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>>お久しぶりです。
公私ともに多忙で掲示板を久しぶりに閲覧しました。
個人的に思うに大聖人直結の信心というのは外相証と内相証の両面から観て
無理があると思います。
外相証は印度応現の釈尊、天台、妙楽、道邃、伝教、大聖人の事ですね。
内相証とは霊鷲山で釈尊より時直受口決の事ですね。
少し教学の有る人であれば此れぐらいは理解されていると思います。
御書根本ということは外相証に相当します。
日興上人のご指導に「この法門は師弟子を正して成仏する法門である」と
断言されています。
当然に大聖人から日興上人に面受口決があったと想定されます。
大石寺にも現在は血脈が破断して口決は無いものと思いますが、
それらしきものが富士五山に残っている可能性も捨て切れません。
唯綬一人ではなく、在家に預かり相証として残っている可能性も
捨て切れません。
御義口伝や本因妙抄、百六錮抄等も口伝を後世纒めて一抄としたもので
口伝を否定すれば大聖人の仏法は録内御書だけで構成されて、日蓮本仏論
の根拠も曖昧なものになります。
今更、釈迦本仏論に転向するわけにも行かないでしょうし、この当たりは成仏
に関することだけにいい加減では済まされません。
興門の相伝だけでなく他門の相伝も研究して比較検討、考証の綿密な作業が
不可欠と感じます。
執行部にはそれだけの覚悟と教義の屋台骨を支えるだけの準備があるのかと
問いただしたい。
まさか天理教や大川隆法のように大聖人からお告げを受けたというわけにも
參らないでしょう。
顕本云々の発言も有りましたが、日什上人は法を日仁に付属して遷化しています。
血脈ではないが附悌一人の原則は興門だけの専売特許では有りません。
辛口の論評になりましたが、基本の教義、本尊さえしっかりとしていれば
糞ったれ
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