黒鉄ヒロシ(漫画家)






極東町内の四軒の家々とは…


 弁解したところで詮無く、また、するつもりもないが、韓国問題を考える時、日本人はどうやらスタート地点の選択を間違えていたように思う。

 譬(たと)えは乱暴でも、ここを押さえておかないと続く後輩達も我々同様のミスを犯す可能性が残る。

 四カ国、つまり日本、韓国、中国、ロシアの位置関係と特質をそれぞれ一軒の家として見直してみるところから始めたい。

 まず、水の上に一軒の家がある。日本である。大和家とする。

 少し離れたところに今一軒の家がある。朝鮮である。金(キム)さんの家。この一軒は後に二軒に分断されるが、この時点ではまだひとつにまとまっている。

 更に今一軒がその先にあって、これが敷地面積の広い、造作はともかくやたらにデカイ家で、意味なく威張って何故か昔から尊大である。中国であり、態度の理由は中華思想。今は漢さんが住んでいるが、昔は「清」という表札が掛かっていた。

 北の方角に、譬える最後の一軒がある。

 これまた馬鹿デカイ家だが、北向きに建てられており、何かにつけ寒さが付き纏(まと)うので、常に南の方の土地を手に入れたいと考えている。もちろんロシアで、イワンの家。

 とり敢(あ)えず、この東アジア、いや、この町内は以上の四軒で成り立っている。

 この四軒がゴチャゴチャと何かと揉(も)めるのは、寒さを動機に最北の一軒が動くのが専らである。

 後(のち)に大和家とイワン家が一家を挙げての大喧嘩に発展―譬えを歴史に直せば日露戦争の原因も同様であった。

 譬え話は、その日露戦争の前、更にその前の日清戦争の辺りから始まる。

 この四軒以外にも〈地球町〉には当然に他にも家はあって、漢さんが住みつく前の清(しん)さんの時代にこれを攻めたものがある。

 イギリスであり、歴史で見れば阿片戦争で、ま、チャーチル家としておく。

 阿片戦争は二度もあって、後の方にはドゴール家(フランスですね)もしゃしゃり出て、清さんから多額の賠償金をせしめた。

 この時、戦争には加わらなかったが、ルーズベルト家(アメリカ)もイワン家もドサクサに紛れて清さんに対し様々な特権と土地の一部の割譲を認めさせた。

 特にヒドイのはチャーチル家で、この海賊のやり口としか思えない暴挙を知った大和家は大騒ぎとなった。

 彼等の手口には法も正義もあったものではない。

 圧倒的な武力、元い腕力でチャーチル家は清さんを一方的にぶん殴り家財は強奪するワ、土地は分捕るワで、まるで強盗そのもの。

 困惑の余り大和家内で大揉めに揉めているところへ、ルーズベルト家の使者としてペリーがやってきて閉め切った雨戸を激しく叩いて開けろとわめく。

 大和家では、当時の家長(徳川である)が取り替わる事態にまで発展する。

〝隣家〟めぐり明治政府に政変


 再出発を決めた大和家では家訓も単なる大和魂に、和魂洋才を加え、何んとかチャーチルやルーズベルトにぶん殴られる事態だけは避けることができたが、奇妙な約束だけは押しつけられた。

 長く悩むことになる不平等条約である。

 清さんも金さんも殴られるだけ殴られて、血だらけでもはや歩行も困難な有様。

 イワンの身勝手な寒がりは続く。

 チャーチルに加えてドゴールやハンス(ドイツ)までが見倣(なら)って三軒を狙って遠くから押し寄せる。

 あのですね、いちいち律儀に譬えるのも煩雑に過ぎるし、書くべきことは他にあって、かといって譬え終わらないと先に進めないので表記がところどころ継(つ)ぎ接(は)ぎになる点はご寛恕(かんじょ)を願う。

 チャーチル家、ドゴール家、ハンス家など西欧列強の帝国主義的なアジア戦略に対して、勝海舟や西郷隆盛は対抗策として、神戸、対馬、釜山、天津などに海軍の本拠地を置き、日、韓、清の三国による合従連衡(がっしょうれんこう)を構想するに至る。

 チャーチル家、ドゴール家、ハンス家が組んだ白人強盗団に対して、大和家と金家と清家で対抗せんとのアイデアを提案した訳である。

 この三家の合従連衡案は大和家以外の理解力と能力の不足によって頓挫する。

 能力に含まれるものかは考えようだが、当時の金家の大和家に対する非礼は度が過ぎた。
列強や朝鮮の本質を見抜いていた
西郷隆盛
(東大法学部明治新聞雑誌文庫所蔵)

 要は夜郎自大(やろうじだい)にして世間知らずの田舎者ということなのだが、一家の上から下までがそうなのだから、特に誇り高き武士(もののふ)出身の新たな指導者で占められた大和家では耐え難い屈辱として受け取った。

 金家の最上位にある大院君からして、大和家が新政府樹立を報(しら)せる国書を送った際には、この受け取りを拒否するという無礼で応えている。

 如何に前近代的にして外交に無知とは言え、品無きを通り越した蛮族の所業である。

 上が上なら下も下で、以後金家では根拠もなく「大和家は禽獣(きんじゅう)にも劣る」として、大和家よりの正式な使節を粗末な小屋に待たせてみたり、公衆の面前で辱(はずか)しめるような高圧的な態度を取り続ける。

 彼(か)の民族の、いや金家の家風であるか、調子に乗り易いというか、発想が幼稚なのか、大和家の公館への正当な食料の供給を拒否してみたり、門前に謂(いわ)れなき侮辱を書き連ねた文書を貼り出したりと、愚行は止まらない。

 現在の慰安婦とやらの像の設置によく似たり。やはり家風であるか。

 そんな折、つまり明治6年(1873)に、明治新政府内に於いて政変が勃発する。

 遣欧使節として欧米視察から帰国した大久保利通、岩倉具視、伊藤博文、木戸孝允(たかよし)らと、留守政府側の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣らが対立したいわゆる「征韓論政変」である。

 この後に述べる日清戦争同様に、西郷のこの「征韓論」を、今も多くの日本人が誤解したままであるようだ。