オヤジは病室の壁を背にしながら、ソ連が来ると叫んだ
この記事は「フケを大量に集めて飲み込むのだけは、絶対にやめたほうがいい」の続きなので、そちらから先に読んでいただいたほうが、わかりやすいかと思います。
もちろん、この記事だけ読んでいただいても、完結しているので問題はありません。
肝臓のガンだと診断されたオヤジは、手術することになりました。
まったく自覚症状のないときに発見したのだから、ガンと言えども、治る見込みがあるかもしれないと、周囲は期待をしていました。オヤジにしたって、まだまだ望みを捨てていなかったと思います。手術に向かう顔には、力強さがありました。
やがて手術が終わり、私とオフクロは執刀医から説明を受けました。そのときの先生のお話は私にとって、生涯忘れられない言葉です。
「安心してください。手術は成功しました」
それから少し間をおいて、先生は続けます。
「でも腫瘍の相を見ると、転移している可能性が高いと思います」
果たして手術は成功だったのか、それとも手遅れだったのか、私やオフクロは想像する以外に判断のしようがありません。
そもそも腫瘍の相とは、けだし名言です。
オフクロは私以上に、複雑な表情{かお}をしていました。それも当たり前のことです。オフクロは教授や執刀医に、せっせとお金を包んで渡していたのだから、あの説明にはおそらく、とてもガッカリしたに違いありません。
もちろん看護師さんの対応は、とても良かったです。教授もたびたび容体を見に来てくれていました。そういう意味では、お金を渡しただけのことはあったのかもしれません。
でも結局、腫瘍の相とか何とか、訳の分からない言い方で幕を下ろされました。ガンの手術とはああいうもんだと、後に私は思い知りますが、そのときはやはり、割り切れないものを感じていました。
それにオヤジは手術で、オヤジにとってとても大切なものを失いました。
手術前の体力と、退院後の体力では雲泥の差があり、あの元気だった人がどんどん弱ってしまったのです。
オヤジは活力を失いました。
それでもオヤジは手術をしてから3年、何とか生き延びましたので、それが手術の成果だったと言われれば、私に反論の余地はありません。
でもひょっとすると、手術をしなくても、3年くらいは生きられたのではなかろうか、しかもオヤジにとって何よりも大事なはずの、活力という生きる支えを失うこともなく、それくらいは生き延びたのではないだろうか――。
私は今でも疑心暗鬼です。
最後の一か月は私とオフクロと、それから叔母が交代で病院に泊まりました。
そのときのオヤジはもう、普段のオヤジではありませんでした。おそらくガンが脳にまで転移していたのだろうと思います。オヤジは幻覚を見て、布団をかぶって震えたり、泣きわめいたりしていました。それからベッドの上に立ち、背中を壁に押し付けながら、こう叫んだのです。
「ソ連が来る」
きっと終戦のころを思い出していたに違いありません。戦争を知らない私にとっては、父の顔に浮かんだ恐怖の意味が、まったく理解できませんでした。
父はおびえ、私はベッドの横で、ただ呆然と立ち尽くすのみでした。
看護師さんが来るまで、病院の個室で、私とオヤジは二人だけで恐怖に怯えていたのです。ただし私の恐怖と、オヤジのそれとはまったく違う種類のものだったに違いありません。
あのときの私にだって、それくらいのことは気づいていました。
とにかく、私は病院に泊まって介護の真似事をすることはしましたが、オヤジの世話なんてまったくできなかったというのが真相です。
お年寄りを介護するには、恐怖が伴います。得体のしれない怖さが常に付きまとうのだと、あのときの私は、そのことを思い知らされていました。
オヤジの最後はあっけなかったです。
病室であるにも関わらず、なぜか気前よく、オフクロと叔母が二人で、オヤジに好物をせっせと食べさせていました。それからオフクロが、私に何か買ってきてくれと頼んで、私が近くの百貨店で買い物をしている間に、オヤジはあっさりと逝きました。なぜオフクロはあのとき、私に買い物を頼んだのでしょうか。なぜオヤジの死に際を、私に見せようとしなかったのでしょうか。
私には、いまだにそれがわかりません。
オフクロも、もうこの世の人ではなくなったので、それを私が知る手段はありません。だから時たま、思い出しては想像しています。
オフクロが、あのとき、私に買い物を頼んだ理由を――。
最後まで読んでくれて、本当にありがとう。二十年も昔のことなのに、こうして書いてみると、まるで昨日のことのように、鮮烈に思い出してしまいます。
おそらく誰にでもある父親との別れのシーンを、どうかいつまでも大事にしてください。いまだ経験していない人は、悔いのない別れを迎えられることを、心から祈っています。
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