私は注意深くふるまわないと人を傷つける言動を取ってしまいます。
誰でもたまには不用意な言葉を口にすると思うのですが、
私の困ったところは何故相手が傷ついたり怒ったりしたのかがまったく理解できないことにあります。マナー本を読み、人間関係の厳しい稽古事をし、ホステスのバイトをし、カウンセリングの勉強をしてカバーしようとして参りました。
結果、ある程度までは矯正されたようです。
しかし今でもたまに誰かを意図せず怒らせてしまうことがあります。
そしてその理由がいまもって私には全くわかりません。
その言葉が何故いけないのか、どんな意味を持って相手に受け止められたのか全くわからないのです。人を傷つけるからと言って自分が傷つかないというわけでもなくて、やはり痛い思いはします。自分が痛い思いをしたら、他人の痛みも慮れるようになると思っていたのに。
これは直らない私の根源的な「傾向」だったのかもしれません。
直らないのなら、そこに着目すべきではなかったのかもしれません。
悪いところは目に付きやすいのでそこに気をとられ、マナーだの心理学だの接客だのと勉強してきたわけですが、それ以外の「傾向」で、もっと伸ばすべき点があったのかもしれません。
今更ですが、私のよい「傾向」について考えてみたいと思います。
そこで村上さんに一般論として伺うのですが(私個人のことはご存知無いので一般論として)、他人の感情に鈍く、情愛の薄いタイプの人間にある、よい「傾向」とはどのようなものがあるとお考えになりますか?
自分でも考えてみたのですが、ぱっとしたものを思いつきませんでした。
村上さんが素敵な「傾向」をお答えくださると嬉しいのですが。
(ユレル、女性、51歳、会社員)
僕はあなたのメールを読んでいて、あなたが「他人の感情に鈍く、情愛の薄いタイプ」であるとは感じませんでした。そういう風にはお考えにならない方がいいと思いますよ。ただあなたの感情システムには何かmalfunction(機能不全)な部分があるのではないかという気がします。部品の一部がもともとうまく動いていないというか。あなたの言う「根源的な傾向」です。これはいくら直そうと思っても、なかなか直らないものです。人の心は機械と違って、簡単に部品を取り替えるというわけにはいきませんから。
だったらあなたが考えるように、その傾向を「変更のきかないもの」とみなし、それをできるだけ良い方向にもっていくしかないですよね。古今東西、芸術家にはあなたのような傾向を抱えた人がたくさんいます。部品がひとつ欠けている(あるいはうまく動いていない)ぶん、社会性には少し欠けるけれど、他の感覚が研ぎ澄まされていることが多いんです。何かそういう能力を見つけて、うまく伸ばされると良いと思うのですが、何か心当たりみたいなものはありますか?
村上春樹拝