インターネットというのに触れてからずっと他者の罵る時の言葉がどうにも気に食わない。批判や罵りはある程度しょうがないにしても、その時の言葉の選び方をちゃんと考えた方がいいと思う。
例えば馬鹿という罵り方がある。インターネット上でよく名指しで馬鹿と罵られている人は比較的世間一般よりも高い学歴や経歴、ポジションを持っている事が多く、確かにいくら学歴や経歴がよくても馬鹿な人もいるのかもしれないけれど、ある程度の競争を勝ち抜いた人達に馬鹿な人(何を持って馬鹿とするかだけれども)が混じっている確率は低いだろうと推測できる。確率的に考えてそういう罵りは効率がわるく、何しろ言っても相手が馬鹿ではない証拠を見つけてしまいすっきりしないことが多い。
罵りの効能は、自分がすっきりすること、この一点に尽きる。批判は発展を望むのもあるだろうけれど、罵りは自己の快楽しかない。だとしたら、なるべく短時間かつ少ない労力でこの快楽を得るようにすべきだろう。うまくいかない罵りは長引く。
一体本当は何を罵りたいのか。これがピンポイントではまらないことにはすっきりしない。だからこそ本当に自分が言いたかった事をしっかり言葉にする訓練をしなければならないと感じる。”あなたは間違えてる”はだいたい”君の考え方が気に食わない”だし”あの人が傷ついているじゃないか”は”僕の気に入らないことをするな”だし、太宰治に言わせれば”世間が許さないのではなくて、それはあなたが許さないのでしょう”だろうと思う。
不思議なもので、人間は何に自分が怒っているのかに気づけると頭がすっきりする。よくわからないけどむかつくという状態が一番厄介で、自分が何にむかついているのか言葉にもできず、整理もできないのでいつまでたってもむかつきがおさまらない。人間は意思決定をする場所にも体力があると言われていて、他に気になることがあるとその領域が食われて、意思決定の質が落ちるのだそうだ。だからこそ早めに的確に罵って、自分の頭から余計なものを排除するべきだろうと思う。
罵りもちゃんと正確に自分の感情を表現することができれば、時間をあまり費やさず気分を晴らすことができ、随分と経済的になる。そうすれば罵られる側もしつこくやられず一回で済む。そういう意味でお互いのためにも、また社会の生産性を高めるためにも、罵る側は作法として正確な表現を心がけるべきだろうというのが私の考えだ。