【萬物相】杉原千畝の勇気を見習いたいならまず謝罪を

「日本のシンドラー」杉原千畝

 リトアニア第2の都市カウナスに、秋雨がしとしとと降っていた。昨年「ユーラシア自転車遠征隊」に付いて取材した際、中心部から東側にある丘を訪れた。巨木が生い茂る古風な住宅街の奥に、こじんまりとした2階建ての家が隠れるように建っていた。道との間には垣根もなく、低いくぐり戸があるだけだった。その両側の柱には、リトアニア語と日本語でこう書かれていた。「希望の門、命のビザ」。1930年代、リトアニアの臨時首都が置かれていたカウナスに、日本が設置した領事館の跡だった。

 現在この建物は、大学のアジア研究所と資料館「杉原の家」になっている。第2次大戦が始まった1939年、ここで勤務していた日本の領事代理、杉原千畝を記念するものだ。当時、ポーランドに住んでいたユダヤ人12万人がナチス・ドイツの迫害を逃れリトアニアに押し寄せていた。リトアニア国内のユダヤ人も20万人に達していた。ユダヤ人たちは迫り来るナチスから逃れ、第三国に脱出する必要があったが、ビザを発給する外国公館はほとんどなかった。ソ連がリトアニアを占領し、各国の外交官たちを追放したため、ユダヤ人たちは危険にさらされた。そこで、日本の領事館にもユダヤ人たちが押し掛けてきたのだ。

 杉原はユダヤ人たちが日本を経由し、第三国に行くことを認めるビザを発給する決断をした。本国に3回にわたって電文を送ったが、ドイツ、イタリアとの3国同盟の発足を控えていた日本政府は許さなかった。杉原は訓令に背き、妻と共に1日数百枚ものビザを手書きした。それから1カ月後に領事館は閉鎖されたが、ホテルや鉄道駅でビザを発給し続け、その数は2139枚に及んだ。1家族が1枚のビザを使うことができ、約6000人がソ連を経由して日本に渡った。ナチス・ドイツは翌年、リトアニアを占領し、ユダヤ人25万人を虐殺した。

 3ユーロ(約400円)の入場料を払って「杉原の家」を見学した。2つの部屋に執務室が再現されていた。15分間の映像も見た。ロシアのウラジオストクから福井県敦賀港に向かう船の光景から始まり、数々の証言が収録されていた。日本の女性ナレーターが感傷的な声で、杉原のエピソードを旧約聖書の「出エジプト記」に例えた。杉原は戦後、外務省の圧力により事実上の免職となった。カウナス赴任中に本省の訓令に背いたためだ。その後、ロシア語の通訳や貿易会社社員として余生を送り、86歳で世を去った。日本の外務省は2000年になって杉原の功績を認めた。

 そんな杉原の名前を、意外にも安倍晋三首相が口にした。今年1月のイスラエル・エルサレムに続いて、米国ワシントンでも「杉原千畝の勇気を見習いたい。とても誇らしい」と述べたのだ。2回ともホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺)に関連する施設でのことだ。ドイツの指導者たちは数十年にわたり、ナチスの蛮行を謝罪してきたが、ユダヤ人の命を救ったドイツ人、シンドラーについての言及は控えてきた。誠意がうやむやになるのではと懸念し、そうしているのだ。一方、安倍首相は依然として過去を反省する気配が感じられない。杉原の勇気を見習うというのはどういうことなのだろうか。杉原について言及するのは、侵略の歴史をざんげし、被害者の許しを求めてからにしてもらいたいものだ。

呉太鎮(オ・テジン)論説委員
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