【コラム】公憤が蒸発した韓国社会

 セウォル号の沈没事件の1周年追慕集会を見ると、公憤がどのようにして政争化され、その結果最初に沸き立った公憤がどのようにして蒸発してしまうのかを赤裸々に物語っている。同事件は、言葉では表現しにくいほど悲劇的な事件だったし、多くの国民が怒りをあらわにした。ところが、事故の再発を阻み、より安全な社会に向け発展することでむなしく犠牲となった人々の魂を慰める方向には進まなかったのだ。今も大統領だけを責め立て「真実」という言葉を武器に事故の実質的真実は受け入れようとはしないまま無理な要求だけを果てしなく続けている。しかも時には暴力的様相を呈する。これは少なくとも問題を解決しようとする姿勢ではない。よって、初めは共に公憤を抱いた人々も徐々に背を向けるようになったのだ。

 もちろん家族を失った悲しみには終わりがない。だからこそ遺族たちの悲しみを全て包み込むのは最初から無理なのだ。それでは生き残った者たちはどうすればいいのか。回答は孔子の言葉に見いだすことができる。「哀而不傷」。いくら悲しんだとしても、体に異常を来すようではいけないという意味だ。ここに真実と偽善の境界線がある。現在の韓国社会は、自分の体に異常を来すだけではなく、社会全体が血のあざで染まるほどに争いが激しさを増している。絶えず他人のせいにしている。誰も自分の中の不条理と欲望については反省しようとしない。こんなことでは第2、第3のセウォル号事件が再現されてしまうに違いない。これよりもさらに恐ろしいことは、今後公憤が蒸発してしまった共同体で、いつやって来るともしれない「まぐれ当たり」にひそかな期待を寄せつつ生きていかなければならないという事実だ。

イ・ハヌ文化部長
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