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釈尊滅後の「教団分裂」は、表面的には「十事の戒律」をめぐる争いのようにみえますが、
その根本は上座部が出家僧中心の閉鎖集団に陥っていたという背景があるようです。
上座部の弟子は、超世俗的な修行に閉じこもり、
釈尊の教えである「経と律」の文々句々をどれだけ多く知っているか、
また出家してからどれだけ多くの年数が経ったかが、
教団内の「阿羅漢(聖者)」と呼ばれる条件となっていました。
しかし、大乗経典では特に「菩薩」のあり方が強調されています。
出家者は自らの解脱をめざすだけでなく、広く大衆を教化するために
「利他行」を積極的になすべきであるというものです。
それに、釈尊自身も出家僧にだけ説法していたのではありません。
当時の上座部の弟子たちは、保守化し、教団内に閉じこもって、
釈尊の教説だけを守っていたのでしょう。
このような事例から初期の経典は、教団の出家僧を対象にしたものであったため、
現実に大衆のなかに飛び込んで布教活動を行っている人には、受け入れがたいものがありました。
つまり大乗経典が生まれる原因は、すでに第一結集の時からあったのです。
大乗部の運動は、釈尊在世の原点に帰る運動であったといえます。
それは「正統と異端」といった争いではありませんでした。
仏教の場合、革新運動はつねに「原点に帰れ」という精神から出発しているのです。
改革派は少数のようであっても、
結局は原点に正しく立った思想が勝利を収め、おのずと本流になっていく。
これが歴史の厳しき審判です。
しかしその勝利を勝ち取るためには、
そうした勢力に対して全身全霊で戦うことが必要不可欠となります。
どんな世界でも「勝負」には、必ず「勝者と敗者」が厳然として歴史に刻まれる。
それと同時に、歴史というものは勝者の側の立場に立って書かれるものです。
言い換えれば「主流派」ともいえます。
主流派からすれば、敗者・反対者・非主流派の主張が、歴史の記録に盛り込まれることなど絶対にないのです。
だから、迦葉の第一結集の呼びかけに反対した者がいたとしても、その人たちの存在は記録されていません。
・・・・つづく。
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