朝鮮やシナの本質見抜いた西郷


 誤解の専(もつぱ)らは、士族の不平不満の解消策としての朝鮮との開戦であり、そのきっかけとして西郷自らが殺されての口実作りの二点であり、後者は板垣宛西郷の文面を証拠とするが、強硬派を諫(いさ)める為の方便であることは明白である。
日本の軍艦雲揚号を朝鮮が砲撃して勃発した江華島事件を描いた錦絵
 他の単純な征韓論者の中味と西郷のそれとは性格が異なる。

 西郷は既に側近を朝鮮に派遣して情報収集まで行っていた。

 その上で「本当の文明ならば、未開の国に対しては慈愛を本とし、開国に導くべきだが、欧米列強は未開蒙昧(もうまい)の国に対するほど、むごく残忍なことをして自らを利している」と、西洋文明の本質を説き、正道(せいどう)、有道(ゆうどう)を踏むべき方向を指し示し、アジア諸国と結んで西欧列強に対抗すべきであると、あの「一日会えば一日分惚れられる人」と言わしめた西郷が出向いて説いていれば、いっかな頑陋(がんろう)不明な朝鮮と雖(いえど)も、もしやと思わせるが、大和家に於いては征韓論は容れられず、西郷達は下野することとなる。

 その後の日韓の不幸を避けられたかもしれないひとつのチャンスはここに失われた。

 西郷の正しさは二年後の日本軍艦、雲揚(うんよう)号を朝鮮が砲撃した江華島(こうかとう)事件で証明される。

 正当防衛ではあったが、結果としてペリーがやった砲艦外交に日本も愚を重ねた。
CORE20
仏の漫画家ビゴーによる朝鮮(COR●E)をめぐる日、清、露に対する風刺画(明治20年)
※●は「E」の上に「ノ」
 骨のある抵抗なら続ければ良いと思うが、元より先の嫌がらせ同様に思い付きの砲撃であったから、掌(てのひら)を返すように日朝修好条規が締結されることになる。

 これを知った西郷は、「天理に於いてまさに恥ずべき」と、ペリー同様の軍事的威嚇は断じて避けるべきであったと叱る。

 ここにも西郷の征韓論の本質が覗く。

 福沢も「大久保らの、かつての征韓論反対は何んであったのか」と批判した。
日清戦争の緒戦となった興宣大院君を担いでの朝鮮王宮占拠の様子(吉村卯太郎画『日清戦争画帖』明治27)
 朝鮮側は自らが先に砲撃したことには頬被(ほおかぶ)りを決め込み、砲艦外交をやられた屈辱感だけを忘れないという、今に変わらぬ例の癖を見せる。

 清家も金家もやる気が無いどころか、事態の重大さに気付かず、洋の技術を最短で学習して対抗せんと焦る大和家を、やれ洋夷じゃ、それ裏切りよと的外れに罵(のの)しる始末。

 清家には〈華夷(かい)秩序〉なる家訓があって、つまり自らは中華帝国として君臨し、一夷(えびす)(蛮族)とする周辺国は朝貢し我が保護下にあるべきだと勝手に思い込んでいる。

 特に朝鮮は属国と見做(みな)してそのままにして、本来の敵が西欧列強であるのに、日本叩きに出る清家の時代音痴ぶりは如何んともし難い。

 いつまでも属国と見做される金家も金家で、元は清家の庇護の元にあり、その期間は二千年もの長きに亘っているから、宗主国、いや親分のいう事につい従いたくなるのは、刷り込まれた下僕根性という他はない。

 ここまでも譬えは乱れに乱れたが、四つの国の立場を手ばやく説明する役目は一応終えたとして、ここから通常の表記に戻す。
「大鳥公使、大院君に改革を協議の図」(耕書堂『日清戦争漫画』明治28)

日清戦争は野蛮に対する文明の義務


 ついに、日清戦争が勃発する。

 三国で組んで西欧列強に対抗する筈(はず)が、組むべき三国の二国が戦うというのだから、欧米から見ればアジアの同志討ち、内部紛争の如きに見てとって嗤(わら)った。

 嗤われようとも怒るべきときは怒るべきである。

 福沢諭吉も怒った。

 「かの頑陋不明なるシナ人の為に戦さを挑まれ、わが日本国民は自国の栄誉の為、東洋文明の先導者として、これに応ぜざるを得ず」と、日清戦争について記す。

 福沢の論に内村鑑三も「日清間の戦いは、野蛮に対する文明の義務である」と筆先を揃(そろ)えた。

 清側の言い分は、属国朝鮮の独立など認めてたまるものかと、あくまで前近代的で、ついにはヒステリックに軍事力に頼ったものである。

 朝鮮に頼まれた訳 でもなく、良かれと思った理想の元が、自国の危機脱出であってみれば、代理戦争の性格についての説明を加えても虚しい。

 日本の誇る英傑、かの西郷までが西南戦争で命を落とした理由が朝鮮問題と縁浅からずと呟(つぶや)いても、今となってはこれも虚しい。

 正道、有道なる理想の道を貫き、西欧による植民地化の怖れはあったとしても、日本一国で立つべきであった。

 何故か、西郷も福沢も、隣国二つがまさかそこまでの腑抜けとは知らず判らず、人好しにもつい同じアジアと期待し仲間と見た。

 学習しさえすれば、日本がそうであったように、朝鮮もきっとそうなると考えたが、国柄というものを見落とした。

 朝鮮にも、金玉均や朴泳孝という西欧列強の横暴に危機感を募らせて、日本と結んで近代化を画策した若手改革派がいない訳ではなかった。
露海軍旅順艦隊を旅順湾に閉じ込めた「第三回旅順港口閉塞」図(若林欽画『日露海戦画帖』明治39)
 福沢は自らの慶應義塾に多くの朝鮮人、清国人の留学生を受け入れたり、先を見越してハングル表記の新聞発刊の為の印刷機を贈ったりと、物心両面の援助を惜しまなかったが、清国によって多くの進歩派は弾圧され続ける。

 凡(およ)そ世界状勢の変化と、自国に対する危機感に関して当時のこの二国の理解力はゼロであったと言い切って良い。

 朝鮮政府による刺客によって金玉均が暗殺され、その遺体が切り刻まれて晒(さら)されるという無惨を知るに及んで福沢が書いたのが『脱亜論』であった。

 「悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於(おい)て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」福沢は因循固陋(いんじゅんころう)なる清国や朝鮮の思考と体質に協力と努力を重ねた揚句(あげく)、心底絶望したのである。

 両国の本質は今も変わっていないように思うが、どうか。

 弱体化の止まらない清国に、さすがに鈍感な朝鮮も気付きはしたが、彼の国らしいといえばそれ迄だが、奇天烈(きてれつ)なアイデアを思い付く。

 何んと、最大の脅威である筈のロシアに対して不凍港の租借を代償に、軍事的保護を求めるというスットコドッコイ振りに、あの清国すらも慌(あわ)て、日本は更に驚いた。

 日清戦争に至る要因の専らは、そも不凍港を獲得したく思うロシアの南下政策にあった。

 不凍港の次は朝鮮半島がターゲットになるのは赤児にも判る予測であろうに、はたして後先を考えずに泣きわめいて敵の懐ろに飛び込むというあはれ。

 半島がロシアの手に落ちれば、次なる目標は海を挟んだ日本である。

 これを危うしと感じたのも、自国の都合よと言われればそれ迄だが、世界の構図など元は国々の勝手な都合で成り立ってきた。

 滅茶苦茶な都合で、朝鮮が他国を危機に陥(おとしい)れるなら、これを阻止するのもこっちの都合だろう。