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今回の教義解釈の変更が出る以前より考えていたこと。
さらに今回の見解が出てからさらに考えていることをまとめます。
ツマラナイ内容かも知れませんが、ご容赦を願います。
①今回の教義解釈の変更で、いわゆる「弘安二年の本尊」を否定する形になった。
富士一帯での弘教拡大
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地元の天台宗寺院からの迫害はじまる
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農民信徒20名が逮捕、平頼綱から拷問受ける
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3人が処刑、17人が追放の処分
(この時期に南条時光は信徒の保護に活躍した、とのこと)
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この事件で大聖人は「出世の本懐」を遂げた
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弘安二年十月十二日、「一閻浮提総与の大御本尊」を建立
まず、大御本尊が建立されたというこの「神話」を考えてみると、歴史的事実として大石寺の4代から9代の法主は、南条家の出身者で占められている。であるならば、南条家出身の法主とその一統が創作した「神話」である可能性を考えてみる必要があると思う。
率直に言って、この法難が歴史的事実としても、時光が具体的にどのような行動をしたのかははっきりいってよく分からない。時光を美化するために後世に創作したのではないかと思えてくる。
第一、「小松原の法難」で大聖人の命を守るために戦い、命を落とした鏡忍坊や工藤吉隆の死は「出世の本懐」にはならず、農民信徒の処刑は「出世の本懐」となるのは、どこか差別的な印象がぬぐえない。個別の法難の意義について解釈はいろいろあるだろうが、小松原での信徒の死と熱原での信徒の死がきわめて別の次元で語られるのは、よくよく考えてみると強烈な違和感が残る。大聖人という人がそのような差別的な思考をされているとはどうしても考えられない。
南条家の意向を受けて、法難と時光とのかかわり、そして「大御本尊」が建立されたという「神話」が創作されたのではと、私個人は疑っている。
今回いわゆる「弘安二年の大御本尊」を否定するのであるならば、南条家が歴代にわたって創作した「神話」に基づく可能性にまで言及する必要があったのではないだろうか。
「出世の本懐」と「本尊」について未熟で不徹底な解釈を施しても、ただ会員各個人は混乱を深めるだけだと思うのは、私だけでしょうか?
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