今年1月に他界したドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが現代社会を「危険社会」と呼んだのは、今から30年前のことだ。当時の韓国社会は、民主化という大命題のため、この言葉にそれほど共感を覚えなかっただけではなく、単に民主か反民主かという、今考えればばかげた二分法がまかり通っていた頃だった。2000年代に入ってようやく韓国社会の性格について関心を持つようになり、危険社会という言葉がしばらく流行語となった。その後、国内外の学者たちの命名作業は続くこととなる。『監視社会』『過労社会』『侮蔑感社会』『無駄遣いの社会』など本として出版されたものだけでも20冊に上る。このうち、それなりに注目を集めた概念は、ドイツ在住の哲学者ハン・ビョンチョルの『疲労社会』(2013年)と米国の社会学者ステパン・メストロビックの『Postemotional Society』(韓国題:脱感情社会)〈2014年〉だ。これらの書籍は、韓国社会が抱える病害を大なり小なり描き出したという点で意味のある作業だったが、2015年4月の韓国には言われるほど当てはまらない。
そこで、あえて一つ付け加えるならば「公憤蒸発社会」としての韓国だ。すでにわれわれの周辺には、公憤しなければならない事件や事故があふれ返っている。セウォル号事件に成完鍾(ソン・ワンジョン)前会長事件までが重なったことで、社会には大きな衝撃が走った。これは誰が見ても明らかに国民的公憤を呼び起こすに値する事件だ。しかし、いつの間にか韓国社会には、こうした事件が発生すると奇妙な冷笑が付いて回るようになった。気軽に公憤といって付いていくには何かふに落ちないトラウマがあるためだ。中でも狂牛病(牛海綿状脳症〈BSE〉)問題とこれをめぐる「ろうそくデモ」の後遺症は大きな影響力を行使した。そのほとんどが偽りと判明したものの、これに対する心底からの告白はいまだに行われていない。それ以降、人々は大したことでない限り公憤を抱いたり表現したりしなくなった。特定事件の政争化、あるいは巧みに変形した大統領選挙への不服運動などの公式がすでに多くの人々によって見破られてしまったためだ。