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つれづれ随想 -わたしの説話抄- 昭和60年4月30日発行
心の空洞
人の心ほど、とらえにくいものはない。
それであって、人間の心を動かすものはまた、人間の心である - 。
わかりきったことのようだが、これはけっしてそれほど簡単なことではない。
それどころか、金銭、利害、名誉、虚栄などに、自分の心が振り回されている方が、ずいぶん多いのではなかろうか。また心といっても、愛憎など一時的な感情の起伏にすぎないものが、広大な心の沃野を領し、封じ込めてしまうケースも、日常よくみられることである。
人間の真実の心を覆い隠すそうした爽雑物を、仏法では“八風”と説いている。利、衰、毀、誉、称、謗、苦、楽の八つをいう。
そのうち利・誉・称・楽を四順といい、人びとはこれを欲し、これに執着する。反対に、衰・毀・謗・苦を四違といい、人びとの忌嫌うところとされている。
日蓮大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」と仰せになり、縁に紛動されぬまことの人間の生き方を示されている。
なかなか難しいことだが、人間の心が人間の心を動かす、すなわち魂を揺さぶるような触発作業の場には、必ず“八風”に侵されることのない、鍛え抜かれた心の容姿が見出されるものだ。
「涅槃経」に雪山童子の物語が出てくる。釈尊の過去世の仏道修行の厳しさを述べたものである。
雪山に、雪山童子と呼ばれる若い求道者がいた。金銀財宝などには目もくれず、ひたすら法を求めて修行を続けていた。それどころか、法のためには、いざとなったら妻子はおろか、自分の生命さえも投げ出す決意を固めている。
しかし帝釈天は、そんな雪山童子の善心に若干の疑問を持つ。そして童子の修行を試すために、一策を案ずる。自ら殺人鬼の羅刹に姿を変えて、童子の前に立ち現れるのである。心に何も恐れるもののない童子は、静かに羅刹と相対する、しばらくして羅刹は、「諸行は無常なり、これ生滅の法なり」と、かつて仏の説いた偈を半分だけ述べる。これを聞き、喜んだ童子は、後の半分を聞きたいと請い願う。羅刹の望みに応じて、その代償として自分の肉体をも与えることを約束し、後の半偈に耳を澄ませる。
「生滅を滅し巳って、寂滅を楽と為す」
聞き終えた童子は、その偈を人びとに遺すために所々に書きつけてから、高い木に登り、樹上から身を投げる。そのとき羅刹は、帝釈天の姿にもどり、雪山童子の体を受けとめ、求道の心の固きを賞でたという。
雪山童子が求め抜いたものも“八風”という風に揺るがぬ大樹のような心と、それを支える厳たる法の存在である。ほかでもない「賢人」の生き方といえるだろう。
“八風”に侵されぬ人生と“八風”に翻弄されゆく人生 ― 。
仏法とは若干ニュアンスを異にするが、優れた文学作品には、両者の激しく劇的な撃ち合いを描いたものが少なくない。私は、とくに若年の頃、そうした作品にいくつも巡り合い、心を育む糧としたものであった。
なかでも、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』での主人公ジャン・バルジャンとジャヴェル警視との執念と執念の戦い、生死をかけての葛藤は、私の思い出に刻まれ、炎として消えることはない。
善を志して生きゆくジャン・バルジャンを、蛇のように執念深く追い回し、陥れるジャヴェルの所業を、少年時代の私は、ことさら憎らしく思ったものだ。しかし、愛と寛容に満ちたジャン・バルジャンの堅固な善心は、凍てついた大地のごとく残酷にして偏狭なジャヴェルの心をも、ついに溶かしたのであった。
これは、人間の善性の偉大なる勝利であった。ジャヴェルの心の中には、ポッカリと、底知れぬ空洞ができたにちがいない。“八風”に執する人が、翻弄されゆく己自身をはじめて目の当たりにしたときの、むなしさと恐ろしさ。
「一つの珍事が、一つの革命が、一つの破滅が、彼の心の底に起こったのである」と、ユゴーはほとばしる言と句で描写した。「彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こそぎにされたのを感じた。(中略)彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさせ、彼を眩惑させた。鷲の目を持つことを強いられた梟であった」
「道徳の太陽」の眩しさに、たまらずジャヴェルは自殺し、果てる。
“自然は真空を嫌う”という。
同じように人間の心も、空洞の存在を知って耐えられはしない。雪山童子の求道の炎は、万人の鑑である。また、人間誰しもたとえ意識しなくても、奥底では自身の“芯”となるべき確たる充足感を求めているものだ。どんなに上辺をとりつくろおうと、自己の正当性を強弁しようと、メッキはいずれはげ、空洞に気付くときが必ず来る。ジャヴェルの悲劇を繰り返さないためにも、人生の真実はなんであるかを、常に求め、見失わない日々でありたいものである。
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