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草々の創価学会の話。今もあるかどうかは分からない。
ある女子部が、信心の話をするために、玄関先を訪問していた。
家主の男性は、彼女に罵声を浴びせ、散々、罵るのである。
彼女は、黙って耐えていた。
だが、激高する主人は、彼女に冷水を浴びせるのである。
一部始終を見ていた、近所の人が、たまらず、割って入って、「そこまでしなくてもいいだろう。」と逆に主人に注意をし、彼女にタオルを手渡す。
昔も今も、創価学会などこういう扱いかも知れない。
だが、学会員の振る舞いを、心ある人は見ているのだ。
黙って見ている人の心を動かすのが、信心である。
心ある人は、世間にいっぱいいる。
信心していなくとも、人情のある婦人、良識のあるご主人は、日本中にいるのだ。
昔と今と、学会のおかれている社会状況は違うかも知れない。かつては、信心をやめないと、会社をクビにするという時代もあった。
そういう日本の良心を敵に回す学会員は、正に法を落とす行為であろう。いるかどうかは知らないが。
人としての振舞、信仰者としての姿勢に、創価学会っていいものなのかも知れないと漠然とも思われたら、それは、仏様の使いである。
南無妙法蓮華経の経が大事とは、池田先生の指導である。
経とは、仏様の足である。
足を使って歩く。
仏の使いとして歩く事が、大事だというのである。
無理やり、聖教新聞を取ってもらう。公明党の支援をお願いする。法を下げるとは言わない。それ自体を否定する事はない。
何が大事か。
真心である。
振る舞いである。
常識である。
相手を尊重し、礼儀正しく行動する信仰者の姿勢である。
創価学会という蓑などいらない。
浴びせられた水の中で、仏道修行する純真な信心に、仏が宿るのである。言い換えれば、正義があるのである。
世法に迎合しろとは言わない。折伏は重要だ。
時と機も、勿論だ。
法とは、新聞の勧誘でも、特定政党の支持依頼でもない。
人の振舞である。
釈尊の出世の本懐は、人の振舞なのだ。
情熱も勇気も大事だが、誠意と感謝と良識は、もっと大事である。
相手の心を打つのが、仏法者の使命である。
師弟不二も重要だが、一番、偉いのは、池田先生ではない。
一番、偉いのは、無名の庶民である。
知ってるか知らないか知らないが、有名人など浮草のようなものである。
公明党の国会議員が偉いのではない。また、偉くしてもいけない。
議員など、庶民の家来である。
無名でも、路傍の石でも、この世には、凄い人は山ほどいる。
雑草のような庶民に、偉大な魂の人は、たくさん、いるのである。
誤解を恐れないで言えば、池田大作よりも、会員さんの方が偉いというのが、本来の創価学会の組織である。
知られていないような民衆の中に、信仰者の模範のような人はいる。いや、本当にいるのだ。
真実の実像というのは、マスコミや学会の書物や、中傷記事ではなく、無名の庶民の菩薩の精神に宿るのである。
そいう人々が、創価学会を支えているのである。
大事なものは、表に出ないのだ。
浴びせられた冷水は、不軽菩薩の魂である。
仏様は、いるのだ。
学がなくても、人情がある。教学がなくとも、生きる知恵がある。学歴がなくとも人柄がいい。全部、なくても、信心がある。
無告の民は、黙って微笑んでいるのである。
注釈・・・・「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(御書1174ページ)
https://www.youtube.com/watch?v=aorhPQE54u4
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