私たちは何者か?生きるとは何か?(1)
2015-05-06
今日は、これを言わずして死ねないという、とても大切なことをお伝えしようと思います。
『神様ってどんな人?』と思う方もいらっしゃると思いますが、実は、神は人の形をしていません。
神(創造主)は何かというと、至るところに存在するエネルギーであり、愛であり、歓喜のエネルギーであり、宇宙の法則であり、無限に広がるエネルギーです。
あらゆる宗教や死生観に関係なく、私たちの始まりであった原初のエネルギーであり、全てであり、私たちを生かすものであり、あるとあらゆるところに充満している意識のエネルギーです。
私たちの心臓は、24時間休まず動いています。この世に生を受けてから、最後の日までずっと。
それでは、『私たちの心臓を動かすもの』は何でしょうか?心臓の筋肉でしょうか?それでは、心臓の筋肉は何によって動かされているのでしょう?
私たちの心臓は、理由があって動いています。目には見えない働きによって、心臓は動かされているのです。
私たちは、目には見えない何かから命をいただき、目には見えない働きによって生かされているのです。
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私はある日、自己ヒーリング中に、言葉では言い表せられない程のたくさんの愛が私に注がれていることを魂の底から感じて、嗚咽しました。
それは、畏れ多いほどの何かであり、私の全細胞、全存在を肯定し、愛し、全てを許してくれるものでした。
そして、その時、私は自分が何者かを理解しました。そのことについて、これからお話ししたいと思います。
私たちは、神の愛の表現形態です。
私たち一人一人に神の愛が詰まっていて、また、私たちは神の愛で出来ているのです。
私たちは一人一人、愛を表現したものであり、愛を具現化したものなのです。
この生まれ持ったデコボコも、姿形も、声も、性格も、全て、神の愛を具現化したものだったのです。
それは多種多様な花の魅力があるように、私たちには一人一人違う個性というユニークさがあり、それは優劣ではなく、あるのは、ただ『個性の違い』です。
私たちは、全細胞・全存在において愛であり、喜びなので、喜びに生きて、思い切り自分自身を表現していいのです。
なぜなら、私たちは、神の愛を具現化したものであり、私たちは本来、自由と歓喜に満ち溢れているからです。
私たちの本質は愛そのものなのです。
ありのままの自分でいることで、私たちは神の愛を表現したもの、そのものでいることができ、それによって私たちは癒され、ピースフルな状態でいることができ、ただ存在するだけで喜びを感じ、神が私たちに与えた役割を全うすることができます。
それによって、私たちは充足感を得て、人生に生きがいを感じ、自分を再度認めることができ、また無理なく社会の役に立つことができます。
ありのままの自分でいることで、生まれ持った本来の自分を活かし、誰も損をせず、誰もが無理なく、楽に、楽しみながら、互いを世界に役立てることができるのです。
生きることは、自分自身を表現することです。
ありのままの自分でいるということは、無理なく、呼吸をするように自分を表現し、呼吸をするように自分自身でいるということなのです。
それは、誰かにわざわざ自分の価値を知らしめようとするものではなく、誰かに自分の存在を認めてもらうために躍起になるものでもなく、ただ呼吸をするように生きることによって、ただ呼吸をするように表現されるものなのです。
他人の反応を恐れていたのは、自分が神の愛そのもの、神の愛を具現化したものだということ、自分の本質を忘れてしまっていたからです。
愛は、全てを愛し、全てを受け入れ、全てを許します。それが神のエネルギーです。私たちは、いつもどんな時も、神のエネルギーに包まれています。
神のエネルギーは、至る所に存在します。極悪人と言われるような人でさえも、神のエネルギーに包まれ、神のエネルギーによって生かされています。
それでは、私たちが神の愛を具現化したものであるなら、人生において、なぜ愛である私たちが、愛とは到底思えないような苦しく悲しい出来事を経験するのか・・・?
なぜ、愛とは到底思えないような苦難や困難に出会うのか・・・?
それは、本来の自分を思い出すには、愛ではないもの、自分ではないものを経験する必要があったからです。
この世に愛しかなかったら、それがどんなものか、果たして素敵なものか何なのか、わからないからです。
同じように、この世に『自分』しかいなかったら、自分は何者で、どんな者で、どんなに素敵でユニークでパワフルなのかわからないからです。
だから、本来の自分を忘れさせて、本来の力を出せないようにして、自分ではないものだらけの世界で愛でないものをたくさん目の当たりにすることで、愛とは何か、自分とは何かを、より鮮明に、より明確に学ぶ為に、記憶をなくして、お互いに演じ合っているのです。
全ての苦難や困難は、素晴らしい神の愛を受け取り、愛を感じ、魂を成長させる為です。
現代の私たちは、残念ながら、無条件の愛を、無条件の恵みを受け取れていない人達がほとんどです。
魂は、柔らかいスポンジでは磨けません。ダイヤモンドは、硬いものでゴリゴリ磨かないと、眩いほどのあの光輝さは現れません。私たちの魂も同じことが言えるのです。
苦難や困難という刺激によって、魂は磨かれ、愛や感謝を感じられるようになり、本来の自分を忘れたままでいる魂を目覚めさせ、本来の魂の光を放射するようになります。
苦難や困難という刺激によって、愛を感じられるようになり、愛に目覚め、我慢や義務の人生から自由や喜びの人生に生きるようになり、存在するだけで喜びの状態でいることができ、そして、利己愛から利他愛へと喜びを持って愛の実践を行えるようになるということなのです。
苦難や困難という刺激によって、傷つく側の気持ちを知り、傷つける側の気持ちを知り、喜怒哀楽色々な感情を深く味わうということなのです。
より深く感動する為に、より深く色々な感情を味わう為に、傷や艱難辛苦というエッセンスが必要なのです。
全ての感情は、より深く人生を味わう為に、とても必要なものであり、全ての感情は美しいものです。感情があるからこそ、人生は最高にユニークでドラマチックなものになります。
感情は我慢するものでもなければ、恥じるものではありません。感情は、人生をユニークでドラマチックにさせてくれる最高に素敵な贈り物なのです。
苦難や困難という経験を通して、魂に傷を刻み、より深く学び、霊界にいるよりも、濃厚で味わい深い経験をすることができるということなのです。
≪つづく≫
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『神様ってどんな人?』と思う方もいらっしゃると思いますが、実は、神は人の形をしていません。
神(創造主)は何かというと、至るところに存在するエネルギーであり、愛であり、歓喜のエネルギーであり、宇宙の法則であり、無限に広がるエネルギーです。
あらゆる宗教や死生観に関係なく、私たちの始まりであった原初のエネルギーであり、全てであり、私たちを生かすものであり、あるとあらゆるところに充満している意識のエネルギーです。
私たちの心臓は、24時間休まず動いています。この世に生を受けてから、最後の日までずっと。
それでは、『私たちの心臓を動かすもの』は何でしょうか?心臓の筋肉でしょうか?それでは、心臓の筋肉は何によって動かされているのでしょう?
私たちの心臓は、理由があって動いています。目には見えない働きによって、心臓は動かされているのです。
私たちは、目には見えない何かから命をいただき、目には見えない働きによって生かされているのです。
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私はある日、自己ヒーリング中に、言葉では言い表せられない程のたくさんの愛が私に注がれていることを魂の底から感じて、嗚咽しました。
それは、畏れ多いほどの何かであり、私の全細胞、全存在を肯定し、愛し、全てを許してくれるものでした。
そして、その時、私は自分が何者かを理解しました。そのことについて、これからお話ししたいと思います。
私たちは、神の愛の表現形態です。
私たち一人一人に神の愛が詰まっていて、また、私たちは神の愛で出来ているのです。
私たちは一人一人、愛を表現したものであり、愛を具現化したものなのです。
この生まれ持ったデコボコも、姿形も、声も、性格も、全て、神の愛を具現化したものだったのです。
それは多種多様な花の魅力があるように、私たちには一人一人違う個性というユニークさがあり、それは優劣ではなく、あるのは、ただ『個性の違い』です。
私たちは、全細胞・全存在において愛であり、喜びなので、喜びに生きて、思い切り自分自身を表現していいのです。
なぜなら、私たちは、神の愛を具現化したものであり、私たちは本来、自由と歓喜に満ち溢れているからです。
私たちの本質は愛そのものなのです。
ありのままの自分でいることで、私たちは神の愛を表現したもの、そのものでいることができ、それによって私たちは癒され、ピースフルな状態でいることができ、ただ存在するだけで喜びを感じ、神が私たちに与えた役割を全うすることができます。
それによって、私たちは充足感を得て、人生に生きがいを感じ、自分を再度認めることができ、また無理なく社会の役に立つことができます。
ありのままの自分でいることで、生まれ持った本来の自分を活かし、誰も損をせず、誰もが無理なく、楽に、楽しみながら、互いを世界に役立てることができるのです。
生きることは、自分自身を表現することです。
ありのままの自分でいるということは、無理なく、呼吸をするように自分を表現し、呼吸をするように自分自身でいるということなのです。
それは、誰かにわざわざ自分の価値を知らしめようとするものではなく、誰かに自分の存在を認めてもらうために躍起になるものでもなく、ただ呼吸をするように生きることによって、ただ呼吸をするように表現されるものなのです。
他人の反応を恐れていたのは、自分が神の愛そのもの、神の愛を具現化したものだということ、自分の本質を忘れてしまっていたからです。
愛は、全てを愛し、全てを受け入れ、全てを許します。それが神のエネルギーです。私たちは、いつもどんな時も、神のエネルギーに包まれています。
神のエネルギーは、至る所に存在します。極悪人と言われるような人でさえも、神のエネルギーに包まれ、神のエネルギーによって生かされています。
それでは、私たちが神の愛を具現化したものであるなら、人生において、なぜ愛である私たちが、愛とは到底思えないような苦しく悲しい出来事を経験するのか・・・?
なぜ、愛とは到底思えないような苦難や困難に出会うのか・・・?
それは、本来の自分を思い出すには、愛ではないもの、自分ではないものを経験する必要があったからです。
この世に愛しかなかったら、それがどんなものか、果たして素敵なものか何なのか、わからないからです。
同じように、この世に『自分』しかいなかったら、自分は何者で、どんな者で、どんなに素敵でユニークでパワフルなのかわからないからです。
だから、本来の自分を忘れさせて、本来の力を出せないようにして、自分ではないものだらけの世界で愛でないものをたくさん目の当たりにすることで、愛とは何か、自分とは何かを、より鮮明に、より明確に学ぶ為に、記憶をなくして、お互いに演じ合っているのです。
全ての苦難や困難は、素晴らしい神の愛を受け取り、愛を感じ、魂を成長させる為です。
現代の私たちは、残念ながら、無条件の愛を、無条件の恵みを受け取れていない人達がほとんどです。
魂は、柔らかいスポンジでは磨けません。ダイヤモンドは、硬いものでゴリゴリ磨かないと、眩いほどのあの光輝さは現れません。私たちの魂も同じことが言えるのです。
苦難や困難という刺激によって、魂は磨かれ、愛や感謝を感じられるようになり、本来の自分を忘れたままでいる魂を目覚めさせ、本来の魂の光を放射するようになります。
苦難や困難という刺激によって、愛を感じられるようになり、愛に目覚め、我慢や義務の人生から自由や喜びの人生に生きるようになり、存在するだけで喜びの状態でいることができ、そして、利己愛から利他愛へと喜びを持って愛の実践を行えるようになるということなのです。
苦難や困難という刺激によって、傷つく側の気持ちを知り、傷つける側の気持ちを知り、喜怒哀楽色々な感情を深く味わうということなのです。
より深く感動する為に、より深く色々な感情を味わう為に、傷や艱難辛苦というエッセンスが必要なのです。
全ての感情は、より深く人生を味わう為に、とても必要なものであり、全ての感情は美しいものです。感情があるからこそ、人生は最高にユニークでドラマチックなものになります。
感情は我慢するものでもなければ、恥じるものではありません。感情は、人生をユニークでドラマチックにさせてくれる最高に素敵な贈り物なのです。
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≪つづく≫
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