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「殷の紂王」の特徴は、暴虐な政治を行う独裁者。
「周の武王」の特徴は、善の政治を行う孝養の人であり、礼を尽くす人格者。
暴虐な政治を行う独裁者のもとでは、どんなに立派な大儀名分があったとしても
異体同心の団結などは絶対にできないし、優秀な人材も集まらないと思います。
そこにあるのは恐怖と脅しが渦巻く世界であり、私利私欲と保身と利害が結託する世界です。
誰も他人のために命を捨てようなどとは思いません。
しかし、年配者の意見をよく聞き、誰に対しても礼を尽くす人格者のもとには、
優秀な人材が集まり、大儀のためならば、
また、この人のためならば命も惜しまない、という人材が集まってくる「信義・信頼」の世界です。
これが世間の道理であり、仏法で説く団結の方程式です。
つまり異体同心の団結の要は「長の一念」で決まるのです。
日興上人は、この師匠の厳命を心に刻み、
最後まで一人の退転者も出さず、熱原の法難を見事に乗り越えていきました。
この弟子の「不滅の戦い」が機縁となって、師匠は出世の本懐を宣言したのです。
これは皆さんがよくご存知のことだと思います。
時はめぐり、今、私たちも同じ立場に置かれているような気がします。
池田先生の思想と学会精神を後世の弟子たちに「誤りなく」伝えていくのも先生の弟子ならば、
先生の思想を自分たちの権威のために「改ざん」して後世に伝えるのもまた先生の弟子です。
もしもこういう闘争に遭遇したならば、正義の弟子が戦って勝たなければ、
結果を出して証明しなければ、後世の池田先生の弟子に笑われます。
「何をやってたんだ、あの時の弟子は、だらしがない」――と。
日蓮正宗・七百年の歴史を見てもそうです。
六十数代続いた法主のなかでも真に尊敬できる法主は、たったの二・三人だけです。
曾谷入道殿許御書には
「涅槃経に云く『内には智慧の弟子有つて、甚深の義を解り、外には清浄の檀越有つて、仏法久住せん』」(一〇三八頁)
とあります。
「智慧の弟子」は誰がなるのですか。
「清浄の檀越」は誰がなるのですか。
誰が先生の正義を護り「仏法久住せん」とするのですか。
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