|
《不惜身命の庶民こそ偉大》
だれがいちばん偉いのか。″大衆″である。″庶民″である。
お金もなく、学問もなく、けれども本当に立派な人間が庶民の中にいる。
広布の鑑である「熱原の三烈士」も、まさに庶民の中の庶民であった。
現実に、だれが本当に一生懸命、弘教しているか。だれが一心不乱に広宣流布へ働いているか。
それは、ほとんどが婦人部であり、名もなき庶民である。
立派そうな肩書をもつ人間は、見栄を張って、捨て身で戦えない。
戦えない人間の、どこが偉いのか。
仏法の眼から見れば、人間の眼から見れば、何も偉くない。
それどころか、そういう人間は、尊き学会を自分のために手段にし、利用しようとさえする。恐ろしいことである。
戸田先生は、学会は、そういう人間を要職につけるなと厳しく遺言されたのである。
キリスト教の歴史に触れたが、もちろん「教え」や「法」には高低浅深がある。
そのうえで、現実には、「いちばん、大衆に尽くした」宗教が、いちばん、大衆の心をつかみ、いちばん、歴史に勝利する。
この原理、法則にのっとって、学会は発展してきた。
そして今、まさに次の″大発展の時代″――二十一世紀への基盤をつくっているのである。
「法」――「仏法」そのものは永遠である。また、七百年前から、大聖人の仏法はあった。
しかし、その大法をもって、「大衆に尽くした」のは、創価学会だけである。
宗門は、いばっていただけで、大衆のために尽くしていない。だから広宣流布もできなかった。
今の世界広宣流布の姿は、私たちが、くる日も、くる日も、「会員に尽くしてきた」から、できあがったのである。
私も四十年、五十年、毎日、朝から晩まで、会員に尽くしてきた。その事実は御本尊が知っておられる。
自分のことではあるが、後世のために、あえて言っておきたい。
だからこそ日本世界一の学会になったのである。簡単に考えてはならない。
今後、指導者が、できあがった基盤の上に、苦労もせず、
会員のために生命を磨り減らすこともなく、要領よく泳いでいく――そのようになったら、おしまいである。
否、今も、そういう人間はいる。
そういう堕落の先輩は、諸君が手厳しく追及すべきである。
牧口先生は「下から上を動かせ」と言われた。
いちばん大切なのは「法」であり「学会精神」である。
それを守り抜くためには、上の人間を厳しく戒めることが必要な場合がある。
何も恐れる必要はない。
組織が偉大であるから、号令ひとつで、何千、何万という人が動く。
その重大な責任を、指導者が簡単に考えるようになったら、とんでもないことだ。
そうなっては、学会には、もはや魂も生命もなくなる。それでは、邪道になってしまう。
諸君がいるかぎり、絶対にそうはならないと私は信じる。
|
|