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友人である男子部後輩より、是非宿坊の掲示板に投稿して欲しいとのリクエストがあり、諸般の事情により、私が代理で投稿させて頂きます。それ程過激な内容ではありません。教義変更を一読して誰しもが抱くであろう疑問を丁寧に綴っています。皆様の思索の一助となれば幸いです。
聖教新聞に掲載された会則改定文およびその解説文を閲読して以来、拭えぬ違和感を抱き続けています。幹部や本部職員に質問をしても言を左右にするばかりです。私の考えが偏見に満ちたものなのか、それとも掲載された文言を虚心坦懐に精査すれば必然的に導出されるであろうものなのか、皆さんにご意見を仰ぎたく投稿させて頂いた次第です。
私は、大御本尊から距離を置く教義体系を確立すること自体には賛成の立場です。会則改定にも部分的に賛同しています。問題に感じているのは発表のタイミングとその中身です。なぜ、今、発表する必要があるのでしょうか。第三文明の二月号で佐藤優氏が述べているように、信仰の根幹に関わる教義とその解釈の変更は100年単位の時間をかけてゆっくり行うべきものです。古い体系を信じていた人たちが変更に対し強い抵抗感を抱くからです。この「100年単位」の感覚からすると、今回の改定・変更は「拙速」だと言えます。何か、このタイミングで改定を行わなければならない理由でもあったのでしょうか。一つ思いつくのは「池田先生が生きていらっしゃるうちに」ということです。池田先生の威光を借りて教義変更を進めるのです。変更をめぐって出来する様々な事態を収拾するのに池田先生の権威は絶大な効果を発揮するでしょう。こうした思惑はよく理解できますが、穿った見方をすれば、これは「師匠利用」です。しかしこの理由しか、今のタイミングで会則改定を行う理由は思いつきません。あるいは会則改定推進者は功名心から実行したのでしょうか。いずれにしても「今」改定を行えば、それについていけない会員が出ることは必至です。その会員に対するケアが万全だとは思われません。なぜなら、会則改定の趣旨が発表されてからその解説が掲載されるまでに、かなりのタイムラグがあったからです。ケアを考慮に入れていたなら、改定発表と同時に解説文を掲載したでしょう。このことから私は今回の改定発表が十分な準備もなしに行われたのではないか、との疑念を強く持ちました。
先日掲載された解説文はその疑念をさらに強くさせました。解説文には、日寛上人の教学について「日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分」と「要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分」を立て分け、見直しを行っていく、とあります。これは言い換えれば、「両者は立て分ける必要があるが、現段階ではそれはまだできていない」ということです。ところが、立て分けができていないにも関わらず学会教学部は「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は今後用いない」と、日寛教学の部分的「不採用」の判断を下してしまいました。この点に関しては、いわば演繹的に結論を出してしまったのです。こういった教義の根本的な変更は、周到な準備の末に帰納的な手続きを経て行うべきものだと私は思っていますが、学会教学部はなぜそうしなかったのでしょうか。あるいは、日寛教学の中でも御本尊に関する教義については立て分け作業は完了したのだ、と彼らは言うかもしれません。しかし、そんなことはありえません。一つのテキストを検討するには、時代背景や歴史的文脈、それこそ「どのような筆運びでそのテキストが書かれたのか。筆跡はどうなのか」等に至るまで、多様な要素を勘案する必要があります。検討は「複雑系」を扱う作業なのです。複雑系を研究するには「あらゆる要素を視野に入れつつ」「総合的に」判断できるような能力と知的蓄積が必要です。何か一つの領域に対する認識が欠けただけで結論は「正反対」にすらなり得ます。全体像の把握なしに部分的に結論を出すということはありえないのです。例えば何か一つの領域だけ切り取って(今回の場合は「御本尊に関する領域」)、その領域以外の事柄は捨象し、その上でテキストを「普遍性のある部分」と「時代的制約のある部分」に腑分けすることは研究としては不十分であり、そうやって導き出された結論は学術的には何ら説得力を持ちません。
会則改定推進者は、十分な教義的検討もなしに日寛教学の部分的不採用を決定しました。そのことから分かるのは今回の会則改定が「結論ありき」だったということです。「日寛教学の見直しはこれから行っていく」との解説文は、自らの「準備不足」を露呈しました。「結論ありき」であったことを窺わせる内容でした。にも関わらず会員に対する素早いケアもない。この発表の仕方に納得がいかないのは私だけではないはずです。
この「結論ありき」の「結論」は一体、誰の判断によってもたらされたものなのでしょうか。池田先生でしょうか。原田会長でしょうか。池田先生である可能性は低いでしょう。なぜなら今回の改定について池田先生は「何も」言及されていないからです。あるいは学会執行部が、今回の教義解釈改定の責任を池田先生に負わせないために意図的に池田先生の文言を一般に発表しないと判断しているのかもしれません。しかし、それもありえないでしょう。なぜなら「池田先生が生きていらっしゃるうちに」という、今のタイミングで会則改定を発表する「理由」と矛盾するからです。このことから私は、原田会長が、または改定推進者が、自らの直観に基づいて今回の「結論ありき」の会則改定を断行したものと判断しました。原田会長には、教義を裁定する権能があります。創価学会会則第2章第10条に、会長の権限として「教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重するものとする」とあるからです。しかし原田会長は「師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重」したのでしょうか。それらの会議に同座した人々は皆、「結論ありき」で「拙速」な会則改定に賛成したのでしょうか。少なくともそれらの会議では教義的な議論はなされなかったでしょう。「結論ありき」なのですから。この、教義的な議論がなされなかった可能性が高いという事柄一つとっても、今回の会則改正の「強引さ」「雑さ」が浮き彫りになります。ついていけない会員を出すような教義解釈改定の手続きは、「万人成仏」を志向する創価学会にふさわしくありません。一人も脱落者を出さないというのが「万人成仏」の立場です。原田会長は、自身の権能が、学会員と自身の間に発生する信仰的権威に支えられているということを、より深く自覚すべきです。そして可能な限り「ついていけない会員」を出さない「手続き」と「タイミング」を導出すべきでした。
さて、話題を解説文の中身に移します。これまで私は「手続き」と「タイミング」に問題があることを指摘してきました。ここからはそれに加えて、解説文の「中身」にも問題があることを大きく3点、述べていきたいと思います。
①「本門の本尊」の新定義が曖昧
解説文㊤には「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』である」とあります。日蓮大聖人直筆の現存する曼荼羅を含め、それを書写したもの全てが「本門の本尊」であるとの見解です。「書写」が具体的に何を指すのかが明瞭ではありませんが、この文言によって、曼荼羅の「相貌」が問題にされていることは明白です。当然、学会としては日興上人の書写形式に限定するのでしょう。ですが、では、日興上人とほぼ同じ書写形式の曼荼羅を残している日向や日什のそれはどうなるのでしょうか。彼らの門流は大石寺の流れをくんでいません。彼らの本尊も「本門の本尊」になるのでしょうか。また、日興上人の書写形式を真似れば、誰があらわしたものも「本門の本尊」になるのでしょうか。この辺りの整理をつける必要があります。
②他宗の信仰にも備わる三大秘法
解説文㊤には「『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』であり、その唱える場所がそのまま『本門の戒壇』となる」とあります。この内容からすると、例えば身延で日蓮大聖人直筆の曼荼羅(学会が言うところの「本門の本尊」)に題目を唱えた人にも三大秘法が備わっているということになります。なぜならその人は「本門の本尊」に題目を唱えているのであり、その場が「本門の戒壇」となるからです。日蓮宗だけでなく日蓮正宗の信徒にも三大秘法が備わっていることになります。この「『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』であり、その唱える場所がそのまま『本門の戒壇』となる」との説明は、「本門の本尊」に向かって唱題しているか否かが、唱題者が三大秘法を備えているかどうかを決定づける、ということを示しています。三大秘法は「本門の本尊」に依存しているのです。では、日蓮大聖人が「三大秘法」を唱えた意義はどこにあるのでしょうか。今回、教学部が提示した三大秘法観からすると、日蓮大聖人が三大秘法をあらわされなくても、さほど問題はないということになります。「本門の本尊」さえあれば、それに向かって唱題すれば自動的に三大秘法が備わるのですから。そのような「なくてもいい概念」であるにも関わらず、今回の解説文で教学部は、日蓮大聖人の「出世の本懐」が「三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したこと」にあるとしてしまいました。三大秘法の存在意義を希薄化した上で、それを「出世の本懐」に位置づける感覚が私には分かりません。また、先に「日蓮宗も日蓮正宗も三大秘法を備えている」という話をしましたが、このことについて「結局は正しい信心が大事なんだ。正しい信心でなければ三大秘法は備わらない」という反論が予想されます。しかし「結局は信心」なのであれば、三大秘法が説かれた意義はますます希薄になっていきます。信心が大事なのであれば、なぜ、わざわざ物事の認識を複雑にするような三大秘法の概念が持ち出されたのでしょう。創価学会は今回の解説文によって、このジレンマを抱え込んでしまいました。
③私の地域で広まっている「噂」の確度を高める
現在、私の地域では「広宣流布大誓堂が本門事の戒壇になり、そこに御安置されている板御本尊が大御本尊になる」との噂が広まっています。一部でそれを懸念する声が広がっています。まさか学会執行部がそのような判断をするとは思えませんが(教義的にはもはや何の整合性もとれませんので)、解説文㊦では、はからずも「一大秘法」の定義がうやむやなままになっています。また「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない」とありますが、「用語」は用いないとあっても、「考え方」を用いないとはなっていないことに注意が必要です。「六大秘法という考え方は、今後用いない」とするのであれば「『義の戒壇』『事の戒壇』という概念も今後は用いないのだな」と判断できますが、「用語」となるとそうはいきません。「事の戒壇」という考え方自体は生きてることになります。これらが「広宣流布大誓堂を本門事の戒壇にし、そこに御安置されている板御本尊を大御本尊に位置づける」ための布石なのではないかと推測している同志がいます。この推測が見当はずれであることを願うばかりです。
この他にも、解説文について教義的に気になる点があるのですが、長文になるゆえ、このあたりで皆様のご意見を伺えればと思います。
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