お金があろうがなかろうが勉学に励むと良いことあるよ(たぶん)
May 03 [Sun], 2015, 9:25
ゴールデンウィーク中も作業、作業、作業……と、いっても、合間には40度のウォッカ飲んで、ふわふわした感じになったり、普段と比べればのんびりとやっています。連日ブログ書く程度には。
そんなわけで、「ビリギャル」に関連して、映画が公開になったタイミングということもあり、『LITERA』がこんな記事を出していた。
ビリギャルに実は“ビリ”じゃなかった疑惑が…正体は名門私立中高一貫校のお嬢様! (LITERA)
ざざっと記事の趣旨を要約すると、私立の中高一貫校に通っていたので「進学校でビリ」だったに過ぎず、「小学4年の学力」というのはあり得ないと疑問を呈し、さらに塾に通って「百数十万円」を前払いできるような家庭環境だったことを挙げて、「中学受験のあと何年か遊んでいても、高いお金を払っていい塾に行けば大学受験はなんとかなる」と教育格差の問題だとまとめている。
個人的には、「慶應?ふーん」という感じなので、本を読んで特に感銘は受けなかったが、ある時期より彼女が努力したということは確かで、その価値は目減りしない、と思う一方、上記の記事で指摘されていることも事実だろう。
Parsleyに言える事といえば、勉強は「受験勉強」だけではないし、生きているどこかのタイミングで本を読みまくったり映画を見まくったり、音楽を聴きまくったり、そういったことも勉強だし、本人の努力と運次第で活かす時がやってくる、ということだ。
自分の場合、本を月100冊ペースで読んでいた10代後半から20代前半にかけての「おつり」でやっている、という意識が常にある。100冊も買える財力はないから、そのうち75冊くらいは図書館で借りて、10冊程度は古本屋さんで見つけて、残り15冊は当時ハマっていたラノベという感じだった。
映画に関しても、25歳から30歳くらいまでの間は月10本前後ととにかく見まくっていた時期があった。その時にあわせて先人の演出や脚本の良し悪しについての批評を読んで、自分で学んだ。ぶっちゃけ寝食を削ってやっていたので、こっちは確かにお金が必要だったかな? お金があれば、もっと観たかったしもっと知りたかった。振り返れば人としてどうかという学び方だったと思うけれど、これも今となってはお仕事に活きるようになっている。
こんなことを書くのは、先日に著述家の湯山玲子女史にインタビューする機会があり、「文化系は人を助けるよ」という言葉に深く首肯することができたから。
『男をこじらせる前に』湯山玲子さんインタビュー 「文化にハマって”競争”を飼い慣らそう!」 (ガジェット通信)
先人の知見の蓄積があるものに親しむことにより、様々な失敗やイヤな思いを繰り返しても、ある瞬間に「文化的な喜びがある」という彼女の話には、自分にも思い当たるところがあるし、個人的にこの時期にそういう「大人」に出会えた意味は間違いなくあった。でも、これも前述した本と映画、あとは音楽に浸りまくった時期があったからこそ、得られた機会だったわけで、その頃にフツーの学生生活をしていたならば、会えなかっただろう。
もうひとつParsleyがいえる事として、大学や専門学校に入るために「新聞奨学生という選択は絶対に捨てろ」ということなのだが、朝夕刊の配達が生活の軸になるために、出たい講義やゼミ、それに資格取得を諦めなければならなかった。当時、それほど悔しい思いをしたわけでなく「仕方ない」程度ではあったのだけれど、学業のメインストリートからは外れなければならなかった、というのは確か。これについては、正直なところ家庭にお金があって学生生活を満喫している人たちのことがうらやましかった。
でも、その分図書館に通ったり、お昼ごはん代や通学費を削って映画を見に行っていたことで、まがりなりにも物を書くお仕事ができるようになっているわけで、たぶん当時のキャンパスライフが充実していたとすれば全く別の道を進んでいただろう。そちらの方が幸せだったかもしれないし、どこかに落とし穴があったかもしれない。いずれにしても、湯山女史にインタビューできるような境遇にはなかったはずだ。
こういった本や映画や音楽に打ち込むには、その前段階としての基礎教育があり、それが義務教育や高等教育の場だから、やっぱり授業で学ぶことで無駄なことはないし、どこかで生きる。確定申告をするにも計算しなければならないし、会社のキャッシュフローを見るのに簿記の知識があるに越したことはない。10代の当時は「なんでこんなことをやっているんだろう」と思っていたことが、確かに必要になってくる。
ここで、大人たちが「もっと勉強しておけばよかった」という言葉を実感するわけだけど。勉強なんて死ぬまでできるので、お金に余裕ができてから大学に入って学ぶということだってアリなわけだし、逆にいえば勉強をやめると人生のどこかでコケる。
繰り返しになるけれど、「ビリギャル」が本で書かれているような「恵まれている」境遇だったというのは確かだろうし、教育格差があるというのも事実だ。でも、だからといって「お金」や「時間」を理由に勉強しない・できないというほど、日本って後進国じゃない。ただ、どこかで一発逆転を狙うにしても、頭の筋力は必須だから、お金がなかったらなかったなりに鍛えることは無駄にならない。
私もお金がなかったクチだから、お金がある人たちのことを随分と恨んできた。それでも、イヤな思いをしてもしがみついて踏ん張って「知」に触れ続けることは、お金の有無ではなく、本人の意思次第。そういうことをようやく実感できるようになった。
だから、まぁ。「ビリギャル」も慶應に入ったことで満足して勉学の歩みを止めれば、どこかで躓くだろうし、彼女の境遇を「恵まれている」とうらやんだところで自身を取り巻く状況が変わるわけじゃない。だから、「ビリギャル」とは別の本を読んだり映画を観た方がいい。たぶん、それがどこかで、必ず自らを助くはずだから。
ただ、どんなにお金がなくても、ほんとうに新聞奨学生だけはやめたほうがいい。これだけは最後に強調して、今日もゆるゆる作業をねりねりしていきます。
そんなわけで、「ビリギャル」に関連して、映画が公開になったタイミングということもあり、『LITERA』がこんな記事を出していた。
ビリギャルに実は“ビリ”じゃなかった疑惑が…正体は名門私立中高一貫校のお嬢様! (LITERA)
ざざっと記事の趣旨を要約すると、私立の中高一貫校に通っていたので「進学校でビリ」だったに過ぎず、「小学4年の学力」というのはあり得ないと疑問を呈し、さらに塾に通って「百数十万円」を前払いできるような家庭環境だったことを挙げて、「中学受験のあと何年か遊んでいても、高いお金を払っていい塾に行けば大学受験はなんとかなる」と教育格差の問題だとまとめている。
個人的には、「慶應?ふーん」という感じなので、本を読んで特に感銘は受けなかったが、ある時期より彼女が努力したということは確かで、その価値は目減りしない、と思う一方、上記の記事で指摘されていることも事実だろう。
Parsleyに言える事といえば、勉強は「受験勉強」だけではないし、生きているどこかのタイミングで本を読みまくったり映画を見まくったり、音楽を聴きまくったり、そういったことも勉強だし、本人の努力と運次第で活かす時がやってくる、ということだ。
自分の場合、本を月100冊ペースで読んでいた10代後半から20代前半にかけての「おつり」でやっている、という意識が常にある。100冊も買える財力はないから、そのうち75冊くらいは図書館で借りて、10冊程度は古本屋さんで見つけて、残り15冊は当時ハマっていたラノベという感じだった。
映画に関しても、25歳から30歳くらいまでの間は月10本前後ととにかく見まくっていた時期があった。その時にあわせて先人の演出や脚本の良し悪しについての批評を読んで、自分で学んだ。ぶっちゃけ寝食を削ってやっていたので、こっちは確かにお金が必要だったかな? お金があれば、もっと観たかったしもっと知りたかった。振り返れば人としてどうかという学び方だったと思うけれど、これも今となってはお仕事に活きるようになっている。
こんなことを書くのは、先日に著述家の湯山玲子女史にインタビューする機会があり、「文化系は人を助けるよ」という言葉に深く首肯することができたから。
『男をこじらせる前に』湯山玲子さんインタビュー 「文化にハマって”競争”を飼い慣らそう!」 (ガジェット通信)
先人の知見の蓄積があるものに親しむことにより、様々な失敗やイヤな思いを繰り返しても、ある瞬間に「文化的な喜びがある」という彼女の話には、自分にも思い当たるところがあるし、個人的にこの時期にそういう「大人」に出会えた意味は間違いなくあった。でも、これも前述した本と映画、あとは音楽に浸りまくった時期があったからこそ、得られた機会だったわけで、その頃にフツーの学生生活をしていたならば、会えなかっただろう。
もうひとつParsleyがいえる事として、大学や専門学校に入るために「新聞奨学生という選択は絶対に捨てろ」ということなのだが、朝夕刊の配達が生活の軸になるために、出たい講義やゼミ、それに資格取得を諦めなければならなかった。当時、それほど悔しい思いをしたわけでなく「仕方ない」程度ではあったのだけれど、学業のメインストリートからは外れなければならなかった、というのは確か。これについては、正直なところ家庭にお金があって学生生活を満喫している人たちのことがうらやましかった。
でも、その分図書館に通ったり、お昼ごはん代や通学費を削って映画を見に行っていたことで、まがりなりにも物を書くお仕事ができるようになっているわけで、たぶん当時のキャンパスライフが充実していたとすれば全く別の道を進んでいただろう。そちらの方が幸せだったかもしれないし、どこかに落とし穴があったかもしれない。いずれにしても、湯山女史にインタビューできるような境遇にはなかったはずだ。
こういった本や映画や音楽に打ち込むには、その前段階としての基礎教育があり、それが義務教育や高等教育の場だから、やっぱり授業で学ぶことで無駄なことはないし、どこかで生きる。確定申告をするにも計算しなければならないし、会社のキャッシュフローを見るのに簿記の知識があるに越したことはない。10代の当時は「なんでこんなことをやっているんだろう」と思っていたことが、確かに必要になってくる。
ここで、大人たちが「もっと勉強しておけばよかった」という言葉を実感するわけだけど。勉強なんて死ぬまでできるので、お金に余裕ができてから大学に入って学ぶということだってアリなわけだし、逆にいえば勉強をやめると人生のどこかでコケる。
繰り返しになるけれど、「ビリギャル」が本で書かれているような「恵まれている」境遇だったというのは確かだろうし、教育格差があるというのも事実だ。でも、だからといって「お金」や「時間」を理由に勉強しない・できないというほど、日本って後進国じゃない。ただ、どこかで一発逆転を狙うにしても、頭の筋力は必須だから、お金がなかったらなかったなりに鍛えることは無駄にならない。
私もお金がなかったクチだから、お金がある人たちのことを随分と恨んできた。それでも、イヤな思いをしてもしがみついて踏ん張って「知」に触れ続けることは、お金の有無ではなく、本人の意思次第。そういうことをようやく実感できるようになった。
だから、まぁ。「ビリギャル」も慶應に入ったことで満足して勉学の歩みを止めれば、どこかで躓くだろうし、彼女の境遇を「恵まれている」とうらやんだところで自身を取り巻く状況が変わるわけじゃない。だから、「ビリギャル」とは別の本を読んだり映画を観た方がいい。たぶん、それがどこかで、必ず自らを助くはずだから。
ただ、どんなにお金がなくても、ほんとうに新聞奨学生だけはやめたほうがいい。これだけは最後に強調して、今日もゆるゆる作業をねりねりしていきます。
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