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創価学会は生きた宗教である。
檀上からの幹部の指導がご仏智に適っているとは限らない。
それは、結局、教会での牧師の講話と同じで、有難く聞く話ではない。
宗教で飯を食っている宗教を職業にしている人間が、高い檀上から会員に指導する事だけが、宗教なら、もう、その宗教は形骸化した腐敗した形式主義だ。
創価大学を優秀な成績で卒業した苦労しらずの本部職員が、副会長になって、会員の指導など出来るわけがない。
草創の学会の歓喜と功徳は、座談会や個人指導が、体験と御書とが融合した生きた指導で、相手の仏性を触発し、苦悩する民衆を蘇生させるという、生きた実践の宗教だったからである。
体験がなければ、ただの口先だけの偽善である。
体験がなければ、御書の一節を拝しても、それは、単なる読み合わせである。
体験があるから、苦悩する民衆に同苦出来る。体験があるから、言葉に確信がある。体験があるから、情熱が伝わる。体験があるから、言葉が相手の心に刺さるのである。
自分が体験がないのに、相手を納得させる事など出来ない。
そもそも、指導とは、相手を納得させる仏道修行なのだ。
言葉の遊びではない。
苦悩する会員の心に寄り添い、確信と慈悲の言葉で、友の魂を蘇生させられないなら、創価学会の幹部の資格はないし、また、幹部にしてもいけない。
指導とは、相手を救う聖業である。
間違った指導をすれば、会員は苦悩する。最悪、脱会する。正法を捨てるのだ。
そんな指導をする者は、幹部失格である。
指導する者は、指導を受ける者よりも、一歩も二歩も先を行く修行者でなければならない。
創価学会の未来の成否は、幹部で決まる。
学ばない幹部。苦労を知らない幹部。慈悲のない幹部、真剣でない幹部。そういう幹部のいる地域は、衰退する。
会員が苦悩する。会員が苦しむ。会員が悩み悲しむ。
全部、幹部の責任である。
そうなった場合は、それは、もう、創価学会ではない。カルトだ。
相手よりも、勉強し、相手よりも教学を知り、相手よりも体験も苦労もしている智勇兼備の闘将だけが、創価学会の幹部になれる。
数の打ちだしだけの形骸化した単なる活動家は、活動家ではなく、活動屋であって、成長も功徳もない、組織にいてもらっても困る病んだ歯車である。
新聞の購読数を競う。それなら、新聞屋になれ。
選挙支援の内だしに狂奔する。それなら、信心などいらないではないか。
座談会の結集の数の目標だけが一人歩きする。
そんなの人間主義ではない。
人に会い、激励するのが、地涌の菩薩である。
池田先生は、全国津々浦々の友と一期一会で、魂の激励をして来た。これが菩薩だ。仏の使いだ。大聖人の名代だ。
人間革命を読む前に、幹部が人間革命しろ。
出来ないなら、とっとと、宗門に行け。宗門に役職はいっぱいある。そういう幹部はいらない。いてもらっても困るのだ。
幹部が錆びる。幹部が劣化する。幹部が勉強を怠る。
そうなれば、組織は動かなくなる。動いても、歓喜も功徳もない。勿論、成仏も出来ない。日本も滅ぶだろう。
幹部は活動屋ではない。
また、そんな活動なら参加しないでいい。
家族と食事でもしていた方がいい。
価値を創造するのが、創価学会の目的であって、無価値を生む活動ならやめていい。
そんな活動を強いるなら、本部は潰れるだろう。
無理する必要はない。
日本も滅ぶのだ。
悩める民衆を覚醒させ、信心で歓喜と功徳を与えるのが、創価学会の設立された目的である。
地涌の菩薩の集団なのだ。
民衆を救う聖業である。
公明党を支援させるなら、幹部は議員よりも勉強していなければならない。出来ないなら支援などやめろ。
御書は、勉強会ではない。ましてや、読み合わせではない。
指導の場である。
御書学習会は、指導の道場である。
教学は生きた信心の宝剣である。
御書を学ぶのは、創価学会ではない。
それでは、声聞縁覚ではないか。二乗の戯言である。
御書で、人を救うのが、創価学会である。
出来ないなら、創価学会など解散しろ。
御書を研鑽するのは、人を救うためである。
菩薩のための剣が、御書だ。
勘違いしてはいけない。
激励と指導で、相手を納得させ、歓喜と功徳で魂を蘇生させる菩薩の集団が創価学会である。
菩薩の行を忘れて、象牙の塔にこもるのは、才能ある畜生である。
創価学会などやめて、学者になればいいのである。
創価学会は、民衆を救う団体である。
生きた宗教である。
慈悲と確信によって、魂の救済をする菩薩の集団である。
株式会社ではない。
宗教法人でもない。
宗教界の王者なのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=aorhPQE54u4
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