全ての労働者は飢えて死ぬ
シンギュラリティに至ると、潜在的な生産力は無限大に近くなるが、需要の方が有限であるので、需要不足もまた無限大近くになってしまう。この時、労働者は賃金所得を得ることができないが、それに対し、物質やエネルギー、土地などは有限なので、商品の値段はゼロにはならない。
ナノテクノロジーの発達により、自在に物質やエネルギーを作り出せるようになるとカーツワイルは言っているが、ナノテクノロジーの研究者に私が問い尋ねたところ、その可能性は低いという。ロボットの材料である金属やそれを稼働させる電力がただになる可能性は低く、工場の立っている土地はどのみちただにはならない。それゆえ、工場でロボットが作る商品の価格もゼロにはならない。
商品を生産するための機械設備や工場のことを「資本財」といい、それを所有する人(あるいはそのための資金を提供する人)を資本家という。資本家は利子や配当から収入を得る。未来においてはロボットが商品を作る無人工場があって、それを所有する資本家のみが所得を得て、労働者は全く所得を得られないかもしれない。図 2にあるように、ロボットに対する需要が増大するにつれて、それを所有する資本家の所得も増大していく。一方、人間の労働需要が減少していくにつれて賃金は減少していき、最後にはゼロになる。
この長期的傾向は、フランスの経済学者ピケティが『21世紀の資本論』で示した「資本分配率の上昇による格差拡大」という実証結果と整合的である。所得は、「資本の取り分である利子・配当所得」と「労働の取り分である賃金所得」の2つに分けられるが、資本分配率は前者の割合である。この資本分配率が上昇しているがために、所得格差が拡大しているとピケティは指摘している。アメリカにおける所得格差は、金融業界やIT業界で働くエリート労働者とそれ以外の労働者との賃金格差によってももたらされており、そのような賃金格差はしばらく拡大するだろうが、いずれの労働者も結局のところシンギュラリティに至って賃金が得られなくなるのである。
マルクスは、労働者階級が資本家階級に勝利することにより、資本主義が終焉すると未来を展望したが、それとは逆のことが起きる。労働者階級は賃金が得られなくなることにより消滅し、資本家階級が全てを手にする。資本家は、労働力を使用せずに商品を作り出し販売する。商品を買うのもまた資本家である。労働者は所得がないので商品を買うことができない。全ての労働者は労働から解放され、もはや搾取されることもなくなるが、それと同時に飢えて死ぬしかなくなる。何の社会保障制度もなければ、そうならざるを得ない。優れた社会保障制度を準備する必要がある。
シンギュラリティに軟着陸する方法
シンギュラリティがディストピアであるならば、それへと至る道もまた苦難に満ちたものとなる。長期的には、肉体労働も創造的労働も、ロボットやコンピュータに奪われていくが、減り続ける雇用の争奪戦に人々が勝ち残ることを目指す「バトル・ロワイアル」状況は、言わば「シンギュラリティへのハードランディング」である。事務的な分野に従事していた労働者を創造的な分野へと労働移動させるという『機械との競争』の提案に従うだけでは、ハードランディングがもたらされる。それに対し私が提案するのは、「シンギュラリティへのソフトランディング」である。
「ベーシックインカム[*4]」(BI)は、生活に最低限必要な所得を国民全員に保障する制度である。例えば、毎月8万円のマネーが老若男女を問わず国民全員に給付される。私は、これを良く「子ども手当+大人手当」つまり「みんな手当」と説明している。BIは社会保障制度の一種であるが、この言葉は公的な収益の分配つまり「国民配当」という意味でも使われる。例えば、イランやアラスカなどでは、政府が石油などの天然資源から得た収益を国民に分配しており、これもBI的なものとして位置づけられる。つまり、BIには、(1)「社会保障制度としての側面」(2)「国民配当としての側面」の2つがある。
[*4] ベーシックインカムの現代的な起源は、イギリスの技術者で社会運動家のクリフォード・ヒュー・ダグラスが提案した「国民配当」とアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンの「負の所得税」である。ベーシックインカムに関する代表的な日本語文献としては、山森亮『ベーシック・インカム入門』がある。
BIは、優れた社会保障制度であり、私はできる限り早くこれを実施すべきだと考えているが、シンギュラリティに至れば、この制度は不可欠なものとなる。全ての労働者が、BIなしに生活できなくなるからだ。そして、シンギュラリティから巻き戻して、より近い未来について考えた場合に、拡大し続ける所得格差を埋めるためにもBIが必要なことが理解できるだろう。BIの財源は一般に税金であると考えられている。このような税金を財源とした生活保障のために一定額給付されるベーシックインカムを特に「固定BI」と呼ぶことにする。
次に、シンギュラリティまでの間に発生し続ける技術的失業を可能な限り減殺するために、世の中に出回るマネーの量を増やし続ける政策が必要である。手元のマネーが増えたらその「資産効果」によって、より多くの人々が例えば自動車を買うようになり、それによって自動車産業に従事する人々の雇用が守られる。マクロ経済全体で見れば、これは需要不足が解消されることを意味する。ただし、その際に、中央銀行が発行するマネーが直接、家計(=消費者)に行き届くようにしなければならない。そうでなければ、マネーの量を増やしても消費需要が増えるとは限らないからである。
このようなマネーの給付を「貨幣発行益の国民配当」と呼ぶことができる。貨幣発行益とはマネーを発行することで得られる中央銀行の利益のことである。この配当額は景気動向や物価上昇率などのマクロ経済の状況を鑑みて、変動させる必要がある。このような貨幣発行益を財源とした景気安定化のための国民配当を「変動BI」と呼ぶこともできる。
人工知能技術の発達が雇用を破壊し、人々を貧困に陥れるかどうかは政策次第である。上述した固定BIと変動BIからなる「2階建てBI」を実施することによって、多くの人々が豊かさを享受できるようになるはずだ。人工知能が害悪をもたらさずに発達し普及するためには、BIが不可欠なのである。あるいは、その先の未来を見据えた場合には、こうも言える。BIなきAIはシンギュラリティをディストピアにするし、BIをともなったAIはそれをユートピアにする。
知のネットワーク – S Y N O D O S -
リーディングス政治経済学への数理的アプローチ
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井上智洋(いのうえ・ともひろ)
マクロ経済学
早稲田大学政治経済学部助教。慶應義塾大学環境情報学部卒業、早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。2012年4月から現職。博士(経済学)。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。著書に、『新しいJavaの教科書』、『リーディングス政治経済学への数理的アプローチ』(共著)などがある。
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