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人間に、最も必要なものは何か?
恋人?家族?兄弟?それとも、友人?
いや、そんなのじゃなくて、国家だ、社会だ、行政だ、法律だ、という人もいるかも知れない。
いやいや、人間にとって、食事の方が重要だろう。食べないと死んでしまう。
いや、待てよ。食事は、2~3日なら大丈夫だ。それより、水だ。水がないと死んでしまう。
一番、必要なのは、水である。
果たしてそうだろうか?
もっと、大事なものを忘れてはいないだろうか?
それは、空気である。
気が付いた方もおられるかも知れないが、空気は見えない。だから、重要性を意識出来ない。本当の意味での大切さを忘れてしまう。
ここに、信心の胆がある。
信心も目に見えない。実態があるわけではない。顕微鏡で見れば見えるというものではない。
だから、信心が何かとは、言葉で表現するしかない。
言論戦の急所も、この次元である。
見えないものは、心である。心こそ大切なのである。
日蓮大聖人は、信仰の神髄として、ご本尊を表された。これが、結論であって、日蓮仏法が難解難入なのも、結論がいきなり来る、演繹法だからである。
ご本尊の有難味を知るために、観心本尊抄や、開目抄、御義口伝などを読むのも悪くない。教学は重要だ。
御書の一節を拝読してから、ご本尊と相対するというのもいいだろう。
教学の重要性は否定しないが、人間の本然的感性は、実は、もっとシンプルである。
正本堂を建立した創価学会。その正本堂は、魔僧らの手によって破壊されてしまった。
本門の戒壇と言われた正本堂。
だが、壊れていないものがある。
それは、創価学会員の真心である。誠心であり、気持ちだ。
これは、衣の権威でも、破壊出来ない、金剛不壊の美しくも正しい清浄な心である。
見えないものほど、本質がある。功徳がある。歓喜も信心もあるのである。
鎌倉時代に、遠路はるばる大聖人のもとに、馳せ参じた婦人門下の信心・・・・彼女は教学もない漢字なんか読めない。だから、大聖人は、平仮名でお手紙を渡されたのだ。
真心には、真心で。誠実には、大誠実で。
こういう信心の神髄を忘れた弟子が、漢文のみの御書に拘り、御消息文を無視したのである。
信心が分からないから、こうなるだ。
漢文であろうが、かな文字であろうが、大聖人のお心に変わりはない。
見えないから、怖い。見えないから、気が付かない。
大聖人の権威を利用したのが、五老僧であり、信心の本質を見抜いていたのが、日興上人である。
だから、日興上人は、身延離山という、苦渋の決断をしたのである。
立派な建物、大聖人の御真筆のご本尊。
心がなければ、信心がなければ、ただの風景である。
きつねを拝む、鬼子母神を拝む、それ以前に、信心が分からないから、悲惨な結果が出るのである。
今の、宗門も同じである。大御本尊の権威で信徒を縛る。
信心と真逆の想念である。
信心は見えない。
心は見えない。
声高に、「心こそ大切なれ」と叫んでも、信心が分からなければ、誰もついて来ない。
真心とか、信心は、身分や階級ではない。
人間革命には、総理大臣よりも庶民の方が偉いと書いてある。
名もない無名の庶民に、信心の本当の姿がある。
馬鹿にしてはいけない。
この無名の庶民のために立たれるのが、本当の指導者である。本当の革命児である。
日蓮は、涙暇なしと仰せである。
この世から、悲惨の二字がなくなるのが、創価学会が結成された目的である。
不幸の二字をなくすための、題目である。
全ては、心で決まる。
信心で決まる。
その信心がなければ、いかに御本尊が結論を御図現された魂でも、歓喜も功徳も出ない。
心が、ただの観念の遊戯や、その場しのぎの慰めではないのは、信心を知ってる者なら、分かる。
この心が、全世界に広まる事が、化義の広宣流布なのだ。
注釈・・・「蔵の財よりも身の財すぐれたり・身の財より心の財第一なり・此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし」(御書1173頁)
https://www.youtube.com/watch?v=aorhPQE54u4
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