無為療法 禅の講義


西嶋和夫著の「仏教問答」から
問い:「座禅をすれば、即坐に我々は自分達の気持ちを正しい状態に置く事が出来るのですか」
答え:「そうだ。座禅をやりさえすれば、それを始めた瞬間から、我々は我々の心を仏教が最高と考えている状態に持っていくことが出切る。道元禅師はそのことを、「初心の弁道、すなわち本証の全体なり」と言われている。初心者が始めて行う座禅もまた、本質的な体験の全体その物であるという意味だ」
これを斎藤療法で言い直せば、
問い:「雑用をすれば即坐に神経症の外側に出られるのですか」
答え:「その通り。雑用をすればその瞬間に神経症の世界から一足飛びに健康世界に移る。初心者が今雑用を開始したとして、その経験は神経症が治った斎藤と同じものである。
ここの所を宇佐先生は全治は一瞬であると説いた。ただし、正確には、全治ではなくブレインロックが外れると言うべきです。ブレインロックが外れるとは、貴方がいきなり誰かに呼ばれて肩をたたかれたとする。おやと振り返り、相手の顔を見た瞬間は、どんな神経症者でもブレインロックが外れている。ただし外れただけであり、直ぐ数秒後には又ロックがかかる。

雑用の場合、神経症者は大抵上手く行かない。しかし我慢してやっていると何時しか雑用の中に入っていく。その時、既に神経症の外側の世界であり、「本証の全体なり」に入ってきている。これを斎藤療法の悟りの世界と言おう。

悟りとは大それた響きがあるが、禅匠が説く様に、ざるで水を汲むようなものだ。幾ら汲んでも水は漏れてたまらない。言葉のない世界であり、不立文字の世界だ。神経症真っ盛りの人は、雑用に入り時間が流れた瞬間に”神経症が治った”と言うがこれは囚われである。悟りとは止めて測定したり、得意げに説明するものではない。

禅僧が悟りを求めて何十年も座禅に打ち込むように、神経症者が雑用を10年もやっていると、言葉にならない悟りを体験するようになる。そこは自由な世界であり、喜び、不安、希望なんでもありであるが、不思議と停止することなしに前進している。



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