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在家信者たちは、花と音楽と御香をもって、遺体を飾り、その遺体を荼毘に付し、残った遺骨、
つまり「仏舎利」に、再び彼らは花と音楽と御香で供養しています。
そして遺骨を納めた仏塔を作り、その仏塔に詣でては、在りし日の釈尊を偲んでいました。
仏教の史実を紐解いて見ていくと、在家信者たちは釈尊の死を境に、
仏教の教団から離れていったことが読み取れます。
もっとも「離れた」といっても、完全に絶縁したわけではなく、
仏教教団の修行僧が托鉢にくれば、彼らに喜んで布施をしています。
ときには、長老をわが家に招いて、丁重なる供養をする信者もいたでしょう。
こういう行動面だけを見れば、釈尊在世の頃となんら違いはなかったのですが、
精神的な意味での在家信者と仏教教団との結びつきは、だいぶ疎遠になっていたようです。
その原因は、いろんな要因があると思うのですが、一番に挙げられることは、釈尊亡きあと、
仏教教団を構成していた出家者たちが、自分たちだけの問題にしか関心を持たなかったことがその原因の一つです。
彼ら出家者たちは、在家信者の指導を忘れ、教団維持の問題だけに関心が集まっていたのです。
実際、第一結集で経典が作られた動機も、釈尊入滅の報を聞いた時、一人の年老いた弟子の暴言を縁として、
迦葉が釈尊滅後の教団のなかにそうした空気が漂っていると感じ取っていたからです。
偉大な指導者が死んだのだから、直ちに弟子たちが集まって、釈尊の生前を回想し、
その教法を誤りなく後世に伝えようと経典の結集に力を入れたのは当然といえます。
阿難にしても、旧知のバラモンに会った時、
「世尊が亡くなって次の後継者は誰だ」と聞かれます。
阿難は
「友よ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。
かの世尊は、自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方である。
その弟子たるわれらは、世尊の教法を垂範に、後からついていくだけである。
すなわち法の所依がある」(南伝大蔵経第十一巻)と答えたと言います。
つまり「依法不依人」です。
釈尊滅後の第一結集で、教団側が最初にやったことは、釈尊亡き後の教団の意思統一を図り、
教団を維持していくうえで必要なものを優先させたということです。
第一結集によって集成された経典を、絶対のよりどころとして、
彼らはその仏説を「阿含経」と呼び、非常に権威あるものとして大切にしています。
そして不思議なことに、在家信者たちは、釈尊の死を契機として、
いったんは仏教の歴史の舞台から総退場しています。
仏教史の舞台の上には、ただ出家者だけが残っている。そんな状態が約百年以上つづくのです。
次に在家信者たちが仏教の歴史の舞台に登場してくるのは、紀元前ごろからです。
いわゆる大乗仏教の興起とともに、在家信者たちは、再び歴史の舞台の前面に踊り出てくるのです。
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