井原西鶴「好色一代男」の3倍! フィリピンで1万2000人を買春! 欲望を完全解放した「元中学校校長」絶倫熱帯夜
井原西鶴の処女作『好色一代男』の主人公が生涯に肉体関係を持ったのは女性3742人、男性725人の計4467人である。その約3倍、延べ1万2660人を買春した元中学校校長が、倒錯した欲望を完全に解放し、26年間も耽溺した「マニラの夜」の全貌――。
***
夜のとばりがおり、明滅するネオンが街路を照らしだすと、街は淫靡で猥雑な貌(かお)を惜しげもなく晒し始める。褐色の肌を露出させたストリートガールたちの嬌声。行き交うタクシーのクラクション。どこかの店から漏れてくるくぐもった音楽。昼間の熱気が残って熟れたようになっている街には、ギラギラした欲望が充満し、膨張しきっている。
フィリピンの首都マニラの歓楽街、エルミタ。その一角にある『LAカフェ』はフィリピン人娼婦が集う「援助交際スポット」である。怪しげに光を放つネオンの看板の下にある扉を押して中に入ると、香水とタバコの臭いが入り混じった濃密な空気に包まれ、むせ返りそうになる。広い1階のフロアは、娼婦と、彼女らを品定めする外国人観光客でごった返している。
2階フロアでは生バンドがロック調の乗りのいい曲を大音量で演奏しており、その一角には、客待ちをする十数人の娼婦の一群がある。彼女らはひそひそと囁き合いながら、男性客の視線を察知すると、必ず意味ありげな微笑みを送り返してくる。男性客が娼婦と目を合わせ、手で招くとテーブルにやってきて、交渉がスタートする仕組みだ。
この店を「仕事場」にしているA(27)はミンダナオ島のダバオ出身で、18歳の時から娼婦として働いてきた。気の強そうな目をした、小柄な美人である。彼女に“男”の写真を見せると、その大きな瞳に驚きの色が浮かんだ。
「この人、知ってるわ! そう、怖かったのよ。だからよく覚えているわ。なぜ彼のことを聞くの? もしかして彼、レイピストだったの? え? 学校の先生? そうだったの。本当に気味が悪かったのよ。だってあんなに大きなカメラで撮影なんて……」
思い出しながら顔をしかめる彼女に見せたのは、横浜市の元中学校校長、高島雄平(64)の写真だ。
神奈川県警が高島を逮捕したのは4月8日。マニラのホテルで13歳~14歳の少女とみだらな行為をし、その様子をカメラで撮影したという児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いである。
「マニラを頻繁に訪れ、少女を含む何人もの女性を買春している日本人がいる。そんな情報をフィリピンの捜査当局などから得た警察庁が神奈川県警にそれを伝えたのは2013年の9月。県警はフィリピン当局の協力を得ながら捜査を進めた上で昨年2月、高島の自宅の家宅捜索に踏み切ったのです」(捜査関係者)
高島の書斎に入った捜査員が発見したのは、目を剥くような“ブツ”だった。出てきたアルバム410冊には、実に約14万7600枚の写真が綴じられていた。写っていたのは、あられもない姿でポーズを取っていたり、高島と性行為中の女性。年齢は10代から70代で、女性ごとに番号を振るという几帳面さだ。
「高島は1988年から3年間、マニラの日本人学校に赴任しており、この時に買春を始めた。その後は春、夏、冬の学校の長期休みにフィリピンに渡り、1回あたり2週間ほど滞在していた。昨年までの渡航回数は65回。26年間で買春した女性の数は延べ1万2660人に上ります。買春をするのはフィリピン滞在時だけで、日本ではやっていないと見られます」(同)
写真押収後、県警は捜査を本格化。目指したのは、写っているフィリピン人少女の特定である。
「県警はある写真に注目した。写っているのはホテルの部屋らしき場所にいる裸の少女で、彼女には陰毛がなく、胸も未発達だった」
と、神奈川県警関係者。
「捜査の結果、そのホテルはマニラのエルミタ地区にある“U.N.ロッジ”という安宿であることが分かったのですが、結局、その少女の特定には至らなかった。そこで容疑を、彼女に対する買春行為ではなく、彼女の写真を撮ったという児童ポルノ禁止法違反に切り替えることになった」
逮捕翌日の夜、“逃亡の恐れなし”として釈放された高島が問題の少女を買春したのは昨年1月。高島に少女を斡旋したのは、40代の女性ブローカーだ。
仲間からジーンと呼ばれている彼女は、マニラのエルミタで路上生活を送りながら、現在もブローカー業を行っている。ある日の彼女はショッキングピンクのワンピースを身にまとっており、その後姿こそ、すらりと背の高い女性という雰囲気だが、正面から見た姿は怪異というほかない。手足は枯枝のようにしなびて細く、頬はこけ、目だけがギョロリとしていて、見る者をぎょっとさせずにはおかないのだ。
「ええ、私はタカシマと長い付き合いではありますよ。彼には本当にたくさんの女の子を紹介してきました。年齢も顔も姿も、いろいろなタイプの女の子をね。本当に彼は誰にでも優しく、誠実な人」
そう言って高島を庇うジーンだが、彼女のことを知る女性ブローカー仲間は、
「昨年の1月頃だったかしら、NBI(国家捜査局)の職員がこの界隈でジーンを探していたわ」
と、振り返る。
「ジーンは昔、この界隈にあったゴーゴーバーの踊り子だったの。タカシマは最初、彼女をその店で買って、セックスをしていた。その後、ジーンはダンサーを辞めてブローカーになり、タカシマはこの辺りで遊ぶ時にはよく彼女を利用していた。彼女は大勢の女の子を抱えているからね」
こう話す彼女自身も、高島に買われたことがある。
「その時、私はまだ15歳だったのよ。タカシマは『LAカフェ』の裏手にある“ブールバードマンション”というホテルに泊まっていたんだけど、そこへ行く前に化粧を厚めに塗って、なるべく老けて見えるように努力したわ。おかげで、ホテルの警備員に年齢を聞かれても、18歳と答えて、中に入ることができた。内心ひやひやしたのを覚えているわ。セックスして、彼には1000ペソ(約2700円)貰った」
彼女は現在40歳前後。つまり彼女が買われたのは二十数年前の話で、高島がマニラで買春に勤しむようになった“初期”にあたる。
■ホテルの部屋で撮影会
一方、先に触れた娼婦Aが『LAカフェ』で高島に会ったのは、今から2年前、2013年1月のことだ。
「彼はもう1人のおじさんと2人で来ていたわ。立っていたら呼ばれたのでテーブルに着いて聞いてみたら日本人だと言う。私は日本語が全然できないから席を立とうとしたら、“ノープロブレム。アイキャンスピークタガログ&イングリッシュ”と彼が言ったの」
娼婦Aはそう述懐する。
「30分後、一緒に店を出て彼が泊まっている“パビリオンホテル”という高級ホテルに行ったわ。スタンダードな部屋だったけれど、そこには見慣れないものがあった。三脚に設置された、キヤノンかニコンの大きなカメラよ。三脚はベッドの足元側に立てられていて、レンズはベッドの方を向いている。戸惑っている私に彼は“ビデオを撮りたい”と頼んできて……」
そして、彼女は高島の凄まじい“裏の顔”を目撃することになるのだが、それを詳述する前にまず彼の“表の顔”に触れておく。
高島が最初に横浜市内の市立中学校の教師として採用されたのは1975年4月。理科と技術・家庭の教員免許を所持している彼がその後、いくつかの中学校を経て、市立芹が谷中学校の校長に就任したのは2008年4月だ。その3年後に定年退職し、退職金約3000万円を得ている。
自宅は横浜市金沢区にある3階建ての瀟洒な一軒家で、妻、息子2人、娘1人の5人家族である。
「高島さんは非常に温厚な雰囲気で、気軽に挨拶をしてくるような方でした。いいお父さんという感じですね。お子さんは全員もう社会人になっていて、最近はあまり姿を見かけません」(近所の住人)
高島が1988年から3年間、マニラの日本人学校に赴任していたことは先に触れたが、マニラに渡る直前に勤めていた中学校の同僚教師はこう評する。
「高島は仕事はできたよ。修学旅行に行く時の立案とか、生徒に委員会を作らせて指導するとか、面倒な仕事を嫌な顔をせずにテキパキこなす。事務処理能力が高いんだ。悪い評判としては、同じ学校の女性教員と不倫してる、という噂はあったな」
生徒からの評判も上々だったようで、マニラでの赴任期間を終えた後に勤めた中学校の教え子によると、
「高島先生は技術を教えていて、髪の毛がチリチリで色黒の、友達みたいな先生でした。クラスのみんなからは“ユーヘイ”と下の名前で呼ばれていましたね。今回の事件には驚きましたが、もっとビックリしたのは、ユーヘイがその後、校長になっていたことです。出世とは無縁そうな、一匹狼的な先生だったから」
高島は芹が谷中の校長に就任する前の1年間、同校の副校長を務めている。
「高島先生は、地味でおとなしい方という印象ですね。度々フィリピンに渡航しているのは知っていました。彼は、マングローブの植林のボランティアに携わっていて、その為に長期休暇で向こうに行くのだと言っていました」(同校関係者)
実際は女性の買春と“記録”に励んでいた高島。動機を問われた彼は警察の調べでこう供述している。
「仕事のプレッシャーが強ければ強いほど、倫理観のたがを外すことで解放感を味わえた」
彼はどのようにして倫理観のたがを外し、自らの欲望を解放させていたのか。先の娼婦Aの証言に戻ろう。
「ビデオを撮りたい」
高島はそう懇願したが、Aは嫌がり帰ろうとした。
「写真や動画は自分で楽しむためで、オナニーに使うだけだから。絶対に流出させないから大丈夫だ」
「1万ペソ(約2万7000円)払うから」
食い下がる高島が提示した金額は、Aにとって魅力的なものだった。なにしろ、
「私たちの基本相場って、エッチするだけだと大体3000ペソ(約8100円)なの。彼はその3倍以上も払うと言う。それで悩んで、顔と足のタトゥーをタオルで隠してなら、と条件を出した。写真はいいけど、動画は嫌だ、とも言って認めてもらったわ。でも、三脚のカメラはずっと録画状態だったのかもしれない」
いずれにせよ、交渉は成立。それぞれシャワーを浴び、Aは顔と足にタオルを巻いて準備した。
「さあ、セックスが始まるのかと思いきや、まずはキヤノンのシルバーのコンパクトカメラで撮影会が始まったの。私は彼の言うままに、局部が見えるような挑発的なポーズを取らされたり、壁に手をついてお尻を突き出し、顔はカメラの方を向くといったポーズだったり……。彼は“ユーアーソープリティ、ソーエロティック”と言いながら嬉しそうに撮影していたわ。ベッドの上でドッグスタイル(四つん這い)にさせられ、後ろから局部を撮影された。撮られた枚数は100枚はいってる。本当にパシャパシャ撮るんだもの!」
興奮して目を大きく見開きながら語るAは、その後の展開に話が及ぶと一転、恥ずかしげに俯(うつむ)いた。
「やがて彼はカメラを置き、私の股間に顔を近づけ、手で私の両足をグイッと広げたの。部屋の電気はついたままで、まじまじと凝視されて本当に恥ずかしかった。でも、撮影は終わったようなので、いよいよセックスが始まると思ったわ」
部屋の灯りを消して欲しい――そう彼女が頼むと、高島は冷静な口調で奇妙なことを口走ったという。
「“ノープロブレム。ビコーズ アイ アム ドクター。アイ マスト チェッ クユア プッシー”と言って電気はつけっぱなしのまま。彼は私の局部を見て、“オー プッシー ベリー グッド……。オーケーオーケー”と言いながら舐め続けるのです。とにかくこれが長くて、20分以上は舐められていたかな」
……彼女の赤裸々な告白はまだ続く。
「挿入の段になると、彼はまたドッグスタイルになるよう命じてきたわ。彼がコンドームをつけようとしないので、装着するよう頼んでも“ノープロブレム”と言って譲らない。押し問答の末、しぶしぶ自分の鞄から取り出して装着していました。ドッグスタイルで挿入され、激しく腰を動かして疲れたのか、最後のほうはゼーハーゼーハー息を切らして果てたわ。挿入していた時間は5分もなかったんじゃないかな」
事後、どんな写真を撮られたのか気になった彼女が、コンパクトカメラを渡すよう高島に言うと、彼は意外なほど素直に手渡した。
■卑猥な言葉を歌うように
「再生ボタンを押すと、私の局部が大写しになった写真が何枚もあって恥ずかしかった。呆れて、自分の写真を飛ばしながら見ていくと、別のフィリピーナの写真が次々に出てきたの。胸が全然成長していない少女の写真もあったわ」
彼女が唖然として写真を眺めていると、まずいと思ったのか、高島はその手からカメラを取り上げた。
「私は怖くなって、早く帰ろうと思った。最後に彼は封筒から1万円札を2枚出して私にくれた。それでおしまい。その封筒の中には、おそらく100万円か、分厚い札束が入っていたわ」
以上が娼婦Aが体験した一部始終である。
その証言から分かるのは、高島が行為そのものよりも写真撮影に重きを置いていること。そして、局部に対して見せる、異常とも思えるような執着だが、これらは他の娼婦の証言とも重なり合う。
「私は彼と『LAカフェ』で出会い、近くのホテルへ行った。部屋に入って私が“シャワーする?”と聞いたら、“まだまだ、ピクチャー!”と言っていきなり携帯電話で私を撮影したの! ベッドの上でも様々なポーズを取らされた。股を広げるポーズを取らされた時には、彼は日本語で女性の局部を指す卑猥な言葉を歌うように何度も言いながら、ぶつかるんじゃないかと思うくらい携帯を近づけて何枚も接写されたわ」(34歳の娼婦B)
「タカシマと知り合ったのは、2、3年前だった。それからは彼がこっちに来るたびにステイしているホテル、ブールバードマンションに行くようになったわ。毎回、写真を撮られてセックスをして1000ペソ(約2700円)を貰うという感じ」(23歳の娼婦C)
すでに触れた通り、高島は昨年までに65回フィリピンに渡航。1回の滞在が2週間だったとして日数に換算すると910日となる。これまでに買春した女性は、延べ1万2660人。単純計算すると、1日に約14人の女性を相手にしていたことになるのだ。買春した女性の数はなぜここまで膨れ上がったのか。その謎を解く証言をしてくれるのが、娼婦D(25)。肩先まで伸びたストレートの黒髪に太い眉、つぶらな瞳に整った鼻。1カ月に1度バタンガンという田舎町からマニラに出稼ぎに来る、美形の娼婦だ。
■グルーブでホテルへ
娼婦Dが、先述した路上生活者の女性ブローカー、ジーンの紹介で高島に初めて会ったのは2011年のことだった。
「彼はブールバードマンションのスイートルームに泊まっていることが多く、マニラに来る日を事前にジーンに連絡していて、私にはジーンから“タカシマが3日後に来る”といった電話があるの。そしたら、私も彼に合わせてバタンガンからマニラに来て、彼の滞在期間はほぼ毎日、ホテルに行っていたわね」
彼女が他の娼婦のケースと違うのは、必ずグループで高島のホテルを訪れていたことである。
「まず昼の1時頃、ジーンが寝泊まりしているエルミタの路上に女の子が集合するの。一定数が集まると、そのグループで彼の部屋に行く。その数は4人だったり5人だったり、日によって違うんだけど、ジーンが決めていて、定員オーバーになった子は次のグループに参加する。1日で3グループ作られるから、1グループ5人なら1日に合計15人が彼の部屋に行くことになる。大抵、夕方5時には彼の遊びは終わるわ」
高島が常宿にしていたというブールバードマンションのスイートルームは、ダイニングルームとベッドルームが別になっており、
「5人の女の子が集まって部屋のベルを鳴らすと、トランクス一丁で片手にカメラを持った彼が“ピクチャー、ピクチャー”と言いながら私たちの集合写真をまず撮るの。撮影が終わり、彼がベッドルームに入ると、それがヌード撮影会スタートの合図よ。ダイニングルームが女性の待機場所になり、1人ずつベッドルームに入って撮影やセックスをしてお金を貰って帰るという流れなの。1人がベッドルームから出たら、すぐ次の女性が入っていくの」
ベッドルームの中で行われることは、他の娼婦のケースとそう変わらない。ただし、女性1人にかける時間は異常に短く、10分程度で終わることもある。せわしないことこの上ないが、
「ベッドルームに入ったら、まずはシャワー。私たちはその後、彼に局部を隈なく見られたり撮影されるのが分かっているから、そこを念入りに洗うわ。シャワーから出るとまずはベッドに仰向けに寝て、とにかく全身を撮られるわ。胸のアップの写真や、お尻のアップの写真を撮られ、メインは局部。仰向けになって、股を開かせられるの。彼、触りながら写真を撮るのが好きなんだけど、前の女の子も触ってるから手が汚いでしょ。だから私が止めてって言うと、“アイム ドクター ドント ウォーリー”って言うの」
女性から懸念を表明されたり拒否されそうになると、免罪符のように“ドクター”を持ち出す癖があるようだが、避妊具を着けようとしないことも、他の娼婦のケースと共通している。
「“妊娠しちゃったらどうするの?”って聞いたら、こう言ってた。“アイム ドクター ドント ウォーリー。マイ ペニス イズ クリーン”。最初の時にそう言われて以降、私もお金が欲しかったから拒むことはしなかったわ」
高島は性行為のためではなく、写真撮影を目的として買春している、と彼女は断言する。その根拠は、
「何十回と彼の相手をしているけど、射精したところを見たことがないの。挿入したものの微動だにせず、結合部分を執拗に撮影していたこともあったわ。で、写真を撮り終えて満足すると、抜き取ってオシマイ。終わって1500ペソ(約4050円)を貰う時に、私みたいなお気に入りには“また明日ね”と必ず言うわ。部屋を出て、ホテルのロビーに行くとジーンが待っている。彼女に20%の仲介手数料300ペソ(約810円)を支払って、仕事は終わり。最後に彼に会ったのは、2013年の夏頃だったかな……」
それはちょうど、フィリピンの捜査当局が日本の警察庁に高島の情報を提供したのとほぼ同時期だ。彼は、ただひたすらに倒錯した欲望を発散し続けるフィリピンの「熱帯夜」が永遠に続くと考えていたのか。だが、どんな夜にも終わりは訪れる。たとえそれが、四半世紀以上も続いた長い長い夜だったとしても――。
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夜のとばりがおり、明滅するネオンが街路を照らしだすと、街は淫靡で猥雑な貌(かお)を惜しげもなく晒し始める。褐色の肌を露出させたストリートガールたちの嬌声。行き交うタクシーのクラクション。どこかの店から漏れてくるくぐもった音楽。昼間の熱気が残って熟れたようになっている街には、ギラギラした欲望が充満し、膨張しきっている。
フィリピンの首都マニラの歓楽街、エルミタ。その一角にある『LAカフェ』はフィリピン人娼婦が集う「援助交際スポット」である。怪しげに光を放つネオンの看板の下にある扉を押して中に入ると、香水とタバコの臭いが入り混じった濃密な空気に包まれ、むせ返りそうになる。広い1階のフロアは、娼婦と、彼女らを品定めする外国人観光客でごった返している。
2階フロアでは生バンドがロック調の乗りのいい曲を大音量で演奏しており、その一角には、客待ちをする十数人の娼婦の一群がある。彼女らはひそひそと囁き合いながら、男性客の視線を察知すると、必ず意味ありげな微笑みを送り返してくる。男性客が娼婦と目を合わせ、手で招くとテーブルにやってきて、交渉がスタートする仕組みだ。
この店を「仕事場」にしているA(27)はミンダナオ島のダバオ出身で、18歳の時から娼婦として働いてきた。気の強そうな目をした、小柄な美人である。彼女に“男”の写真を見せると、その大きな瞳に驚きの色が浮かんだ。
「この人、知ってるわ! そう、怖かったのよ。だからよく覚えているわ。なぜ彼のことを聞くの? もしかして彼、レイピストだったの? え? 学校の先生? そうだったの。本当に気味が悪かったのよ。だってあんなに大きなカメラで撮影なんて……」
思い出しながら顔をしかめる彼女に見せたのは、横浜市の元中学校校長、高島雄平(64)の写真だ。
神奈川県警が高島を逮捕したのは4月8日。マニラのホテルで13歳~14歳の少女とみだらな行為をし、その様子をカメラで撮影したという児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いである。
「マニラを頻繁に訪れ、少女を含む何人もの女性を買春している日本人がいる。そんな情報をフィリピンの捜査当局などから得た警察庁が神奈川県警にそれを伝えたのは2013年の9月。県警はフィリピン当局の協力を得ながら捜査を進めた上で昨年2月、高島の自宅の家宅捜索に踏み切ったのです」(捜査関係者)
高島の書斎に入った捜査員が発見したのは、目を剥くような“ブツ”だった。出てきたアルバム410冊には、実に約14万7600枚の写真が綴じられていた。写っていたのは、あられもない姿でポーズを取っていたり、高島と性行為中の女性。年齢は10代から70代で、女性ごとに番号を振るという几帳面さだ。
「高島は1988年から3年間、マニラの日本人学校に赴任しており、この時に買春を始めた。その後は春、夏、冬の学校の長期休みにフィリピンに渡り、1回あたり2週間ほど滞在していた。昨年までの渡航回数は65回。26年間で買春した女性の数は延べ1万2660人に上ります。買春をするのはフィリピン滞在時だけで、日本ではやっていないと見られます」(同)
写真押収後、県警は捜査を本格化。目指したのは、写っているフィリピン人少女の特定である。
「県警はある写真に注目した。写っているのはホテルの部屋らしき場所にいる裸の少女で、彼女には陰毛がなく、胸も未発達だった」
と、神奈川県警関係者。
「捜査の結果、そのホテルはマニラのエルミタ地区にある“U.N.ロッジ”という安宿であることが分かったのですが、結局、その少女の特定には至らなかった。そこで容疑を、彼女に対する買春行為ではなく、彼女の写真を撮ったという児童ポルノ禁止法違反に切り替えることになった」
逮捕翌日の夜、“逃亡の恐れなし”として釈放された高島が問題の少女を買春したのは昨年1月。高島に少女を斡旋したのは、40代の女性ブローカーだ。
仲間からジーンと呼ばれている彼女は、マニラのエルミタで路上生活を送りながら、現在もブローカー業を行っている。ある日の彼女はショッキングピンクのワンピースを身にまとっており、その後姿こそ、すらりと背の高い女性という雰囲気だが、正面から見た姿は怪異というほかない。手足は枯枝のようにしなびて細く、頬はこけ、目だけがギョロリとしていて、見る者をぎょっとさせずにはおかないのだ。
「ええ、私はタカシマと長い付き合いではありますよ。彼には本当にたくさんの女の子を紹介してきました。年齢も顔も姿も、いろいろなタイプの女の子をね。本当に彼は誰にでも優しく、誠実な人」
そう言って高島を庇うジーンだが、彼女のことを知る女性ブローカー仲間は、
「昨年の1月頃だったかしら、NBI(国家捜査局)の職員がこの界隈でジーンを探していたわ」
と、振り返る。
「ジーンは昔、この界隈にあったゴーゴーバーの踊り子だったの。タカシマは最初、彼女をその店で買って、セックスをしていた。その後、ジーンはダンサーを辞めてブローカーになり、タカシマはこの辺りで遊ぶ時にはよく彼女を利用していた。彼女は大勢の女の子を抱えているからね」
こう話す彼女自身も、高島に買われたことがある。
「その時、私はまだ15歳だったのよ。タカシマは『LAカフェ』の裏手にある“ブールバードマンション”というホテルに泊まっていたんだけど、そこへ行く前に化粧を厚めに塗って、なるべく老けて見えるように努力したわ。おかげで、ホテルの警備員に年齢を聞かれても、18歳と答えて、中に入ることができた。内心ひやひやしたのを覚えているわ。セックスして、彼には1000ペソ(約2700円)貰った」
彼女は現在40歳前後。つまり彼女が買われたのは二十数年前の話で、高島がマニラで買春に勤しむようになった“初期”にあたる。
■ホテルの部屋で撮影会
一方、先に触れた娼婦Aが『LAカフェ』で高島に会ったのは、今から2年前、2013年1月のことだ。
「彼はもう1人のおじさんと2人で来ていたわ。立っていたら呼ばれたのでテーブルに着いて聞いてみたら日本人だと言う。私は日本語が全然できないから席を立とうとしたら、“ノープロブレム。アイキャンスピークタガログ&イングリッシュ”と彼が言ったの」
娼婦Aはそう述懐する。
「30分後、一緒に店を出て彼が泊まっている“パビリオンホテル”という高級ホテルに行ったわ。スタンダードな部屋だったけれど、そこには見慣れないものがあった。三脚に設置された、キヤノンかニコンの大きなカメラよ。三脚はベッドの足元側に立てられていて、レンズはベッドの方を向いている。戸惑っている私に彼は“ビデオを撮りたい”と頼んできて……」
そして、彼女は高島の凄まじい“裏の顔”を目撃することになるのだが、それを詳述する前にまず彼の“表の顔”に触れておく。
高島が最初に横浜市内の市立中学校の教師として採用されたのは1975年4月。理科と技術・家庭の教員免許を所持している彼がその後、いくつかの中学校を経て、市立芹が谷中学校の校長に就任したのは2008年4月だ。その3年後に定年退職し、退職金約3000万円を得ている。
自宅は横浜市金沢区にある3階建ての瀟洒な一軒家で、妻、息子2人、娘1人の5人家族である。
「高島さんは非常に温厚な雰囲気で、気軽に挨拶をしてくるような方でした。いいお父さんという感じですね。お子さんは全員もう社会人になっていて、最近はあまり姿を見かけません」(近所の住人)
高島が1988年から3年間、マニラの日本人学校に赴任していたことは先に触れたが、マニラに渡る直前に勤めていた中学校の同僚教師はこう評する。
「高島は仕事はできたよ。修学旅行に行く時の立案とか、生徒に委員会を作らせて指導するとか、面倒な仕事を嫌な顔をせずにテキパキこなす。事務処理能力が高いんだ。悪い評判としては、同じ学校の女性教員と不倫してる、という噂はあったな」
生徒からの評判も上々だったようで、マニラでの赴任期間を終えた後に勤めた中学校の教え子によると、
「高島先生は技術を教えていて、髪の毛がチリチリで色黒の、友達みたいな先生でした。クラスのみんなからは“ユーヘイ”と下の名前で呼ばれていましたね。今回の事件には驚きましたが、もっとビックリしたのは、ユーヘイがその後、校長になっていたことです。出世とは無縁そうな、一匹狼的な先生だったから」
高島は芹が谷中の校長に就任する前の1年間、同校の副校長を務めている。
「高島先生は、地味でおとなしい方という印象ですね。度々フィリピンに渡航しているのは知っていました。彼は、マングローブの植林のボランティアに携わっていて、その為に長期休暇で向こうに行くのだと言っていました」(同校関係者)
実際は女性の買春と“記録”に励んでいた高島。動機を問われた彼は警察の調べでこう供述している。
「仕事のプレッシャーが強ければ強いほど、倫理観のたがを外すことで解放感を味わえた」
彼はどのようにして倫理観のたがを外し、自らの欲望を解放させていたのか。先の娼婦Aの証言に戻ろう。
「ビデオを撮りたい」
高島はそう懇願したが、Aは嫌がり帰ろうとした。
「写真や動画は自分で楽しむためで、オナニーに使うだけだから。絶対に流出させないから大丈夫だ」
「1万ペソ(約2万7000円)払うから」
食い下がる高島が提示した金額は、Aにとって魅力的なものだった。なにしろ、
「私たちの基本相場って、エッチするだけだと大体3000ペソ(約8100円)なの。彼はその3倍以上も払うと言う。それで悩んで、顔と足のタトゥーをタオルで隠してなら、と条件を出した。写真はいいけど、動画は嫌だ、とも言って認めてもらったわ。でも、三脚のカメラはずっと録画状態だったのかもしれない」
いずれにせよ、交渉は成立。それぞれシャワーを浴び、Aは顔と足にタオルを巻いて準備した。
「さあ、セックスが始まるのかと思いきや、まずはキヤノンのシルバーのコンパクトカメラで撮影会が始まったの。私は彼の言うままに、局部が見えるような挑発的なポーズを取らされたり、壁に手をついてお尻を突き出し、顔はカメラの方を向くといったポーズだったり……。彼は“ユーアーソープリティ、ソーエロティック”と言いながら嬉しそうに撮影していたわ。ベッドの上でドッグスタイル(四つん這い)にさせられ、後ろから局部を撮影された。撮られた枚数は100枚はいってる。本当にパシャパシャ撮るんだもの!」
興奮して目を大きく見開きながら語るAは、その後の展開に話が及ぶと一転、恥ずかしげに俯(うつむ)いた。
「やがて彼はカメラを置き、私の股間に顔を近づけ、手で私の両足をグイッと広げたの。部屋の電気はついたままで、まじまじと凝視されて本当に恥ずかしかった。でも、撮影は終わったようなので、いよいよセックスが始まると思ったわ」
部屋の灯りを消して欲しい――そう彼女が頼むと、高島は冷静な口調で奇妙なことを口走ったという。
「“ノープロブレム。ビコーズ アイ アム ドクター。アイ マスト チェッ クユア プッシー”と言って電気はつけっぱなしのまま。彼は私の局部を見て、“オー プッシー ベリー グッド……。オーケーオーケー”と言いながら舐め続けるのです。とにかくこれが長くて、20分以上は舐められていたかな」
……彼女の赤裸々な告白はまだ続く。
「挿入の段になると、彼はまたドッグスタイルになるよう命じてきたわ。彼がコンドームをつけようとしないので、装着するよう頼んでも“ノープロブレム”と言って譲らない。押し問答の末、しぶしぶ自分の鞄から取り出して装着していました。ドッグスタイルで挿入され、激しく腰を動かして疲れたのか、最後のほうはゼーハーゼーハー息を切らして果てたわ。挿入していた時間は5分もなかったんじゃないかな」
事後、どんな写真を撮られたのか気になった彼女が、コンパクトカメラを渡すよう高島に言うと、彼は意外なほど素直に手渡した。
■卑猥な言葉を歌うように
「再生ボタンを押すと、私の局部が大写しになった写真が何枚もあって恥ずかしかった。呆れて、自分の写真を飛ばしながら見ていくと、別のフィリピーナの写真が次々に出てきたの。胸が全然成長していない少女の写真もあったわ」
彼女が唖然として写真を眺めていると、まずいと思ったのか、高島はその手からカメラを取り上げた。
「私は怖くなって、早く帰ろうと思った。最後に彼は封筒から1万円札を2枚出して私にくれた。それでおしまい。その封筒の中には、おそらく100万円か、分厚い札束が入っていたわ」
以上が娼婦Aが体験した一部始終である。
その証言から分かるのは、高島が行為そのものよりも写真撮影に重きを置いていること。そして、局部に対して見せる、異常とも思えるような執着だが、これらは他の娼婦の証言とも重なり合う。
「私は彼と『LAカフェ』で出会い、近くのホテルへ行った。部屋に入って私が“シャワーする?”と聞いたら、“まだまだ、ピクチャー!”と言っていきなり携帯電話で私を撮影したの! ベッドの上でも様々なポーズを取らされた。股を広げるポーズを取らされた時には、彼は日本語で女性の局部を指す卑猥な言葉を歌うように何度も言いながら、ぶつかるんじゃないかと思うくらい携帯を近づけて何枚も接写されたわ」(34歳の娼婦B)
「タカシマと知り合ったのは、2、3年前だった。それからは彼がこっちに来るたびにステイしているホテル、ブールバードマンションに行くようになったわ。毎回、写真を撮られてセックスをして1000ペソ(約2700円)を貰うという感じ」(23歳の娼婦C)
すでに触れた通り、高島は昨年までに65回フィリピンに渡航。1回の滞在が2週間だったとして日数に換算すると910日となる。これまでに買春した女性は、延べ1万2660人。単純計算すると、1日に約14人の女性を相手にしていたことになるのだ。買春した女性の数はなぜここまで膨れ上がったのか。その謎を解く証言をしてくれるのが、娼婦D(25)。肩先まで伸びたストレートの黒髪に太い眉、つぶらな瞳に整った鼻。1カ月に1度バタンガンという田舎町からマニラに出稼ぎに来る、美形の娼婦だ。
■グルーブでホテルへ
娼婦Dが、先述した路上生活者の女性ブローカー、ジーンの紹介で高島に初めて会ったのは2011年のことだった。
「彼はブールバードマンションのスイートルームに泊まっていることが多く、マニラに来る日を事前にジーンに連絡していて、私にはジーンから“タカシマが3日後に来る”といった電話があるの。そしたら、私も彼に合わせてバタンガンからマニラに来て、彼の滞在期間はほぼ毎日、ホテルに行っていたわね」
彼女が他の娼婦のケースと違うのは、必ずグループで高島のホテルを訪れていたことである。
「まず昼の1時頃、ジーンが寝泊まりしているエルミタの路上に女の子が集合するの。一定数が集まると、そのグループで彼の部屋に行く。その数は4人だったり5人だったり、日によって違うんだけど、ジーンが決めていて、定員オーバーになった子は次のグループに参加する。1日で3グループ作られるから、1グループ5人なら1日に合計15人が彼の部屋に行くことになる。大抵、夕方5時には彼の遊びは終わるわ」
高島が常宿にしていたというブールバードマンションのスイートルームは、ダイニングルームとベッドルームが別になっており、
「5人の女の子が集まって部屋のベルを鳴らすと、トランクス一丁で片手にカメラを持った彼が“ピクチャー、ピクチャー”と言いながら私たちの集合写真をまず撮るの。撮影が終わり、彼がベッドルームに入ると、それがヌード撮影会スタートの合図よ。ダイニングルームが女性の待機場所になり、1人ずつベッドルームに入って撮影やセックスをしてお金を貰って帰るという流れなの。1人がベッドルームから出たら、すぐ次の女性が入っていくの」
ベッドルームの中で行われることは、他の娼婦のケースとそう変わらない。ただし、女性1人にかける時間は異常に短く、10分程度で終わることもある。せわしないことこの上ないが、
「ベッドルームに入ったら、まずはシャワー。私たちはその後、彼に局部を隈なく見られたり撮影されるのが分かっているから、そこを念入りに洗うわ。シャワーから出るとまずはベッドに仰向けに寝て、とにかく全身を撮られるわ。胸のアップの写真や、お尻のアップの写真を撮られ、メインは局部。仰向けになって、股を開かせられるの。彼、触りながら写真を撮るのが好きなんだけど、前の女の子も触ってるから手が汚いでしょ。だから私が止めてって言うと、“アイム ドクター ドント ウォーリー”って言うの」
女性から懸念を表明されたり拒否されそうになると、免罪符のように“ドクター”を持ち出す癖があるようだが、避妊具を着けようとしないことも、他の娼婦のケースと共通している。
「“妊娠しちゃったらどうするの?”って聞いたら、こう言ってた。“アイム ドクター ドント ウォーリー。マイ ペニス イズ クリーン”。最初の時にそう言われて以降、私もお金が欲しかったから拒むことはしなかったわ」
高島は性行為のためではなく、写真撮影を目的として買春している、と彼女は断言する。その根拠は、
「何十回と彼の相手をしているけど、射精したところを見たことがないの。挿入したものの微動だにせず、結合部分を執拗に撮影していたこともあったわ。で、写真を撮り終えて満足すると、抜き取ってオシマイ。終わって1500ペソ(約4050円)を貰う時に、私みたいなお気に入りには“また明日ね”と必ず言うわ。部屋を出て、ホテルのロビーに行くとジーンが待っている。彼女に20%の仲介手数料300ペソ(約810円)を支払って、仕事は終わり。最後に彼に会ったのは、2013年の夏頃だったかな……」
それはちょうど、フィリピンの捜査当局が日本の警察庁に高島の情報を提供したのとほぼ同時期だ。彼は、ただひたすらに倒錯した欲望を発散し続けるフィリピンの「熱帯夜」が永遠に続くと考えていたのか。だが、どんな夜にも終わりは訪れる。たとえそれが、四半世紀以上も続いた長い長い夜だったとしても――。