ねた。
 しかし、返ってくる答えは分かりきっている。
 そして、自分には彼女を止められない。

「あったりまえでしょ! 今更、何産気づいてんのよ!?」
「怖気づいて、ね」

 チルノの決意の固さを再確認して、橙は諦めたようにため息を吐いた。
 フランドールと別れ、紅魔館を発った二人は、妖怪の山の麓までやって来ていた。
 全ては、道中でチルノが思いついたことが原因である。

「でも、上手くいくかなぁ。結界を通って地底に行くなんて」

 地霊殿にいる空に会いにいく――チルノは突然そう言い出した。
 妖怪の山での出来事にショックを受けたのはフランドールだけではない。空もそうだ。彼女の場合は、十分に相談に乗れないまま地底に帰らなければならなかった。

 ――落ち込んでいる友達が二人いる。
 ――どちらも放っておくことは出来ない。
 ――だったら、二人とも一緒に元気付けよう! あたいったら天才ね!

 チルノはそう考えたようだった。
 正確には空に会いにいくだけではなく、『地霊殿に行って、空を連れ出し、一緒にフランの所へ遊びにいく』といったところまで断言したのだ。
 断言とは即ち、チルノの中でこれらの行動は既に決定事項だということである。
 この無茶な思いつきに対する理路整然とした反対意見が、何の効果も及ぼさないことを、付き合いの長い橙は最初から悟ってしまっていた。
 かといって、チルノを放置して離れることも出来ない。
 橙は以前フランドールが言っていたことを思い出していた。

 ――チルノは、わたしを引っ張ってくれるんだ。

 なるほど。
 痛いほど実感する。

 ――引っ張るっていうか、引き摺られてるんだけど。

 橙はもう一度ため息を吐いた。
 最近、すっかり癖のようになってしまった気がする。

「……まあ、フランの為に何かしたいってのはわたしも一緒だけど」

 落ち込んでいる友達の為に何かしてやろうと行動するチルノの気持ちを、分からないわけではない。
 むしろ、よく分かる。
 そういった意味では、行動を躊躇う自分の代わりにチルノが先導してくれているような気さえした。
 もちろん、突飛な思いつきの結果自分に巡ってくる無茶振りのせいで、全然感謝する気にはなれないのだが。
 今もそうだった。
 地底への入り口がある場所は、一度そこを通ったチルノが覚えていた。
 現在、二人が前にしている大穴がそれである。
 妖精にしては驚くべき記憶力だったが、地底へ行く為には、更にその入り口に張られた強力な結界を通り抜けなければならない。
 地底と地上を妖怪が行き来しない為の結界は、妖精であるチルノに対する効果は怪しいが、橙に対しては明確に働く。
 何よりも、空を地上に連れていくのならば、やはり結界を潜り抜けなければならない。
 結界そのものを解除することは絶対に不可能。むしろ、万が一そんな真似をしようものならば、結界の管理者から死という名の処罰を下されるだろう。
 残された手段は、正攻法によって通り抜けることだけだった。
 チルノが先代巫女と共にそうしたように。
 空が無断でそうしたように。
 八雲紫と古明地さとりだけが発行出来る結界の通行許可証を持って、通り抜けることである。

「それで、橙。準備は出来た?」
「多分、これで行けると思うけど……」

 橙は自信無さげに、自らが作った二枚の符を取り出した。
 それ自体には何の力も宿っていない符である。
 ただ、これを持っている者が通行を許可された存在だと結界が認識するように仕組まれただけの符だった。

「っていうか、これ仮に上手くいったとしても偽造……藍様に殴られるだけで済めばいいけど……」
「そん時はあたいも一緒に謝るわよ! 心配すんな!」

 そう言って笑うチルノの顔を見て、橙は諦めたように肩を落とした。
 全く割に合わない貧乏くじだ。
 しかし、諦めは決断でもあった。
 気を取り直して顔を上げた時、橙の瞳にもはや迷いはなかった。

「じゃあ、覚悟きめて行きますか」
「行こう!」

 二人は同時に足を踏み出した。
 地底に向けて――。



<元ネタ解説>

・レガート・ブルーサマーズ

漫画「トライガン」「トライガン・マキシマム」に登場した敵役。
極細の糸を対象の神経に通して操る技を持つ。全身不随になった『自分自身』さえ操れる。
初期から登場し、その能力の一端を何度も垣間見せながら、実に最終決戦まで技の明確な原理が見破られず、また明らかになった後も自力で防ぐ手段すらなかった強敵。そして、何よりも恐ろしいのが当人の狂気。まさに皆のトラウマ。