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ボンダイ

若者論から国際論まで、幅広く論じます!

「自動改札を求めたがる地域」は羞恥心を持とう

matome.naver.jp

 地方鉄道で今、自動改札の撤廃という現象が起きている。

 2000年代あたりから地方地域において自動改札の導入事例は増える一方だった。しかし、ここにきて転換期を迎えつつある。

 本来自動改札は、大都市での「合理化」のためのものである。1980年代まではラッシュアワーを鋏でパチパチと切符裁きを行う職人かたぎの駅員たちがいた時代があったようだが、今の常識から考えると非効率甚だしいものだ。そりゃあ改札口が込み合うわけである。

 しかし、地方地域はそもそもラッシュアワーなんて存在しないわけで、維持費がかさむだけの自動改札の存在価値は乏しくなっている。ということだ。

 

 私は地方に詳しい。東北に親戚がいる。東北新幹線で福島の親戚を訪ねることは多いのだが、凄く幼いときには東京駅の時点で有人改札だった。これには驚いた。異空間への玄関のような雰囲気があった。だがその後新幹線が自動改札化し、切符を2枚重ねで通過できるようになった。それからしばらくすると、福島駅の在来線にまで自動改札ができていた。さすがにやりすぎだろう、と思ったのだが、その後どんどん福島県内各地に自動改札は広まり、さらに福島より遠くの県が当たり前に自動改札を有するようになった。

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 今、自動改札が存在しない県はもはや8つしかないようだ。なぜそこまで増えたのか。理由は簡単。上のまとめ記事みたいな「自動改札コンプレックス」が地域にあるからだ。

 自動改札コンプレックスというのはつまり、「自動改札が存在しないオラが村」に対する自己嫌悪みたいなものである。それは「自動改札がある県への嫉妬」も含まれている。いざ自動改札を誘致すると、今度は「ない県」を見下すという、極めて品性の低い精神だ。しかし、上記記事を見ての通り、ムラ社会に暮らす農耕民族の「ネット原住民」の間ではこれは普遍性を持つ考えのようだ。

 

 文明は立派である。だが、「不要なものを不要な場所に設置すること」ほど貧相なことはない、と私は思う。たとえば郡山(東北地方で二番目に経済規模があるという)ですら余計なものが、果たしてそれに満たない人口地帯に必要があるだろうか。地方と言うのは、仮に40万都市であっても、私の地元の藤沢とは根本的に異なるのである。藤沢駅の朝のラッシュを見てほしい。東海道線小田急線もギュウギュウづめで、これが市民の大半の通勤だ。だが、こんなものが一切存在せず、片側3車線のバイパスをスイスイ走って職場に行くか、家の目の前の畑に鍬を下すのが普通というのが地方なのだ。

 

 「自動改札を求めたがる精神」とはつまり、他所を見下したいだけにわざわざ「必要価値なき過剰な発展」を求めたがると言う、きわめて恥ずかしい根性なのである。そしてそういうことに偏った地方都市は間違いなく失敗している。断言できる。島国根性が生んだ「排他的なメンツ意識」のためにハコモノをいっぱい作り続けて、無駄な道路をいっぱい作り、財政悪化をもたらし、そして誰も責任を取らない。尻拭いは中央政府に押し付け、地方交付税地域振興券やふるさと創生事業や地方創生事業や国土強靭計画などと様々な名目で国民の血税にタカるような、そういう日本政治の負の構造は、そうした「ワガママのために失敗した地方都市」があまりに多すぎるから起きているものだ。こうしたイビツな構造があるため、東京の人間はいくらラッシュアワーに揉まれて深夜まで残業をして働いても一向に暮らしは改善しない。沢山収めたお金はすべて、怠惰な地方都市の既得権者やその仲間たちのエゴのために分配されるのである。

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 もちろん私は地方を愛する人間として声を大にして言いたいことがある。それは「鉄道を守るために必要な投資をすべき」ということだ。

 今、地方鉄道には負の現象がある。1つは根本的な問題である「廃線ラッシュ」だ。21世紀になったあたりから毎年ペースで鉄道路線が廃止している。1年に沢山なくなることもある。国鉄時代の末期に赤字が膨れ上がってどうしようもなくなった頃に匹敵するペースだ。

 中長期的な目線で考えれば、地方の人間が歪んだモータリゼーションを捨てない限り、地方鉄道はなくなる一方で、「新幹線以外全滅」と言う可能性がある。新幹線すら、沿線に有力都市が一つもないものは将来が暗いかもしれない。上越新幹線とか、いつか未来に最初になくなるフル規格新幹線になるんじゃないかと私は思っている。だって、客層のいくらかが北陸新幹線に流れているのだ。北陸新幹線は大阪まで伸びるから、東海道のバイパスになれるけど、上越新幹線は大都市を1つも持たない新潟県にしかつながっていない。

 鉄道を失えば、交通弱者は移動手段を失うことになる。「バスで代替できる」かもしれないが、代行バスは大抵本数が減らされ続け、最終的にはなくなるものだ。マイカーに乗らなければ生きて行けなくなる。するとロードサイド開発した場所ばかりが栄え、無機質で怒りがこみあげてくる「ファスト風土」が日本全土を蝕むようになる。利便性以外に住む価値のない地元を見限った若者はますます東京に流出し、東京の人間はそんなくだらない遠いだけの場所に観光に来なくなる。そこまで行きついて、地域は死ぬのだ。つまり鉄道の衰退は地域の死へのカウントダウンの引き金である。

 

 では、今後どうやって地方鉄道を残すかと考えると、そこで重要なのは「観光」である。

 その一番効果的な例が、まさにえちごトキめき鉄道高田駅新潟県上越市)の「木製改札化」だろう。上越妙高駅から鈍行列車に乗り継いで、はるばる越後の小さな町の駅までやってきたとき、木でできた昔ながらの柵で人間が切符をもぎってくれたほうが「ぬくもり」があっていい。そんな遠くに来て東京と同じ最新鋭の自動改札がある方がおかしいのだ。

 すでに地方では人口減少社会が始まっている。最盛期に22万人近かった上越市の人口は19万代に凋落し、高田駅の利用客も1000人減っているという。そもそも存在しないラッシュアワーはこのような過疎地帯では未来永劫ありえないのだ。そこに必要なのは「発想の転換」である。上越市だって、きっと「団塊世代集団就職」が落ち着く以前である1960年代くらいまでなら、若い世代がいっぱいいて、活気があったのだろう。それこそ都市構造は「まだ郊外開発する前の藤沢市や町田市」のような首都圏の平凡な自治体と台頭にあったかもしれない。しかし、もう半世紀も経っているのだから、さすがにその時の常識に縛られるのはいくら「保守的な地方」でも頑固すぎる。

 

 上越市はまだ偉い部類だ。こういう風な、「今の身の丈を客観視し、小さくなる未来を前向きにとらえた発展のための投資」が地方都市に重要である。をダメな地方都市は、自分の実態も顧みずに発展途上国のような精神で「ないものねだり」をし、そのくせ60年前の価値観に縛られるという「頑固者」で、そういう地帯が日本中に吹き溜まりのようにある現状が、「衰退しながらコンクリートとバイパスに蝕まれるふるさと」を日本にもたらした大きな元凶である。小学生レベルでもわかる自業自得である。

 

 去年、遠くの親戚に会いに私は新幹線で一路新青森駅へと向かった。最初、ガッカリしてしまった。初めて見た新青森駅青森市のレベルにはあまりに過剰すぎた。ハコだけは何もかもが東京と同じで、地域のレベルを大いに逸脱していた。土地や人間が追い付いていないのは明らかだった。しかし、奥羽線を乗り継ぐと、鷹巣駅は趣ある駅舎で、大きすぎず、本来あるべき風情があり、ちゃんとした有人改札だった。これが東北に、そして秋田県にふさわしい風景だと私は感動した。鷹巣の市民は乱開発に走らないふるさとのまちづくりをやってもらいたいものだ。

 

 しかし、後で調べると、同じ秋田県でも、横手駅は自動改札付きの「東京式の駅舎」で、東北各地で建て替えが進んでいるという。これもまた現実である。本当に良い地域は、不要なものを作らない地域だと、私は強く思うのだが、どうやら彼らはその考えを理解できないようだ。