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■人類の智恵から見る危機感
既成事実を作りさえすれば、なし崩しで事が運ぶ。そんな記事が今日も躍る。「この道」は、いつか来た道。それを振り返るのに好適な書物が、北岡伸一『清沢洌』である。戦前に在野の外交評論家として活躍した清沢洌の評伝。歴史家としての著者本来の美質がよく現れている。
印象的なのは、清沢が、外交関係を単純な構図で一元化することを、批判し続けたという事実。欧州と南米とアジアとでは異なる外交原則で臨む米国に対しては、その矛盾をつく外交によって対処すべきだというのが、彼の持論だった。グローバルな対米牽制(けんせい)策である(独伊との)三国同盟路線にのめり込んで、外交関係が一元化されてしまえば、中国の方を向いていたはずの日本も、必ずや欧州での対立構図に「巻き込まれ」て、対米開戦を余儀なくされる、と。歴史は、清沢の卓見通りに動いた。
本書の著者は、安保法制懇の座長代理としての活躍でも知られる。「切れ目のない安全保障」と引き換えに、日米同盟路線を地球規模にまで拡大させつつある安倍政権や、そのトリガー役を務めた著者が、果たして清沢の批判に耐え得るかどうか。本書は最良の点検材料になる。
■権力の膨張は常
しかし、なし崩しに膨張するのは権力の常。これに歯止めをかける人類の智恵(ちえ)が立憲主義である。20世紀に入りソ連がそして独伊が立憲主義を否定し、日本もこれに続いたが、結果は悲惨なものだった。反省を踏まえて、立憲主義は再び地球規模に拡(ひろ)がり、今世紀に至る。
そうした世界史的歩みのなかで、最重要のマイルストーンとなったのが、極東の地で立憲主義を定着させた日本国憲法だ。憲法記念日の今日こそ、改憲論議によって立憲主義そのものを押し流してしまわぬよう、広い視野で憲法を捉え直してみたい。そのためには佐藤幸治『立憲主義について』を。
著者は、かつて圧倒的な支持を受けた基本書『憲法』(青林書院・品切れ)で知られ、橋本行革の省庁改革や、裁判員制度等を実現した司法改革を、政権内部でリードした憲法学の泰斗。官僚支配に抗して個人の人格的自律を尊重する「この国のかたち」を追求した。その一方で、左右のイデオロギー対立のいずれにも与(くみ)せず、現実主義的な憲法9条解釈を説いた。1996年からの放送大学の講義(『国家と人間』)では、改憲・加憲の可能性を否定せず、むしろ北岡伸一説に近い国際政治観が示された。
そうした著者が、当時の印刷教材を抜本的に再編してまで、立憲主義の歴史的理解の必要性を訴えている。本書の端々から伝わる著者の強い危機感は、現政権が立憲主義の軌道から外れつつあることの傍証である。
■政府批判の封殺
省みて本年は、天皇機関説事件の80周年。美濃部達吉に代表される立憲主義憲法学が弾圧され、日本政治から立憲主義のタガが外れた記念年である。ここから敗戦までわずかに10年。その間政府批判の言論が封殺されてゆく過程は、2年後の矢内原事件を扱った将基面貴巳『言論抑圧』に詳しい。誰が真に「亡国」をもたらした「学匪(がくひ)」であったかは明らかだろう。
帝国大学教授たちの受難は、国民全体にとってもひとごとではなかった。冷ややかに観(み)ていた在野の清沢洌も、あっという間に言論の自由を奪われた。すべては立憲主義の軌道を外れたことが原因だ。本年が、80年前と同様の記念年として記録されることのないよう、政治の行方を注視していたいものである。
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いしかわ・けんじ 東京大学教授(憲法学) 62年生まれ。『自由と特権の距離』