こんにちは。この質問を読んで下さってありがとうございます。
今回はじめてこのような企画に参加することができましたが、不思議な気分を感じています。小説やエッセイを書いている村上さんと、この質問に答えている村上さんでは違う印象がするのです。小説を読んでいると、遠くで語られた言葉、どこか遠くで書かれた文字という感じがします。村上さんのエッセイもとても人間味のあふれたものですが、それでも私からは離れたものという感じがします。
でもこのサイトで質問に答える様子をリアルタイムで見ていると、今まさに発せられたという感じがして、小説の言葉と全然ちがって感じられます。こっちから投げかけたことばが、返ってくる。キャッチボールのような、わくわく感、どきどき感があります。今まさに進行している、目の前で繰り広げられる言葉のやり取りです。思うんですけど、こういうのは、生きた人間同士の特別な権利ですよね。言葉は残るかもしれないけど、そこにある動きみたいなものはその場にいる人しか感じられない。そこに相手が確かに存在するという、息づかいのような気配、それが木から落ちたばかりの真新しい葉っぱのように、言葉にやどっている。それを感じて、不思議な感慨を覚えました。この気持ちをどうにか言葉にしたくて、すこし長くなりましたが、こうして書きました。
村上さんもそのような違いをなにか感じているでしょうか。
(ウェーベルん、男性、26歳)
僕は文章を書くプロなので、場所に応じて場合に応じて、いろんな書き方ができます。小説を書くときは小説を書く書き方をしますし、エッセイを書くときはエッセイを書く書き方をしますし、翻訳をするときには翻訳のための書き方をしますし、こういうメールのやりとりではそういう書き方ができます。つまりいろんな文体の引き出しがあるということです。ピッチャーでいえば、ストレートの他にいくつかの変化球を持っている。そしてそのどれでもストライクがとれる。プロならそれくらいはできて当たり前でしょう……というとかっこいいですね。でも本当にそれくらいはできないと、物書きとして飯は食えません。
しかしこれだけメールの数が多いと、なんだか朝から晩まで千本ノックを受けているような気がしてくることもあります。もう三ヶ月、毎日こればかりやっていますから。もちろん楽しんでやってはいるのですが。
村上春樹拝