たまらなく暑いですねえ。この春に初めて本格的な花粉症を発症した私は、なぜだかこの夏、屋内から出て熱い外気に接すると鼻づまりの症状が出るようになりました。医者によると、温度でアレルギー症状が出る人もいるということですが、全く困った話です。
で、本日は、この週末・週明けの新聞各紙と雑誌の記事をチェックしていて、少し思うところがあったのでここに記します。といっても、まあただの他愛ない感想なのですが、いつもそんなもんだと言われればそうなので、とにかくまあ、何はともあれそういうことです。
まず、週刊東洋経済の「FOCUS政治」欄を読んでいたところ、例の民主党応援団の筆頭格で、アレとも長年の付き合いで個人的にも比較的親しいという山口二郎北大教授が、こんなことを書いていました。
《3.11以来、私は菅首相の下に政治家が結束し、困難に取り組むべきだと主張してきた。そして、野党や小沢グループの権力闘争を国民不在の愚行と批判してきた。しかし、自民党の参議院議員を政務官に引き抜くなど、菅首相自身が政局をもてあそんで、民主党の結束を壊している。こうなると、野党や小沢グループだけを責めるわけにはいかない。》
…山口氏のこの文章からは、未曾有の国難であるから、与野党は諍いをせずに被災地のために働くべきだと言ってきたけれども、アレがあまりにもアレなんで、アレだなあという部分的な持論撤回が見られます。甚だ不十分・不徹底ではあるけれど、アレがアレであるということを少しは認めざるを得なくなってきたのでしょうね。だってアレだもんな。
次に、新聞界広し(実は狭い)といえども、彼ほど熱心にアレ擁護の論陣を張ってきた人物は他には見当たらないとされる毎日新聞の与良正男論説副委員長が、10日付毎日のコラム「反射鏡」に書いたものを引用します。
《この非常時、政局にかまけている場合ではないとずっと批判してきた私も、もはや菅政権には限界を感じる。だが、菅首相が交代すれば政治が大きく変わると考えるのは幻想だ。「菅首相が居座るから進まない」というのも肝心なことを決められない弁明でしかない。》
…与良氏の場合は、一応、このままでは政治は立ち行かないということまでは認めるけれど、これまで自分が言ってきたことは正しいんだ、という主張でしょうか。この後に及んで潔くないという点では、アレとどこか似たものを感じます(これはさすがに失礼でしょうか。アレと一緒にするなという論点なら素直に謝ります)。でも、多くの人はとにかくアレではダメだと言っているわけで、与良氏のいうような幻想にとらわれているとは思いません。
で、私はこの二つの文章を続けて読んで、少し大げさですが、ああ、そうだったのかと自身のもやもやが溶ける思いがしたのです。私自身も、東日本大震災の発生直後は、アレを批判するのはしばらく控えよう、日本が心を一つにして国難に立ち向かえる環境づくりに協力しようと考えていたのですが、3日も経つころにはアレのあまりにひどい言動、姿勢を見て悔い改め、アレについては国難であり、かつその国難がしばらく続くからこそ、できるだけ早い時期に代えるべきだと確信していました。
この同じ事実、実態を見ていてどうして山口氏や与良氏とこうも考えが交わらないのか。理由はいくつもあるでしょうし、そもそもみんなそれぞれ考え方、物の見方が違って当然といえば当然なのですが、本日になってようやく、すとんと胸に落ちたのでした。
まず、今回の大震災について、本当に深刻にとらえ、真剣に立ち向かわないといけない「非常事態」であると認識とている点では誰しも一致しています。ただ、彼らはアレそのものが、深刻に実害をもたらす危険物であり、真剣に立ち向かわないといけない「非常の人災」であるとの理解が決定的に足りなかったわけですね。
だから、非常時には非常時の対応をしろと求める一方で、「非常の人災」の下に一致団結して協力しろなんていう平時の論理をふりかざしていたわけです。私はこの「非常」に関する彼らの矛盾した態度が理解できなかったのですが、彼らはアレがそんな生やさしいもの、人がましいものではないということが、どうしても認識できなかったのですね。で、今ごろになってしぶしぶ一部分だけ、悔しそうに不服そうに認めると。
また、彼らは、アレに対する正当な批判とアレに何とかその地位から降りて復旧・復興の邪魔をこれ以上しないでほしいという切なる願いも、単なる権力闘争や政局ととらえていたようです。この4カ月にアレが何をしたかを冷静に振り返り、アレがあそこにいることが「百害あって一利なし」であることは、アレの元女房役の柳腰姐さんさえ認めているのに。
アレに対する内閣不信任決議案の趣旨説明をみても、今回の件がいつもの政局であるはずはないのに。もちろん、それぞれの党利党略、私利私略があるのは当然ですが、もっと切実に、アレが居座っていると救われる人も救われない、何より社会正義にも人の道にも反するという声が噴出していたのに、どうしてアレの正体を直視しないのか。私は6月4日付の産経紙面にこう書きました。
《退陣を迫る与野党議員に政治的思惑があるのは間違いないが、それだけではない。良心と道理に従えば首相にくみすることができない。お天道さまが許さない。素直にそう考えた議員は少なくない。》
アレは平気で嘘をつき、国民も同志・仲間もペテンにかけ、情報を隠蔽し、作業を遅延させ、人々のやる気をなくし、周囲に罵声を浴びせ、組織の円滑な活動を阻害し、経済活動を破壊し、社会にアパシーとアノミーを蔓延させ、秩序を壊し、それでいて自信たっぷりに、被災者を人質にとるようにして官邸に立てこもっているわけです。
そしてアレがそういう存在であることは、少なくとも昨年9月の中国漁船衝突事件の時点では、かなり明確に分かっていたことであると考えます。与良氏は、アレを代えよと求める人に対しては「幻想だ」と決めつけているのに、一方で「アレの下で与野党が一致結束して取り組むべきだ」というもう一つの、もっと非現実的で非倫理的な「幻想」には固執し続ける矛盾をおかしているように私には見えるのです。
確かに、マキャベリはこう述べています。
《君主はよい気質を、なにからなにまで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である》
ただ、アレの場合は、肝心の備えていると見せること自体に大失敗していて、国会で追及されただけでも「心がない」「誠がない」「徳がない」「信がない」……とあらゆる「徳」の欠如を底の底まで見透かされて現に指摘されている存在です。そして、何を言われても「私なりに」とか「私としては」とか常に自分中心の答弁をしています。それなのに、与良氏はコラムでこうも書いています。
《一体、誰のための政治か。すべての国会議員が責任を自覚しない限りは新首相が誕生しても、すぐさま足の引っ張り合いを始めるだけだろう。》
私も、首相が代わっても、やはり政争も足の引っ張り合いも続くだろうとは思います。ただ、その前段にある「一体、誰のための政治か」という問いに、こう言いたいのです。
「今はまさしく、アレ一人のための政治になっているじゃないか!」と。国民不在の「アレのアレによるアレのための政治」と堕しているのが今の日本の現状だと思うのです。それに、責任ある議員たちが「ノー」というのは当然であり、むしろ義務だと。そう信じます。