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では、どうして、キリスト教が、大衆の心をつかめたのか。
トインビー博士は「それには、三つの理由があった」として、こう論じている。
「第一に、大衆を、単なる『労働者』としてあつかわず、ひとりひとりを『魂をもつ人間』として、あつかったからである」
一人一人が大事なんだ、尊厳なる生命なんだ、魂をもつ人間なのだ――と。
労働者とか下層階級とか――そういうふうに″束ねて″は考えない。
″一人″を考える。一人一人を思いやる。
創価学会も、民衆一人一人の現実の苦悩に同苦してきた。
諸君のお姉さん・お兄さん、お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃん――皆、そうである。
一軒一軒、弘教に歩いた。一人一人、いろいろな話を聞いてあげた。
″一人″のために、それはそれは、大変な苦労を積み重ねてきた。
「自分も苦しかったんだよ」。あるいは「今も、苦しみと戦っているんですよ」と。
だからこそ、相手の苦しみがわかる。一緒に、悩みを乗り越えていこうと話ができる。
尊大ぶらない同苦の姿。これほど尊いものはない。
学会は、大衆をマスでとらえて労働者階級と見くだしたり、貧乏人の集まりと軽蔑する勢力とは、根本的に違う。
人間に、上も下もない。
生命に、金持ちも貧乏人もない。
すべて、日蓮大聖人のもとに平等である――という世界である。
草創期のキリスト教も、信仰のもとに平等であるという信念で、民衆の心の中へ飛び込んでいった。
さらに――トインビー博士は指摘する。
「第二に、大衆のなかでもとくに、自治体も帝国の政府も面倒を見ていない、
いちばん苦しんでいる『孤児』『未亡人』『病人』『老人』の世話を、キリスト教徒たちが、したからである」と。
自治体も政府も面倒を見ず、苦しんでいる人々――そういう″いちばん苦しんでいる人々″の面倒を見た。
創価学会も、そういう人たちと、いつも接し、守り、その人たちのために戦ってきた。
そのために、学会は長い間、″貧乏人と病人の集まり″と侮蔑されてきた。
こういう心ない言葉に対して、ある海外の識者は厳しく言った。
「何を言うか。それこそ、本当の宗教ではないか。金もうけの宗教は、金持ちばかりを大事にするものだ。
創価学会が、いちばん、貧しい人々の中へ飛び込んでいっている姿こそ、学会が、まことの宗教である証拠ではないか」
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