はじめまして。村上さんの小説が大好きな高校生です。朝日新聞社から出ている村上さんへの質問メールの本でいつも笑わせてもらっていたので、こうして本当に質問ができると思うと緊張します。ちゃんと一晩寝かせて送信したいと思います。
質問というのは読書の量についてです。
家にあった「パン屋再襲撃」が僕にとって最初の小説でした。そこから村上さんの小説やエッセイを読み漁り、母の本棚からヴォネガットやロス・マクドナルドを少しずつ盗み出して(母も村上さんのファンです)今では自分の本棚にも沢山の本があります。村上さんの作品の他にはスタインベックやケストナー、坂口安吾の小説が好きです。
読書をしていくにつれ、出版社に勤め編集者としてよい本が世に出る手助けをしたいと思うようになりました。今はそのための学校での勉強やより多くの本を読むことに夢中です。
しかし最近、自分の読書量について焦ることが増えてきました。周りのみんなよりは沢山の本を読んでいる自信はあります。でも出版社で働く、一冊の本を作るのに携わるにはもっとたくさん本を読まないといけないのではないかと思うのです。『カラマーゾフの兄弟』も『戦争と平和』も楽しく読めたけれど、村上さんが僕ぐらいの歳の頃には世界文学全集なんかもうとっくに読み終えて洋書まで読んでいたんだと考えると不安になり、そんな気持ちでは楽しめないと分かっていつつも焦って新しい本に手を出してしまいます。
村上さんは小説を書くことと読書量にはどのくらい関係があると思いますか?
また、編集者にはどのくらいの読書体験を求めますか?
僕に夢をくれた村上さんの小説にはとても感謝しています。長く、分かりにくい文章になってしまいすいませんでした。
(玄関マット、男性、16歳、高校生)
まだ16歳なんだから、これからいくらでも本は読めます。今からそんなに焦ることはないと思いますよ。それに読書というのは、たくさん読んだから偉いというものではありません。読んだ本がどれくらい自分の「血肉」になっているかというのが、むしろ大事なんです。たとえば本の中に出てきた風景がどれくらい自分の中に残っているか? 僕の中には本で読んだ風景がたくさん残っています。たとえばヘミングウェイの「二つの心臓を持つ大きな川」でニックが魚釣りをする風景。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』でマーロウが自宅の玄関まで長い階段を上っていくシーン。そんな風景が、僕の内部にある無数の引き出しの中にしまい込まれています。読んだ本の数よりは、あるいは蘊蓄(うんちく)みたいなものよりは、そういう心にかたちとしてしっかり残るものが、あとになって本当に役に立ちます。
ケストナーといえば、このあいだドレスデンでケストナー博物館に行ってきました。なかなか素敵なところだったですよ。ケストナーの家はわりに貧乏だったんだけど、近所にいる叔父さんがお金持ちで、よくその家に遊びに行っていたそうです。その叔父さんの家が、今では博物館になっています。ケストナーの本って、どれも出だしの文章がいいですよね。
村上春樹拝