|
創価学会第二代会長、戸田城聖先生は、学会は「らっきょう」であると喝破した。
らっきょうは、剥いても剥いても中身が出てこない。
創価学会は何か裏がある。隠している事がある。聖教新聞に出ない裏がある。そういう事は絶対にないと断じたのである。
創価学会は、らっきょうだと言うのである。
池田先生の先生の戸田先生の指導なのだから、真剣に門下一同、傾聴するべきだ。
金もいらぬ、名もいらぬ、世のため人のための信心。これが学会の原点である。
宗門との軋轢がない時代だ。
現在の宗門は、戸田先生を持ち上げ、池田先生を批判している。師弟の分断である。
しかし、戸田先生と日淳上人が、懇意で親密だったという事実を無視した話であり、池田先生が会長になってからは、猊下が違う。日達さんであり、微妙な存在である。そして、相承のない日顕になってから、完全に宗門との亀裂が決定的になったのである。
簡単いうと、池田先生の財産のほとんどは、宗門に奪われたのであり、その後の第二次宗門問題や、聖教座談会の罵詈雑言、かなり無理のある裁判訴訟など、完全に弟子の方法論の失態であり、逆に創価学会の信用や法を落したと言える。
さて、らっきょうの信心の話である。
戸田先生の指導に背けば、当然、師弟の分断になる。
宗門の言う次元とはレベルが違うのだ。
剥いても剥いても中身がない。おかしい・・・全く分からない。おかしな奴らだ・・・これが、宗教界の王者の本来の姿である。
幸福の科学のような宗教ビジネスなら分かりやすい。
世間も納得するのだ。
伝統宗教のように、神仏を祀り上げ、お布施を取る。
こんなのは生きた宗教ではない。
これが、戸田先生の言うらっきょうの信心だ。
菩薩の修行なのだ。
実際に苦悩する民衆に分け入って、貧乏人と病人を救うのが、宗教界の王者である。
正義と平和と慈悲の団体である。
金も名誉も権威、権力もいらないというのが、戸田先生率いる闘争集団としての正義の獅子の団体である。
剥いたら、剥いたら、色々なものが出てきた・・・・これは、もう、創価学会ではない。恩師に顔向け出来ないではないか。
真摯に誠実に愚直に生きよ。
先師に恥をかかすな。
誰にも恥じぬ正義を勝ち取れ。
それが、師弟不二だ。人間主義だ。
知恵第一の舎利弗は、乞食に目玉をくれと言われ、片目を布施する。乞食は、それをもらうと、捨て去り、唾を吐くのである。
これに怒った舎利弗は、菩薩行を捨て、一人、解脱の道に入ってしまう。
これでは、広宣流布は出来ない。
一人で覚醒して、民衆を救わないのは、菩薩ではない。
悩める人、病める人、苦しんでいる人々を救うのが、地涌の菩薩である。
そこに、成道の道がある。
らっきょうになるのである。
金も名誉も権威も権力もいらない。
俺には信心がある。
私には信心がある。
これが、創価の魂であり、人間主義の丈夫である。
名聞名利の退転者、反逆者に腹を立て、罵倒するのは、日蓮仏法ではない。
それは、忽目のバラモンの信心だ。
外道である。
反逆者も最後には救うのだ。
救えないのは、私どもの信心が足りないのである。
提婆達多も最後には成仏させる。
これが、大乗仏教の精髄であり、信心の王道である。
そこに、人権がある。普遍的な人間主義がある。
らっきょうの信心は、無敵である。
行きづまりもない。
絶対的幸福境涯に至るのである。
あの人がこうだ、この人がこうだでは、もはや、観念にもならない。
人を救え。
悩める友は、全国、全世界にいるのである。
誰かに輝かせてもらうような月になるな。
私どもが、太陽となって、悩める衆生を輝かせるのである。
真実は一つ。
らっきょうの信心である。
『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり』(開目抄下 P232)
https://www.youtube.com/watch?v=aorhPQE54u4
|
|