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私の大師匠である戸田城聖先生は、二つの歌が好きであられた。
先生の前では、さまざまな折に、さまざまな人が、さまざまな歌を歌った。
先生は、皆の心を大切にされ、領きながら歌を聴かれていたが、重ねて望まれる歌は稀であった。
先生が格別に愛されて、幾たびも幾たびも、青年たちに歌わされたのは、"大楠公"と"五丈原"の歌である。
どちらも、先生に最初にお聴かせしたのは、私であった。
大桶公 父子の正義の 魂か 勝利の歴史を 馬上豊かに
先生は「少年たちが歌ってきた歌かもしれないが」と微笑まれながら、"大楠公"の歌を、よく所望なされた。
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ…… (詞=落合直文)
南北朝時代の関西の名将・楠木正成(まさしげ)と、その後継の子・正行(まさつら)の父子の劇である。
父は、大義を掲げ、死を覚悟して、足利尊氏との決戦に臨む。その死出の旅に御供を願い出た、わが子・正行に、父は故郷に帰れと諭す。
なおも供を願い続ける息子に、父は、早く生い立て! 断じて生き抜け! そして父に代わって大業を果たせ!と厳命するのである。
父の心も、子の心も、生死を超えて、深く強く一つに結ばれていった。
「父子同道」──父と子が、同じ使命の道を、不二の心で戦い進みゆくことは、人生の究極の劇といってよい。
大楠公 我が弟子 嬉しや 正行が 後を継ぎゆく 広布の舞台よ
戸田先生が発願され、わが創価学会が全力を注いだ「御書全集」は、昭和二十七年の春に完成した。
その祝賀の集いで、先生と二人して、この"大桶公"の歌を舞ったことも、忘れ得ぬ思い出である。
御年五十二歳の先生は、父・正成であられた。
齢二十四歳の私は、子の正行であった。
先生が、流麗に舞われる。
正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて 父は兵庫に赴かん
彼方の浦にて討死せん いましはここ迄来(きつ)れども とくとく帰れ故郷へ
続いて、先生の舞に、私がお応えする。
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん
此正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
師弟は一体となり、不二の舞を織り成していった。
この年の五月三日、私と妻の質素な結婚式の折にも、先生は、この"大桶公"の歌の合唱を求められ、じっと聴き入っておられた。
"大楠公"の調べに、私は懐かしい関西の友、なかんずく、誇り高き兵庫の同志が思い起こされてならない。
念願の、いな悲願であった、神戸市の長田文化会館への訪問を叶えたのは、二〇〇〇年の二月のことである。
あの阪神・淡路大震災で、最も甚大な被害を受けた地にあって、厳然と聳え立ち、地域の被災者の方々の避難所となった大城だ。
あまりにも尊く、健気な長田区、兵庫区、そして北区などの代表の方々との語り尽くせぬ思い──。
私は「常勝の間」に置かれたピアノに向かった。
楠木正成の最後の決戦の地となった湊川も、ほど近い。私は万感を胸に"大楠公"を弾かせていただいた。
最愛の家族と、また宿縁の同志と、思いもよらぬ別れもあったに違いない。しかし、生死は不二である。
亡くなられた方々の命を、わが命に受け継いで、立ち上がり、戦い抜いてきた勇者たちを、私は労い讃えたかった。
そしてまた、霊山へ旅立たれた三世永遠の創価の友よ、広宣流布の陣列に、早く還り来たれとの祈りを込めて、私は鍵盤を叩いた。
早く生い立て──大兵庫、そして大関西の"後継の正行"たちも立派に成長している。
さらに、遠来の九州の同志を迎え、関西で、にぎやかに交流の集いも行われる。
創価の友は躍動している。
大楠公 我らの覚悟は それ以上 広宣流布の 大楠公かな
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