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 肺炎の末に今年2月、78歳で亡くなった元最高裁判事の滝井繁男さんは弁護士業のかたわら、関西大法科大学院で特別顧問教授を務めていました。4月3日、司法界をめざす新入生31人に講演する予定でした。その原稿の全文は次の通り(表記は原則、原文のまま)です。

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 ご承知のとおり、法科大学院制度は、2001年発表された司法制度改革審議会意見書をもとに発足した。私は、当時、日弁連において法科大学院の設立運営を支援するという仕事に関わり、大学院でのカリキュラム、テキストの作成や模擬授業のあり方などについて、大学関係者と協議し、共同して作業をしたり、各地で開かれたシンポジウムに参加するなどの機会も得た。

 当時の関係者は熱気に溢(あふ)れており、入学した学生諸君にも新しい時代の司法を担うという気概が感じられ、そこに新しい司法の時代の到来を予感した。

 あれから約10年、法科大学院の受験者は当時の6分の1にまで減ってしまった。当時、法科大学院の描いていた設計図と現実との間に乖離(かいり)のあることは否定できない。今やこの制度について消極的評価をする人も少なくない。そのような中で、法科大学院に入学した皆さんにはここで勉強することに不安があるかもしれない。

 しかし、私は、この制度の選択は間違っていないと信じている。私たちは、今、何故この制度が生まれたのかを再確認し、この制度の目指したものにもっと自信を持ち、推進すべきだと考えている。

 司法制度改革審議会意見書は、21世紀において、わが国が憲法が謳(うた)っているようにこれからの「国際社会において名誉ある地位を占める」ためには、司法の役割を飛躍的に高めなければならないと述べた。そして、そのためには、プロフェッションとしての法曹の質と量を大幅に拡充することが不可欠だと考えた。

 何故そう考えたのか。今まで、法曹が果たしてきた分野での法曹が足りないというよりは、法曹はもっと新しいフィールドで活躍する必要がある、そうでなければこれからのわが国の展望は開けない。そのためには、新しい法曹養成制度の構築がどうしても必要だと考えたのである。

 ところが、現在、法曹人口が増大した面のみがクローズアップされ、法曹が新しい時代に向けて質的側面の改革が必要であると指摘されたことが忘れられているように思える。

 当時、司法試験の実態はどうであったか、そのことにふれた一つの判決がある。「受験生の多くが、論点、解答暗記型の勉強方法を採っており、自分の頭で論理を構成したり、説得的な論述を工夫したりすることなく、覚えた知識を吐き出すだけの答案作成方法を採っている」。そして、「画一的な答案増加のため、受験者の能力判定が年々困難になっており、合格者数の増加ともあいまって、合格者の質の低下を来しているとの認識が考査員に共通の認識になっている」とまでいわれたのである。

 このような試験の状況では、法曹人口を増やしても、21世紀に期待される司法での活躍を期待することは出来ない。従来の仕事のフィールドでもそうであるが、新しいフィールドに活動する法曹を育てるためには、法曹の質の改革は不可欠だったのである。

 そこで、21世紀の司法を担うにふさわしい質の法曹を確保するためにはどうすればよいのか、それは法曹の選抜を司法試験という「点」によるのではなく、法学教育、司法試験、司法修習を有機的に連携させた「プロセス」としての法曹養成制度を整備することが必要であり、その中核として法科大学院を設けることとしたのである。これは、当時の試験の実情からみれば必然のことであった。

 私たちはこのことを今一度確認しなければならないと考えるが、そのためにも重要なことは、この意見書が何故、司法が新しい時代におけるわが国において重要な役割を果たさなければならないと考えたかを確認しておく必要がある。

 わが国司法は、現行憲法の下でその面目を一新し、戦後一定の改革が行われた。また、1960年代には臨時司法制度調査会のもとでも改革提言もなされたことがある。

 しかしながら、わが国においては、旧憲法下、天皇総攬(そうらん)のもとでの分立体制下で、行政に大きな比重がおかれており、司法はもとより立法機関でさえ、官の主導を抑制することは出来なかった。新しい憲法下で三権分立が高らかに謳われたものの、戦前の行政システムの骨格は基本的には変わることはなかった。ほぼ、一貫して一党支配の政治がつづき、政と官が密着した時代がつづいたのである。

 その間高度経済成長がつづいたこともあって、わが国社会はうまくいっているという考えが支配し、三権分立がもつ本来の意味とりわけ司法の果たす役割について深く考えることはなかった。

 しかしながら、バブルがはじけた1990年頃から、このような体制を見直す必要があるという気運が生まれてきた。

 1997年12月に出された行政改革会議は、その最終報告書で「われわれの取り組む行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別(けつべつ)し、自律的個人を基礎とし、国民が統治主体として自ら責任を負う国柄へと結びつくものでなければならない」と述べているのである。そして、行政改革会議意見書は、そのためには、司法制度改革も不可欠だと述べたのである。それにつづいて生まれたのが司法制度改革審議会意見書であり、その意見書は、政治改革、行政改革、その他、わが国が直面する困難な状況の改革の根底におかなければならないのは「国民の一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しなおかつ自由で公正な社会の構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志」であると述べ、統治客体意識からの脱却の必要性を説いたのである。

 そして、意見書は、そのためには「法の精神、法の支配がこの国の血肉」と化すことを願い、司法制度改革は、わが国において必要な一連の改革を憲法のよってたつ基本理念の一つである「法の支配」の下に有機的に結び合わせようとするものであり、この国のかたちの再構築に関する一連の諸革の「最終のかなめ」と位置づけられるべきものであると述べた。

 また、意見書は、身体にたとえて、「政治部門が心臓と動脈に当たるとすれば、司法部門は静脈に当たる」といい、わが国では従前の静脈が過小でなかったかに根本的反省を加え、21世紀のあるべき国のかたちとして司法の規程及び機能を拡大強化し身体の調和と強健化をはからなければならないと述べて、新しい時代における司法の役割を宣明したのである。

 私は、この意見書を読んだとき、司法の一翼で仕事をする者として、司法の新しい時代が来ると感情の昂(たか)ぶりを覚えたものであった。しかし、わが国司法の長い歴史の中で、司法がこれほど大きな役割をもつものとして期待を抱かれたことはない。何よりも、一片の報告書で国民の意職が変わるものでもない。しかし、司法に身をおいて仕事をしようとする以上、そこで仕事をする者がその実現に向けて人一倍努力をしなければならないと思ったのである。

 審議会の佐藤会長は、司法が国民の期待に応えるためには、司法自身が変わらなければならないと述べた。そして、そのためには、三つのFが必要だといっている。

 一つはFast、利用しやすい速い判断が求められること

 二つはFair、公正で力強い頼り甲斐(がい)のあるものになること

 三つはFamiliar、国民に身近でわかりやすいものになること

 そして、制度を生かすのは人である。それを生かすのにふさわしい人を養成しなければならないと考えたのである。そこで生まれたのは法科大学院なのである。

 法曹にとって法律の専門知識は必要であることは言うまでもない。しかし、それは重要ではあるがその一つである。意見書は、21世紀の司法を担う法曹に必要な資質として、ほかに、「豊かな人間性や感受性、幅広い教養、柔軟な思考力、説得・交渉の能力」などをその基本的なものとして求められるとした上で、「社会や人間関係に対する洞察力、人権感覚、先端的法分野や外国法の知見、国際的視野と語学力」などが一層強く求められるようになると述べていることが極めて重要な点である。

 これらの資質は司法試験という「点」ではテストされないものである。したがって、その相当部門を法科大学院で身につけ、少なくともその重要性を感得できるように制度設計が考えられたのである。

 法科大学院では、司法試験科目以外の資質、能力をつけることができるようにカリキュラムを整備すると共に、法科大学院卒業者の相当部分が司法試験に合格できるような仕組みを想定したのである。しかし、現在のところ、残念ながら現実はそのようにはならず、司法試験科目の修得に大部分のエネルギーを投入せざるをえない状況にある。「点」で成果をあげることに集中せざるをえないのが現状である。テストで高いスコアをとった者が法曹として優秀だとみられがちになる。

 しかし、私の修習生時代、私が指導を受けたある高名な裁判官が、議論においてすぐに判例はこうだ、学説はこうだというような者は伸びないという趣旨のことを言われたことがある。当時、私はそのことの意味をよく理解することができなかった。しかし、後にこの裁判官が、「裁判官について一番大切なのはバックボーンである」というテーマで法曹の資質についてこう述べておられるのを読んでその意味を理解したのである。「わたしの多年の経験、見聞によると、いわゆる優等生が必ずしも良い裁判官になれるとは限らない。なぜなら真の裁判は、優等生的な心理、態度では困難だからである。もう少し具体的にいうと、いわゆる優等生の中には――周囲のものからちやほやされるために知らず識(し)らずの間にそうなっているのであろうが――つい、いい気になるもの、いつでもどこでも他から良く思われたがるもの、小手先で要領よく問題を片づけようとするもの、あるいは頭でっかちになり、人間的謙虚さを失うものが往々にみられるが、こんな境地では到底良い裁判などできっこないからである。特にわたしが憂慮するのは、これらの人達は概して頭が良く、自信が強いだけに、裁判の基礎になるのが常に複雑微妙な人間の利害・心理のからむ事実であることを忘れると、安易に自己の尺度で他人のことをはかり、論理的に割り切ることのできない事実まで論理的に割り切り、判断をあやまる虞(おそ)れがあるという点である」

 私は、司法試験という点だけで法曹有資格者を選抜しようとするとき、このような法曹としての資質を欠く人が多く出てくるという危惧が現実化することがさけられないと考えるのである。テストがあるとき、どうしてもそのテストの点数が高い者が優秀だと思われ、本人もその気になり、真に法曹として必要なことを見落としてしまうからである。

 これは、裁判官によって大切なこととして話されたことであるが、全ての法曹にとってあてはまることであり、とりわけ弁護士になろうとする者にとってより重要なことではないかと考える。

 私は、50年以上の実務家として経験をふりかえってみると、試験というのは、実務家としての資質をはかるごく一部のものにすぎないことをしばしば実感することがあるのである。

 実務家は、様々な、教科書には書かれていない、今まで習っていない類の多くの課題に直面することになる。その際、その人の持つ多くの資質を総動員することが求められる。試験で試されたものはその一つであって、それがそのまま役にたつこともあるが決して多くはない。それを基礎として創意と工夫が求められるのである。いわばその人のもっている多くの引き出しの中から解決のための材料を探しだし、それを駆使しなければならないのである。

 試験科目という引き出しの中には一杯詰まっているものがあっても、他の引き出しが空っぽであれば、決していい解決は生まれない。多くの引き出しをもつ、それは教養といってもよいかもしれないが、その広いしっかりした土台があって初めて斬新な考えも生まれてくるのである。

 スティーブ・ジョブズ氏はアップルの製品は教養とテクノロジーの交差点から生まれたといっている。独創的な製品はテクノロジーの世界でもテクノロジーだけで生まれるものではなく、様々な引き出しを持っていてこそ生まれるものだということだ。法的解決も、法律という引き出しだけではいい解決はできないことが多いのである。

 従来の試験という一点で法曹としての有資格者を選んできたのでは、21世紀の社会の期待に応えうるような法曹を育てることはできない、という考えから、これからの法曹は多くの引き出しを用意し、そこで必要なものを詰めこめることができるようにする必要があるという考えで設計されたのが法科大学院である。そのことを肝に銘じてほしい。

 もっとも、法科大学院で、法曹として必要なことの全てを学ぶことができるわけではない。プロを志したものは生涯勉強である。

 ただ、この二年、三年の間に法曹として大成するためには、多くの引き出しを持っていることが必要であり、そこに多くのものを詰める必要があることを知り、そのための端緒を摑(つか)んで欲しいのである。

 実際には、法科大学院で用意している多くのカリキュラムの中で、司法試験科目以外のものについての学生諸君の関心は高くないようである。試験での選抜が厳しいという現実を前にすると、とにかく試験科目にエネルギーを集中したいという気持ちになることは理解できる。

 しかし、新しい制度が何故法曹人口を拡大しなければならないと考えるようになったのかをよく考えて欲しい。それは、多くの法曹は弁護士になるのであるが、その弁護士は、従来とは異なるフィールドで、異なるスタイルで仕事をすることこそが期待されてこの制度が生まれたのだということを肝に銘じて欲しい。

 従来のフィールドは、訴訟を中心とした紛争の事後的解決であった。そこでも、先の裁判官のお話にあったように、試験科目における点数の良さだけでは良い法曹にはなれないとされた。ところが、訴訟でも、最近は理系知識や経済、社会学の知識を必要とするケースが増えてきている。訴訟以外の新しいフィールドではそのことがもっと顕著になるのである。

 例えば、今、社内弁護士を採用する企業が急激に増えつつある。その数は今日まだ1000人そこそこだが、まだ、法曹有資格者を採用している上場企業は三分の一程度だといわれており、今後大幅に増加していくと思われる。その仕事は、外部弁護士との連携であったり、社内の各部門との調整であったりするが、その中で必要となるのは、法律知識ではない。むしろ交渉力であり説得力であり、調整力でもある。その際、力になるのは幅広い教養であることが多い。

 今や、企業活動は急速にグローバル化しており、中小企業でさえ、その仕事を海外に求めつつある。その際、求められるのは外国法の知見である。比較法の知識が独創的な見解を生むこともある。

 今やあらゆる取引で知財法や租税法の知識が不可欠になっている。もとより、それらの分野を極めることは容易ではない。しかし、法科大学院でそれらの端緒を摑んでいるかどうかでちがいがでてくることがある。

 自治体も、従来は上級の自治体や国に多くの解決策を求めてきた。しかし、今は自治体自体で考えることが求められている。住民との関係だけでなく、自治体内部、自治体間、国との関係など、従来必ずしも論じられてこなかったことについての知識が求められてきているのである。

 このようにこれからの法曹に求められているニーズが多様になっているのに現在の法曹養成制度が十分に対応できていないという側面は否定できず、学校側としても一層の努力が必要である。しかし、学生諸君も従来の法曹が働いてこなかったフィールドにこそこれからの法曹のニーズがあることを認識し、そのことを意識して必要だと考えることを積極的に研鑽(けんさん)してほしい。

 そこでは、先例が多くある従来のフィールドにおけると異なり正解が見えないことも多い。しかし、私は、法律家の仕事は世間で考えられているよりはるかにクリエイティブなものだと思っている。そして、それを発見することに学ぶ喜びが生まれるものだと思っている。

 ところで、皆さんは実務家になるには判例を知ることが大事だということで勉強することになる。以前に比べて教科書における判例の占めるスペースも飛躍的に大きくなっている。私も判例を勉強することは大切だと思う。しかし、ジュリストの判例百選を読んで、判例はこうだという風に固定的に考えるような勉強はいかがと思う。

 判例はあくまで具体的な紛争についての解決を示したものである。しかし、紛争の態様は多様である。先例とされる判例が前提とした事実を前提とした結論とそれを導いた論理にのみ目をうばわれて、その紛争に固有の大切な事実を見落とすことがあってはならない。また、その判例の出された時代的背景も無視できない。先にふれた、判例はこうだという人は伸びないという高名な裁判官の指摘は、その様な考えで解決を導こうとする人はその事件に個有の重要な事実を見落とすことがあることからの警告だったのだと思うのである。最高裁の判例集に、一、二審の判決が掲載されているのは、そこで争われるのがどういうことであり、それに対して最高裁がどういう判断をしたかを知ることがその判例の理解に大切だからである。

 一つの判例の射程をどうみるか、見解のわかれるものも少なくない。それらを自分の頭で考え整理するような勉強をしてほしい。そのような思考のくり返しの中で、新しい問題に遭遇した時にヒントとなることも生まれると思うのである。

 覚えた判例についての知識を吐き出して答案を作ればよいと考えるような勉強はして欲しくない。

 これから二、三年間の勉強は厳しいものがある。しかも、首尾よく司法試験に合格しても、そこにバラ色の世界が待っているというわけでもない。その後も研鑽しなければならないことは山ほどある。しかし、それを一つずつのりこえる中で、法律実務家としての醍醐味(だいごみ)を味わえる日はきっとくると思う。

 司法制度改革審議会が司法の役割を高く評価したものの、それから10年の間に、その役割の大きさが目に見えるようにはなっているとはいえない。

 わが国国民は長い間統治客体であることに慣れ、国民主権が宣明されたにもかかわらず統治主体としての自覚を欠いたまま半世紀以上をすごしてきているのである。司法制度改革審議会意見書は統治客体であることから国民が脱却するためにも司法の役割の強化が必要だと述べた。裁判員制度が導入されたのもその一環である。しかし、国民の意識改革は一朝一夕に出来ることではない。

 国民の司法教育が極めて不十分であったことも指摘され、学習指導要領も改められたが、それらの効果が出るのも時間がかかることである。

 しかし、司法の役割とその強化の必要性を説き、そのために法曹養成制度を改革しようとしたことの正しさは疑わない。そのことについての正しさについての確信をもって、佐藤会長がいった三つのFを実現するために努力をすれば、その効果のあらわれる日は必ず来ると信じる。既に、不十分ながら、行政訴訟、とりわけ税務訴訟に一定の変化の兆しがみられる。また、極めて消極的であった大企業間の訴訟が増えつつある。弁護士の仕事の中で訴訟以外のものの占める比率が益々(ますます)大きくなりつつある。しかし、このような新しいフィールドでの仕事で社会の期待に応えるためには、従来問われていなかった資質がより強く求められるのである。大学もそのための努力をつづけなければならないのは勿論(もちろん)であるが、学生諸君もそのことに確信をもって精進して頂きたい。私は法科大学院制度を選んだことの正しさを疑わないが、そのことを証明してくれるのは皆さんの研鑽の仕方である。精進を期待している。