2015年05月06日 (水)
視点・論点 「シリーズ・人生再出発 回り道はムダじゃない」
元プロ野球選手 佐藤隆彦
佐藤隆彦です。昨年までは、GG佐藤というプロ野球選手でした。試合後のヒーローインタビューで、「キモティ~」と叫んでいた選手だといえば、覚えておられる方もいるでしょうか。北京オリンピックという大舞台で、3つもエラーした選手だと申し上げたほうが、思い出してもらえるかもしれません。
私は昨年の秋、千葉ロッテ・マリーンズから戦力外通告を受けて、いまは会社員として営業の仕事をしています。球団から「契約しない」と告げられたとき、それを自分でも意外なくらい冷静に受け止められたのは、36年の人生で、じつに四回目のリストラだったからです。
このことでお分かりのように、私は決して野球エリートだったわけではありません。甲子園には出場していませんし、大学時代もバリバリの補欠でした。
今日は、こんな私の回り道だらけの野球人生についてお話します。
最初の回り道はアメリカ行きでした。大学時代、活躍できなかった私を指名する日本の球団はなかったので、野球を続けるため、アメリカのチームの入団テストを受けました。すると「肩がいいから、キャッチャーをやるのなら契約する」と言われたのです。
内野手だった私は、キャッチャーなんか一回もしたことがありません。でも、そこで「イエス」と言わなければ何も始まらないのです。不安はありましたが、この決断は正解でした。日本にいたときとは違い、アメリカでは、ほぼ毎日、試合に出られたので、自分でも、どんどん成長していることが分かりました。
とはいえ、アメリカに行ってすぐは、とても大変でした。メジャーリーグの、下の、下の、さらに下のチームに加わったのですが、想像以上に練習は厳しいし、英語が話せないから、話し相手もいません。いつも一人ぼっちで、練習が終わると、タメ息をついて下ばかり見ていました。すると、目に入ってくるのは、地面を走り回っているトカゲばかり。キャンプ地のフロリダ州には、たくさんいるのです。もう、心の底からイヤになり、アメリカにきたことを後悔しました。
ところが、ある日、練習後の帰り道に夜空を見上げたら、きれいな星が空いっぱいに輝いていたのです。それを見て、「俺はアメリカで野球をやっているんだ」という充実感が湧いてきました。つらいときこそ、うつむかない。このことは今も心がけています。
このアメリカでの生活は3年で終わりました。慣れないキャッチャーで肩を痛めた私は、チームから放り出されてしまったのです。でも、アメリカで成長できたという自信があったので、腕試しに西武ライオンズの入団テストを受けところ、なんと合格したのです。
合格の理由は、私がキャッチャーだったからです。当時の西武は、不動のレギュラーだった伊東勤さんが監督に就任したため、まだポジションが埋まっていなかったのです。アメリカに行くためキャッチャーになったのですが、それが結果的に日本のプロ野球への門を開いてくれました。
もし、進学や就職活動が希望通りにいかず、悩んでいる人がいたら、まずは今の環境でベストを尽くしてみたらどうですか、と伝えたいです。そのまわり道が、じつは自分の夢につながるかもしれません。
夢がかなってプロ野球選手になりましたが、すぐにキャッチャーではダメ出しをされて、結局、外野手になりました。それでも自分の売り物であるバッティングでは、よき監督、コーチに恵まれたおかげで、順調に成績も伸びていきました。オールスターにも出場しましたし、北京オリンピックの日本代表にも選ばれました。
まさに野球人生の絶頂でした。ところが、その絶頂期に、やってしまいました。オリンピックという大舞台で、2試合つづけて、敗戦につながるエラーをしてしまったのです。このときも心の底から落ちこみましたが、本当にツラかったのは、それから3年後でした。
エラーの翌年は、大失敗を挽回しようと気持ちが張りつめていたので、自己ベストの成績を残すことができました。ところが、その次のシーズンは、オーバーワークのために体中に痛みがあり、まったく調子があがりませんでした。シーズン後には3か所を手術しました。
あのエラーから3年。私はケガからの復活しようと、必死で練習しました。深夜まで筋肉トレーニングをして、そのあとは明け方まで素振り、という生活を続けていたのです。ところが、ついに限界がきてしまいました。朝、起きると、胸の動悸がおさまらず、救急車で病院へかつぎこまれました。それから体を動かすのが怖くなり、完全に気力を失ってしまいました。そのシーズンが終わったとき、私は、「もう来年は契約しない」と告げられました。
西武を離れた私は、新天地イタリアへ向かいました。ラテンの陽気な国で野球をやれば、また野球が好きになれると思ったのです。「野球よ、ありがとう。最高だったよ」と言って、引退したかったのです。
ご存じのように、イタリアはサッカーが中心で、野球のことを知る人は、ほとんどいません。これまで、野球が人生のすべてだった私は、野球がちっぽけな国に住んだことで、「野球がすべてではないんだ」と、世界が広がりました。
イタリアから帰国して、千葉ロッテの入団テストを受けたとき、肩の力が抜けていたのは、「ここでヒットが打てなくても死ぬわけじゃない」と、思えるようになったからです。気力を失い、イタリアへ渡った日々は、アスリートとしてはマイナスなのかもしれません。でも、人間としては、多くのことを学ぶことができたと思います。
ここまでお話してきたように、30年におよぶ野球生活の中で、私は何度も回り道をしました。でも、どれも自分にとってはプラスでした。回り道にムダはなかったな、と思います。
いま、野球から離れた私は、スーツを着てネクタイをしめ、新たな取引先を求めて歩き回る毎日を送っています。いまの目標はマンガの島耕作のようなスーパー・サラリーマンです。「なにを妄想しているんだ」と笑われそうですが、私は理想の自分を強く思い浮かべることで、プロ野球選手になりました。新しい人生でも、大きな目標に向かっていきたいと思っています。
私はいま36才。人生を野球の試合にたとえると、まだ4回です。半分も終わっていません。これからビジネスの世界でもホームランを打てると信じています。もしかしたら、「プロ野球選手だったことは、ビジネスマンとしては回り道だったかもしれないけど、成功するためには必要な経験だったね」と言われる日が来るかもしれません。
みなさんも、一緒に夢を目指しましょう。最後にこう叫んで終わります。
「人生って、キモティー!」