以下の内容に誤りのある、あるいは質問のある場合、コメント欄などにてぜひともお教えください。また、数学の慣習的な表記方法と異なる表記がありますが、それは便宜的で簡単のためなのでご容赦を。
数学では、集合という概念の理解が必要です。本来の集合の定義はとても難しいのでここでは単に「数の集まり」と定義しておきましょう。
集合に関する記号の導入
ある数xが集合Xに属する(含まれる、ではありません)ことを x∊X と表記します。この場合、xは「Xの要素(または元)」と呼ばれます。
例えばℕを自然数すべての集合としたとき、 1∊ℕ です。
逆に、ある数yが集合Yに属さないとき、 y∉Y と表記します。
例えば -1∉ℕ です。
ある集合を表現するのには、二通りあります。
A={1,2,3} のように、集合をアルファベットの大文字、集合に属する要素を中括弧で囲む方法は外延性定義と呼ばれます。要素の個数が無限である集合、たとえば自然数全体の集合の場合、要素の個数は無限ですから、
B={1、2、3、・・・・・・} と省略するのが普通です。
C={x|xはすべての自然数} のように、 要素の条件を入れて集合を定義する方法は内包的定義と呼ばれます。
内包的定義の場合、条件は客観的で厳密で、全ての数が「条件を満たす」か「条件を満たさない」のいずれかであるような条件ではなくてはなりません。すなわち、「大きい数」や「好きな数」といった条件は客観的でも厳密でもありません。 しかし X={ x|xは19文字以内で記述できない最小の自然数 } という条件は、一見条件として適切なように見えて、パラドックスを引き起こします。詳しくはこちらをどうぞ。
次に、集合と集合の関係を示す記号を紹介します。
このような場合、集合Aは集合Bに含まれる(属する、ではありません)、または、集合Aは集合Bの部分集合である と言います。記号で書くと、 A⊆B です。
もし、図のようにXがYからはみ出している、もしくはまったく共通部分のないときは A⊈B と書きます。
今 D={1、2、3、4、} と定義します。すると集合Dの部分集合は
{} {1} {2} {3} {4} {1、2} {1,3} {1,4} {2,3} {2、4} {3、4} {1,2,3} {1,2,4} {2,3,4} {1,2,3,4}
各要素が「入る」「入らない」の二択で、4要素あるので、部分集合は合計 2×2×2×2=16 個です。
注意として、上の {} のように、要素の個数が0である集合を空集合と呼び、∅ とも書きます。この集合は、どんな集合に対しても部分集合として含まれます。
また部分集合{1,2,3,4}は元の集合Dとまったく一致しますが、これも部分集合とよばれます。もし集合Xが集合Yの部分集合で、X=Yでないとき、
X⊂Y と書き、XはYの真部分集合である と言います。
そうでないときは例のごとく X⊄Y と表記します。
ある集合Xの「大きさ」や「要素の数」を濃度といい、集合Xの濃度を|X|と表記します。Xが有限個の個数の要素をもつ集合(有限集合)ならば、その濃度は要素の個数と一致します。だから|{}|=0 、|D|=4 となります。
無限の話
「じゅげむじゅげむごこうの・・・・・・」とはじまる寿限無は、誰しも一度は耳にしたことがあるでしょう。この長文の中で「五劫の擦り切れ」という語が登場します。この言葉は仏教が発祥で、以下のような意味です。
天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して無くなってしまうまでが一劫とされ、その期間はおよそ40億年。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。別の落語では、天女が三千年に一回、那須山に下りてきて羽衣で一振りして、須弥山がなくなるまでが一劫である。(wikipediaの「寿限無」の記事より引用)
四十億年が五回ですから、なんと二百億年!! ひたすらに長い時間です。
しかし、人間にとって永久に思えても、どんなに長くとも、有限には違いありません。一秒一秒指折り数えていけば、かならず終わりが来ます。
しかし対して無限はその名のごとく「限りがない」のですから、終わりがありません。無限大を数学はこのように定義しています。
任意の正の数xに関して常に x<y である数y。
この定義は直観にも反していませんし、厳密でありましょう。しかし、無限ではなく、「無限とはなにか?」に応えてくれるものには思えません。
こういった疑問は昔から人々を悩ませていました。ある人間は、無限を研究しようと、次のようなことを考えました。
「ある集合とある集合の要素の個数が一致するならば、要素と要素を対応付けられるはずだ。」
つまり X={ 1,2,3 } 、 Y={ 4,5,6 } という二つの集合があった時、それぞれの集合に属する要素の個数が一致していることは明白でしょう。これは 1⇔4、 2⇔5 、3⇔6 (a⇔bは、aとbが対応している意味とします)と一対一に対応付けられるからです。ある集合のすべての要素とある集合のすべての要素が一対一対応するとき、そのことを全単射と呼びます。
彼は二つの無限集合を用意します。A={1,2,3、4・・・}、B{2、3、5、7・・・} Aは自然数全体の集合で、Bは素数全体の集合です。明らかにBはAの真部分集合である、即ち、Aの濃度は、Bのそれよりも少ないと思われます。
しかしいざ対応付けをしてみると
1⇔2
2⇔3
3⇔5
4⇔7
・・・・・
一対一の対応付けは終わらず、さもAの濃度が、Bのそれと同じようになっているようです。
この直観に反した結果に悩み、彼は研究を断念しました。
何年もたち、数学者カントールも無限の研究をしていました。彼は「2個の集合の濃度が一致するならば、その2個の集合は全単射である」という考えを「2個の集合の濃度が一致するならば、その2個の集合は全単射である。かつ、2個の集合が全単射であるならばその2個の集合の濃度が一致する」へと進化させました。
上の説明では、AとBはどうしても濃度が一致するように思えません。しかし、要素が一対一対応するならば、濃度が同じとみなすべきなのです。この考え方は直観に大きく反すると思われます。しかしこの考えは、無限をずっとうまく取り扱えるようになるものなのです。
AとBは全単射ですから、|A|=|B|です。C={1,4、9、16・・・}とした場合でも、
1⇔1
2⇔4
3⇔9
4⇔16
・・・・・・ とできるので |A|=|C| です。
カントールは、自然数全体の集合ℕを無限の濃度の基本とし、|ℕ|=ℵ0 と表記しました。「ℵ」はアレフと読みます。
だから|ℕ|=|{ 2,3,5,7・・・・・・ }|=|{ 1、4、9.16・・・・・・ }|=ℵ0
となります。
このような無限集合の特徴は、漏れなく数えることができる、ということです。
数え終わることはできません。しかし、1,2,3,4・・・・・と数えていけば、一つの自然数を数え忘れるということはない、ということです。また言い換えれば、「集合に属する数が何番目か定められる」ということです。こういった無限集合を可算無限集合と呼びます。
次にカントールが考えたのは、ℕより濃度の大きい集合はあるだろうか、ということです。そこで整数全体の集合(ℤと表記します)とℕとの対応関係を調べます。すると
0⇔1
1⇔2
-1⇔3
2⇔4
・・・・・・ と一対一対応をします。だから|ℤ|=|ℕ|です。
有理数と自然数
次に考えるべきは有理数全体の集合(ℚと表記します)とℕとの関係です。
1⇔1
1/2⇔2
1/3⇔3
・・・・・・ と考えていくと、2/3という取りこぼしがあります。すると、1と2の間には無限の有理数があるのだから、全単射ではなく、濃度に大小があるのでは、と考えてしまいますが、カントールはℕとℚが全単射であることを証明しました。まず、次のような表を考えます。
同じ数を一つだけにします。
右上から左下に行くように自然数を振っていきます。
この表にゼロを加え、負の有理数の表もつくります。これでも有理数は数えられる、任意の有理数の番号を定められる、つまりℚとℕは全単射だと証明できました。即ち |ℕ|=|ℚ|
実数と自然数
ここで記号 ¬ をします。これは否定という意味です。ここでは、¬0=1、¬0=1 と定義しましょう。
そして次に、実数全体の集合(ℝと表記します)との対応を考えます。
まず、集合EをE={ e|0< e < 1 } とすると、これは集合ℝと全単射です。
なぜかというと、F={ f | 0< f < 2 | } とした場合 2e⇔f と対応付ければEとFは全単射です。このような操作を行えば、Eとℝが全単射であることが分かります。
即ち、ℕとEが全単射ならば、ℕとℝは全単射ということになります。
以下、ℕとℝが全単射でないことの証明。
背理法を使います。
ℕとℝ が全単射、即ちℝが可算無限集合である、つまり任意の実数には自然数を対応付けられると仮定する。
つまり、0以上1未満の実数が与えられれば、それが何番目か答えられるというわけです。
xを二進法表記にします。途中で終わっても0を永遠に続けることにします。
すなわち、0.5=0,1000・・・・・・(2)
0.93775=0.1111・・・・・・(2)
すると実数は以下の表のように並べられる。ミスなのでkはpと考えてください。また表はn番目で終わっていますが、続きを省略しただけです。※桁数とは、小数第何位かのことです。
ここで Eに属するn番目の実数の、小数第n位の数(0か1かのいずれか)をa[n.n]と表す。
数列 {bn} をbn=¬a[n.n] と定義する。すなわちa[n.n] =1のときbn=0、a[n,n]=0のときbn=1。
すなわち下の表の赤文字がa[n,n]である。
よってbn=0、1、1、1、・・・、¬p、・・・ (¬は否定の意味。p=1ならば¬p=0.p=0ならば¬p=1)
これでb=011…¬p・・・ とするとbは一つの実数を表す。
ここで、数列bは0以上1未満の実数なのだから、Eに属するはずである。
したがって上の表のどこかに入るはずである。確認してみましょう。
一番目の実数 小数第一位がbと異なる。
二番目の実数 小数第二位がbと異なる。
三番目の実数 小数第三位がbと異なる。
・・・・・・
n桁目の実数 小数第n位がbと異なる。
すると小数第何位まで調べても、実数bは表の中に入っていない。これは矛盾である。即ち仮定が偽である。したがって実数は自然数と一対一対応ではない。
すなわち|ℕ|<|ℝ|(証明終)
表のとおり対角線を使いますので、このような証明方法をカントールの対角線論法と呼びます。
以上のことから、無限には大小があることが示されました。ℝの濃度を、実数が連続であることから連続体濃度とよび、ℵ1と書きます。
証明は省略しますが、カントールはℵ1より大きい濃度の集合の存在を証明します。さらにそれより大きい濃度の集合の存在も証明します。
ℵ0<ℵ1<ℵ2<・・・・・・<ℵn<・・・・・・と無限の濃度の大きさは無限なのです。
余談
他にもカントールは、直線状の点全体の集合、平面上の点全体の集合、空間上の点全体の集合が全単射であることを証明しますが、それは僕の暇なときに。また、代数的数全体の集合がℕと全単射なので、このことから超越数の存在を証明できるのですが、これもいつか。
また、カントールは「ℵ0とℵ1の中間の濃度を持つ集合はないだろう」と考えました。この命題は連続体仮説と呼ばれます。
カントールは死ぬまでこの命題にとりくみましたが、結果は得られませんでした。現在、連続体仮説は、現代数学からは証明も反証もできないことが証明されました。カントールの努力は徒労だったわけです。しかも上の対角線論法が当時の数学者に受け入れられず、師匠には人格批判までされ、カントールは精神的に参ってしまいます。とほほ・・・・・・。
最後に
数学の基礎である集合論を考え出し、対角線論法という美しい証明を生み出した、不幸で偉大なる数学者カントールに最大限の敬意と感謝を。
コメント