荒谷山と権現山への登山
2015/04/30(Thu)
 4月30日(木)雨時々曇り。 いつもは前日の夜準備できているはずですが、昨夜急な出来事のため、朝になって少しずつ雨が降っていることにも気づかず、準備や弁当作りをしました。
 そういえば、天気予報は?とテレビをつけてみると9時☂12時☀3時☂となっています。登山中止の連絡もないのをいいことに待ち合わせ場所に行きました。しばらして、佐々木さん、玖保さん、堂河内さん、福島さんと5人全員が揃って、佐々木さんの車に乗せていただき8時に出発しました。雨のために、予定を変更して歩きやすい山を選んでくださり、それが、安佐動物園を山裾にもつ荒谷山とあさひが丘団地をはさんだ向かい側の権現山ということでした。
 「あさきた里山マスターズ」認定対象野山としては、荒谷山は631.3mで14位、権現山は445.5mで30位です。雨の中みんなやる気満々です。以前たくさんマツタケが生えていたということで、登山道の片側に入山禁止のテープがずーと引いてあり、全く道に迷う心配がない登山道です。しばらく登ると、ところどころで小さな白いつつじが咲いていて、葉も小さくてとても可愛い上品さで、雨の中その美しさがいっそう引き立ち、そのうち「あ!!ここにも」といたるところに、咲き終わったものもあったりしながら、目を楽しませてくれます。キリシマツツジなのではないかと密かにおもっていたのですが、いつか調べてみたいと思います。
 尾根づたいに歩いていると、明るく展望が開けて、安佐南区の町や山がよく見え、遠く瀬戸内海の似の島やかな輪島が見えました。晴れていたらもっとよく見えたかもしれません。しばらく歩いて10時6分頂上ですが、雨の中を記念撮影をしてくださりさっそく下山いたしました。わたしは駐車場の周りであまりにも立派な蕨が生えていたのでを一握り採りました。佐々木さんも採られたのにわたしに下さいました。みんな雨に濡れて汚れた身なりで佐々木さんの車に乗せていただきました。それから権現山登山口に行き、鳥居をくぐって登り始めるのですが、登山道はむかしから毛木への抜け道としてあったということで今まで歩いたことのある山道としては、参道をかねてもいるからでしょうかいつまでも歩いていたいような素敵な道です。頂上に結構立派な神社があり、そこでお弁当をいただきました。山で食べるお弁当といったらもう美味しくてたまりません。満足して、そこから、長い道のりを下って三角点で記念撮影をしたのですが、頂上でないのがすこし残念でした。また神社に後戻りします。その神社から、長さ50m.くらい幅4・5m.の尾根が木に囲まれて伸びており、流鏑馬が行われていたというのです。流鏑馬の光景を想像するだけで、身震いしそうなくらい感激しました。50m.先まで皆で行ってみました。ここからは、わたしが児童館に行くときに通るゴルフ場などが見えました。すっかり雨も上がった中を下山して、ふれあいの里 三国の花緑公園に連れて行ってくださいました。石楠花が売りの公園だけあって、たくさんの石楠花がありましたが、ハンカチの木の花がみごろで、特に池の鯉が美しいのに見入ってしまいました。
 家に帰るとお風呂に入り、蕨のあく抜きをし、さっそく大洗濯をしました。一緒につれていって下さった方々に感謝です。
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螺山と茶臼山への登山
2015/04/28(Tue)
 4月26日(日)螺山と茶臼山へ登りました。
 螺山も茶臼山も私たちの団地から国道191号線をへだてて向かい側の山で、いつも眺めているおなじみの山です。
 夏はのぞいて、毎月一回は山に連れて行ってほしいという和子さんと圭子さんと、夫との4人で登りました。
 この間、この4人で可部冠に登ったあと、すぐみんなで区役所から『あさきた里山マスターズ認定』の申請書と地図をいただいてきました。当日は和子さんと圭子さんは、以前わたしと3人で登った福王寺山頂とで、三つ目と四つ目の山に挑戦です。
 螺山と茶臼山とは元来つながっているのですが、瑞眺苑という団地ができて二分された感があります。
 瑞眺苑という団地には以前亡くなったわたしの姉が一時期分譲住宅を買って住んでいたのですが、以後家が建て込んで、当時の閑静な雰囲気はありません。そこの登山口に車を止め近所の方に挨拶をして、まずは螺山に登ります。
登山口からすこし行った所で、参道脇に銀竜草が咲いていました。和子さんも圭子さんも始めて見るということで大喜びして写真に撮ります。
 すこし行くと水のみ場があります。水のみ場では2匹のヒキガエルが挨拶をしてくれます。みんなでのどを潤して、水曜日にクマに出会った人がいたということで、ときどき笛を鳴らしながら登ります。山道は、私たちの団地から見える反対側です。わたしが太田川沿いに安佐南区に山越えをして仕事に行く道が、見え隠れします。太田川の向こう側は、昨年8月の土砂災害のあった阿武山の裏側です。裏側は、テレビで報道された八木・緑井の土砂災害どころではない土砂崩れが太田川に達して、道路は寸断されている期間も長かったのですが、人的被害がなかったのでたまにしか報道されませんでした。裏側から阿武山を見ることのない和子さんや圭子さんは、山頂間近からの、4本の山崩れが谷に寄り集まって一本になって太田川に崩れているさまに恐怖を隠せない様子です。傾斜は急になり始め、それを過ぎればなだらかになり山頂です。山頂からは東北がよく見えそちらの風景を眺めながら、外の登山客などと会話を楽しみながら早めのお弁当を食べました。下山して、もちろん茶臼山にも上るという二人に合わせて、茶臼山に上りました。茶臼山はマスターズに選定されている山では一番低い山です。山頂からは私たちの家や、区役所、区民文化センターなどがすぐ下に見えます。この山も裏側に回りこんで登るので、夫が道を間違えているのではないかと心配してくれたのですが、3月4日と25日だったかに2回も登っているので、自信を持って引率できました。そこでも山頂近くで銀竜草を発見。木立の中で別名ユウレイダケと言われる雰囲気を表して見えます。この山はかってお城もあったと言われる山だけあって、山頂は広く、一段下にも広い平地があります。下山は、直下道をくだり、あっという間にふもとに降りました。最高齢の圭子さんが怖がるのを和子さんは大笑いして喜んで、夫は心配して終始手助けをしていました。
下山していつものように我が家で、わいわいお茶を飲んで、そのあと夫は寝て、私たちは3人で大仕事をしました。


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押手山から白木山への縦走
2015/04/27(Mon)
 私たちの住む広島市安佐北区は、広島市の中でも他の区に比べて圧倒的に面積が広くそのほとんどが山林です。それをいかしてか近年、安佐北区市民部地域おこし推進課では、『あさきた里山マスターズ認定』を行っています。
 毎朝のように裏山に登るわたしも、この事業について、ときどき耳にしていたのですが、別段関心が湧かずにいました。ところが、たまにわたしも自分から友達を誘って山に登らなければいけない状況になってくると、せっかく一緒に登ってくださる人たちに、この事業があることをお知らせし、何か楽しさに「おまけ」がつくようにしてあげなければいけないと思うようになり、この認定申請書を区役所にいただきにいき、当面、マスターに認定していただくことを目標に掲げての登山に挑戦することにしました。
 安佐北区内に頂上を接する山もふくめて39(山を数える単位がわからない)の山が選定されています。
 一番高い山は白木山の889,3m、一番低い山は茶臼山の229,7mです。ただなんとなく存在していた山も、地域おこし推進課によって、きっちり順位をつけられてしまいました。わたしの裏山の福王寺山は496,2mで、25位です。
 マスターズ認定を目標に登ることを、裏山登山のときに、よく登山に誘ってくださる佐々木さんに話すと、さっそく23日に登ることになっている押手山への登山に誘ってくださいました。聞いたことのないその山の所在を地図で調べ、駐車場から山頂までさほど距離がないので、あるいは白木山への縦走になるかも知れないと半分予想して参加させていただきました。
 当日はよく晴れて、気温もぐんぐん上がる一日でした。
 メンバーは、佐々木さん、玖保さん、羽柴さん、久保さんの男性4人と、福島さん、堂河内さん、私の女性3人の合計7人でした。一緒に登ったことのある方ばかりでしたので、気持ちもほぐれます。国道54号線ぞいのガラスの里から、東へだんだん谷道に入っていくと、昨年8月の土砂災害のあとも生々しいところもあります。砂防提工事車両の警備のかたがたが所々に立っておられ、道幅もせまくなってきます。結局、地図にある駐車場よりずいぶん手前の高谷邑山ノ神という神社の前の広場に車を止めて、そこから出発いたしました。元来の車止めからも国有林の林道が頂上へ100m.くらいのところまであるのですが、ふもとのほうが壊滅状態で、ゴロンゴロンと流れ出した石ころの上を歩いて急傾斜地を登ります。そして、今は車も通らなくなった林道をあるいていると、今まで見たこともない角度からの可部の町をはっきりと見ることができ、どことて平らなところがないことに気づかされます。
 わたしはそんな道で薄緑色に白い鉢巻をした美しい石を拾いました。なんだか、地球上にまだ文字がないころの歴史を語っているようで、大切に家に持ち帰りました。やはり誰かの提案で白木山への縦走になりました。これが、想像を絶するきつさと距離で、途中、久保さんが目の前の急な坂道を前にしてめまいがするといわれ、わたしは可笑しくて笑い転げてしまいました。 最年長の佐々木さんは途中で座り込んで休まれましたので、体をもんであげました。わたしも山頂にたどりついたなら一泊したいと思ったほどでした。それだけにこのたびの達成感は格別でした。
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『浜田廣介童話集』
2015/04/24(Fri)
 2006年 角川春樹事務所発行 浜田廣介著 『浜田廣介童話集』 を読みました。
 編者・解説 浜田留美、解説 立松和平です。作品は、
 ・ 「泣いた赤おに」
 ・ 「むく鳥のゆめ」
 ・ 「五ひきのやもり」(旧題・「神は真を見せたまふ」)
 ・ 「よぶこどり」
 ・ 「かっぱと兵九郎」
 ・ 「ひとつのねがい」(旧題・「たった一つの望み」)
 ・ 「砂山の松」
 ・ 「アラスカの母さん」
 ・ 「豆がほしい子ばと」
 ・ 「お月さまのごさいなん」(旧題・「石の下からお月様」)
 ・ 「波の上の子もり歌」
 ・ 「たましいが見にきて二どとこない話」(旧題・「大将の銅像」)
 ・ 「からかねのつる」(旧題・「噴水の鶴」)
 ・ 「まぼろしの鳥」(旧題・「見えない小鳥」)
 ・ 「南からふく風の歌」
 ・ 「投げられたびん」
 ・ 「ひらめの目の話」(旧題・「ひらめの目」)
 ・ 「町にきたばくの話」(旧題・「濡れた提灯」)・「お母さんと獏の話」)
 ・ 「いもむすめ」
 ・ 「ふしぎな花」
が収録されています。題名変更に着いては、廣介本人が変更したのか、この本を編集した留美氏かはわかりません。
 留美氏の解説では、廣介が米沢中学に入学して寄宿中のある日、帰省したところ、母が弟妹三人を連れていなくなっていて、長男の廣介は残され、父は母に会うことを禁じたために、廣介は家では父と二人きりの寂しい暮らしとなったという生い立ちを書いています。そのことを念頭において読み返してみると、廣介のそういった寂しい気持ちと、そんなことがあっても、誰を恨むこともなく、自分を棄てることなく生きていくことへの戒めと応援が伝わってきて、味わい深く感じます。
 全体に、思いやりの心に触れた話ばかりなので、子どもたちだけでなく、大人でも、つらいときや寂しいとき、このようなお話に出会えることは、情緒の安定になると思えます。童話が、子供たちが育っていく上で果たす役割といったものの本質についても教えられました。
 立松和平氏はエッセイで「泣いた赤おに」一作に着いてのみふれて、悪者の鬼が実は人間より優しいという逆転の話になっている作品の不思議さに触れています。
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『ひろすけ童話(2)』
2015/04/19(Sun)
 昭和46年小学館発行 オールカラー版世界の童話40・ひろすけ童話(2)を読みました。
 2月の第174回ハーンの会で、「身代わり」について学習したとき、「ないた赤鬼」を例に出されことで、もう一度丁寧に浜田広介を読んでみようと思い、ときどき臨時で働いている児童館の二階にある学童保育室の本棚で、この本を見つけ、借りてきたものです。この本棚の本は、公立子ども図書館で廃棄になる本をいただいてきたり、地域の方の寄付を受けたり、歴代の指導員が自分の子どもに買って読ませていたものを持ち寄ったりしたものなどです。ですから、このシリーズも揃ってなくて、単独で混じっていたものです。そんなわけで、『ひろすけ童話』も残念なことに(1)がありません。
作品は「りゅうのめのなみだ」・「こりすのはつなめ」・「くりのきょうだい」・「おつきさまとくも」・「あかいぼうしをもらうはなし」・「よぶこどり」があり、「りゅうのめのなみだ」以外ははじめて読みました。
 どの作品もすべてひらがなです。数字だけは漢字で。この漢数字とカタカナともにルビが打ってあります。この全集すべてがそうなのか、この「ひろすけ童話」だけがそうなのかはわかりません。
 《「はじめの ことば」  
  やまの なかの りゅうと いう こわいもの、それを おうちに よんで こようと でかけた こど  も、そんな こどもが  いるなんて、うそでは ないかな。
  みなさんは、そう おもうでしょう。
  けれども、ためしに その おはなしを よんで ください。
  その ほかに 五(いつ)つの おはなし、どれもみんな 「ひろすけ・どうわ」、どんな どうわか、どうぞ みんな よんで  ください。よくばり ひろすけ。》
 と、こんな感じです。さいごの「よくばり ひろすけ。」は、何を欲張っているのかよくわからないのですが、子どもはきっとこの作者の「はじめの ことば」まで読む子は少ないでしょうが、読んでいたら、どう思ったでしょうか?
 作品は、やさしく、ほっこりした心持になれるようなお話ばかりでしす。
 最後に、「ひろすけ童話の秘密」と題して、樋口三木雄の文章が載っています。これを引用します。
《まさに、五十有予年を幼い人々の心に語りかけてこられたのであります。
 浜田先生の語り続けてこられた真情は何でありましょう。この童話集を一読され、おかあさま方は何であるかをすでにお 察しのことと思います。
 申すまでもなく、それは生きとし生けるものすべてにそそがれる、ひたむきな慈悲と善意であります。戦争でわれ知らずすさみひからびてしまっていた心に、あたたかい涙をとりもどさせてくださった広介童話との出会いを、遠い二十五年にさかのぼった思い出として忘れることができません。教師であるものが、子どもたちのためにと読み聞かせていながら、じつは、おのれ自身、人間回復の感動にひたっていたのでありました。》
 
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第176回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/04/17(Fri)
 4月11日(土)、第176回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 桜の花も散ってしまったというのに、なんとなく肌寒さを感じるのは私だけ?と思う体調の定まらない日の参加となりましたが、作品への予習もなんとかできて、夫と二人なので、まあ心を強くしてどうにか参加できたのでした。
 第176回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュースのプリントでは、『フランケン・シュタイン』のことが一面をつかって述べられていました。名前こそよく知っておりながら、何に関係ある人なのか考えたこともありませんでしたが、このプリントでは、いま読んでいる辰野隆の著書に出てくるナポレオン・ボナパルトの、「人間はあらゆるものを発明することは出来る。幸福になる術を除いては。」ということばが、頭を掠めます。
 この話題の中に紹介されている、高木大幹の『ハーンの面影』を夫が手に入れたので、風呂先生の思いをより深めるために近日中に読むことが出来たらと願っています。
  ―4月25日(土)松江市立図書館定期講座「小泉八雲に学び・親しむ」に於いて、風呂鞏が「八雲会100年・八雲を顕彰してきた人々」を語る。90分間― の情報があります。
 風呂先生は日ごろ、八雲を顕彰してきた人々への顕彰を促されています。
 たしかに風呂先生をはじめ八雲を顕彰してきた方々によって、充実した退職後の人生を送らせていただいている私としても、何はさておき八雲を学ぶ時には、このことを心の柱として据え置かなければならないと感じています。
とくに、このたびは、当日検査入院されていたにもかかわらず、この会に来てくださった風呂先生への感謝を心に刻みます。そして、たとえば、これまでも本を読むことは大好きだった私ですが、この会を通じて八雲会の功労者である市川三喜を知っていたおかげで、さきごろの読書でも、何気なく読み過ごしてしまう安倍能成の「岩波と私」の文中、岩波が快活であることの説明として、岩波書店開店の前年、岩波と5,6人で立山に登った大正元年の話題のなか
 《岩波は信州生まれの山男であり、しまいになるほどますます元気が出てきた。市河君は岩波より四つ五つ若いはずだが、案内頭の作十は、市河君に向かって、「先生、若い衆は先へ行かせてゆっくり参りやしょう」といった。しかもその若い衆とは岩波なのだから、いささか驚かざるを得ない・・・》とあるところ、市川三喜の吐息と苦笑の表情が感じられて、印象深いものになりました。
 すばらしい日本語訳の例についても紹介がありました。
 パーシー・シェリーの「雲雀」の原文と漱石『草枕』での訳です。そして、ロバート・ブローニング『ピッパが通る』のなかの「ピッパの歌」の原文と上田敏の訳です。
 ハーンの会員は英語教科の先生ばかりでプリント配布直後その訳のすばらしさに感動されたでしょう。全く英語を解しない私は、漱石が『草枕』の中で、この詩を散々茶化していたことだけを思い出していたのですが、じつのところはこの名訳に感激しなくてはいけなかったのかと・・・・。今さら英語を覚えようにも、朝御飯の内容も思い出せない状況ですが、たまに辞書を引きながら私なりの訳が楽しめるようにでもなればいいなと思った講義でした。

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『平和への念願』
2015/04/12(Sun)
 昭和28年角川書店発行の昭和文学全集10『安倍能成・天野貞祐・辰野隆集』のなかの、安倍能成著『山中雑記』の中の「夏目先生の追憶」「距離感」「人間としてのケーベル先生」。『平和への念願』のなかの「平和宣言」・「私の所信」を読みました。
 昨日ブログでおなじみの志村さんがコメントで、「幸い今の天皇の教育に功績があったと言われる安倍能成ともブライス教授とも生前に面識があるし、何となく近くに感じる」とあったので、翌日のラフカディオ・ハーンの会のためにまじめそうにやっていた、にわか予習の「十六桜」の訳も途中でうっちゃってこれらを読んだのでした。

 卒論で、稚拙な漱石のレポートをしたためたことのある私としてはまず冒頭にある「夏目先生の追憶」を読みました。漱石が亡くなる直前とその前の二回の木曜会で漱石とふたりで交わしたことばが再現されています。最後の会話であっただけに印象に残っていることもありましょうが、ここにどうしても相容れないふたりの思想信条といったものが浮き彫りになっています。安倍能成が感じた漱石の解脱が「インテレクテュアル(知的)であってプラクティカル(実際的)という感じにおいて薄いという感じを掩い得ない」とのべ、さらに「自分は先生の解脱は、知識的にはこの相対的、実証的の境地を守らんとしてこれを守り得ず、さらにこれを否定せんとする方向より開かれたものではなかったかと思ふ。この否定と共に現前せんとするものは、すなはち先生の所謂天でなかったろうか。先生の思想上の実証主義的、自然主義的傾向は、先生の汎神論的解脱の道を平らかにする点において、先生の感傷的芸術的態度と相協同したのではあるまいか。」と分析しています。分析が漱石の唱えていた「則天去私」の「天」に及んでいます。私は漱石の解脱への趣向というものが、まさしく趣向的であって、そこに哲学を差し入れない洒脱な軽みといったものを感じていたように思っていたことをここでは確認したように思いました。

 「平和宣言」は、まさに戦後日本のバイブルとも言うべき文章と思えます。
《敗戦後の日本の進むべき道は、新憲法の根本精神たる平和と自由の道より外にはない。新憲法の内容については法文としての不完全や、その措辞またある場合にはその思想にも西洋直訳的なところがあり、欠点はいくらでも指摘できるであろうが、しかし断乎たる平和の宣言と徹底した自由の力説とは、何人も何国人もけちをつけることのできぬものであり、ここに新憲法の奪うべからざる精神の存することは明らかであって、よし今後條章の部分的訂正が行われるとしても、この精神を少しでも没却するようなことがあっては、日本の前途はおぼつかなく、この精神に反対するような政治や政党や運動は断じて排斥されなければならない。》で始まり、《世界で断乎として平和に終始し得る国民は、軍隊と武器とのない日本国民のみである。世界に一つの国でも徹底的に平和を守る国があるということは、即ち世界平和の何よりも強い原動力ではないか。我々の手をもぎ足をもぎ、その武器を奪っておいて、しかも我々に手を振れ、足で蹴れ、刀を持て、持たずば切り殺すぞという者があらば、それこそ神人の怒りに触れずにはおかぬであろう。我々はそんな暴虐無道を恐れて天の我々に与えてくれた光栄の道を棄ててよいものか。平和は卑怯者の上には来ない。武器を頼まずして道理と正義とを頼む者の上にのみ来る。八千万の国民がこの信念に起ち得たならば、世界に恐れるべきものはいない。平和の源はここにある。この源に立ってこそ、政治も外交も経済も、始めて平和を将来する力となるのである。》で終わります。
 空襲で長男を失い、家を焼かれ、廃墟にあっての彼のこの宣言が、直前に読んだ井沢元彦の武装して自立すべき国家論や、先にテレビで何とはなしに聞いたイデオロギーによる国政の危うさを唱えて武装を提唱する国論を、潔くきるところは、おなじ散るならこの桜と思わせられたのでした。

  安倍能成の年表をみて気がついたのですが、氏の生年月日、明治16年12月23日で今上天皇と生誕日がおなじでした。
 ついでにいえば、広島への原爆投下の折、広島駅で体中に被爆した、母方の従姉も昭和18年生まれですが、生誕日はおなじ12月23日です。
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『神霊の国 日本』
2015/04/09(Thu)
 2004年KKベストセラーズ発行の井沢元彦著 『神霊の国 日本』 を読みました。
 はずかしながら、あとで、この作品は2010年5月にすでに読んでいて、読後記事を掲載していることに気づきました。
 小泉八雲の『神国日本』を読み終わって、なんとも似通ったタイトルなので、本棚にあるこの本の背表紙が目に付きました。手にとって読みながら、徐々にこの本は読んだことがあると思い出してきましたが、ふたたび読みました。さいわい辞書を引かなければわからないような言葉や事柄もなく、すらすらと読めました。
 『神国日本』を読んで、わかったことを繰り返し読んでいると思える部分がありながら、さらに、それに対比する欧米の、特にキリスト教の特徴をわかりやすく示してありましたので、日本に来日し十数年を過ごした小泉八雲が日本のどんな部分を特異と思ったのかが鮮明になってきました。
 しかもこの説明は、人間存在のありようを規定する根本的な部分ですので、日本の宗教観から来るあらゆるものが欧米人にとって野蛮に見え、当時来日していた欧米人がそろってそのような日本人を妻にもつラフカディオ・ハーンを気色悪く思っていたことがうなずけるのでした。
 この本は、このように欧米人と日本人の根底にある動かしがたい情緒を対比して畳み掛けて説明してあるのでとても説得力があります。
 わたしも、高校生のとき聖書を所々読んだり、先輩に連れられてカソリック協会に行っりしたことがありました。子育て初期、偶然近くに住み合わせた旧友に誘われて、やはり近所に来られる神父様のお話を聞いたこともありました。また娘が可愛がっていただいていたプロテスタントの牧師の話を聞きに行ったこともありました。しかし、親しくはなるものの、欧米人の血や肉になったようには理解せず、西欧人も自分と同じではないかと勝手に解釈しておりました。すでに幼いころから宗教とのかかわり方について知らずまに日本人の特性がしっかり骨身に染み付いていたことがわかります。
 いま私が住まいしている広島市安佐北区の可部地区は山口の萩に国替えとなった毛利家臣の熊谷氏の所領でした。熊谷氏はキリスト教弾圧のとき踏み絵を踏まず一族もろとも処刑されたと記録にあります。その影響か可部の古い墓碑をよく見るとキリスト者であることをそれとはわからないように刻んだものがあったりしますが、改めてこの人たちはキリスト教をどのように解釈していたのだろうかとおもわされます。
 キリスト教について本筋をたがえていた私のことに拘泥してしまいましたが、この本は、『神国日本』があらわされてからおおよそ100年後の本です。その間、日本も西欧もお互いのことがずいぶん理解できるようになっており、それぞれの国がお互い自立し、認め合っていくことが大切だということはわかっています。
 しかし、イデオロギーだけでは解決できない問題も次々と出てくるのが世の中です。井沢元彦のこの作品はこれらの問題に立ち向かう日本の能力を世に問うているように思えます。
ただ、作品の5分の3くらいが坂上田村麻呂や織田信長などのふつうの歴史書になっていています。

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あみだくじ
2015/03/24(Tue)
 昨日の朝、いつものように、裏山の福王寺山の駐車場まで登りました。
 家を出てすぐ一緒になった上奥さんと飽田さんは、たまに駐車場まで登られることもありますが、今朝は西原さんと展望台から下山され、私は展望台で一緒になった水野さんご夫婦と上川さん、玖保さん、羽柴さん、生田さんとで駐車場まで登りました。
 駐車場からお寺までは道幅もせまく急な坂道になるので院主さん以外は誰も車では上がりません。
 駐車場には小さな建物があり、鍵がきっちり閉められ、何かの設備が入っていて、
その横に半間とすこしくらいの幅のベンチがあり、ときどき誰かが休んでおられます。その小屋の前の道路のわきに、枯れて倒れ掛かった大きな木があり、その木の幹にたくさんの椎茸が生えています。簡単に手を伸ばして採れそうなところにはすでになく、高いところにたくさん生えています。登って採ろうとされた人が落ちてはいけないので、二人がお尻を両側から支え、やっと椎茸に手が触れて椎茸が急傾斜地に落ちたので、私はあわててその急傾斜地に下りて行こうとしてすべりこけましたが、難なく落ちてくる椎茸をひろい、上から手を伸ばしてくださった人につぎつぎ渡して無駄なく収穫いたしました。
 参道に上がってみると水野さんの奥様が、ベンチの上に人数分並べて置いてくださっていました。私はそのそれぞれの椎茸のまえに線を引きアミダクジを書きました。それぞれ、当たったものを持ち帰ります。
帰る途中、水野さんのご主人が、あの枯木は、ツブラジイ(ツブラ椎)という木でこれが本当の椎茸だと教えてくださいました。私は改めて椎の木に生えるから椎茸なのだと理解したのです。
 上る途中では、誰かが見上げて気づいた背丈の高い木が、青空のなかに白い花を咲かせています。「こぶしですか?」とたずねると、あれは、コブシでもタムシバ、あるいはカムシバという花だと教えてくださり、コブシとのちがいも説明してくださいました。覚えられないというとメモを書いてくださいました。
 水野さんはいつも正確な情報を提供してくださいます。間違っていたときは近日中に訂正してくださいます。
展望台からは秋末さんと下山いたしました。秋末さんとも、メモがないので全部忘れてしまいましたが、いろんな植物の話をしていただきながら下山いたしました。
 家に帰る途中、苗代さんが美しく咲いた春欄をご主人が生前焼かれた植木鉢ごとくださいました。お礼に椎茸を差し上げてきました。
 椎茸のないまま椎茸の話を夫にいたしました。夫はハーンの会で「阿弥陀寺の比丘尼」の学習以来、「阿弥陀」という言葉については、どんなことでもわかろうとします。結局わたしも「広辞苑」で「阿弥陀籤」について調べるはめになりました。
(籤の線の引き方が、もと阿弥陀の光背に似て放射線状であったのによる)白紙に線を人数分引き、金額を各線の一端に記して隠し、各自が引き当てた額の銭を出し、菓子などを買って平等に分配するもの。あみだ。あみだの光。くものすごこう。―広辞苑より―
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『憧憬』─ラフカディオ ハーンの足跡を旅して─
2015/03/23(Mon)
 ハーベスト出版より2014年12月初版 『憧憬』─ラフカディオ ハーンの足跡を旅して─ 古川 誠(写真)、山根み佳(文)、小泉 凡(監修)、 池田雅之(引用文原著) を読みました。
 ハーンの憧れた“神々の在す国”での、ハーンの作品の印象的なフレーズと、ハーンがそれら作品を創作するにそそられたであろう、出雲・松江界隈で見た心にしみる風景写真100枚の心にしみるコラボで、心象を深く味わえる心憎い写真集です。

 《章》だては、松江・北堀の住まい・怪談・散策・加賀の潜戸・美保関・杵築大社・日御碕・隠岐・伯耆の国となっています。

 ところが、神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直感も、それと共にあるのである。したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。
 (池田雅之訳「杵築―日本最古の神社」『新編 日本の面影』角川ソフィア文庫)

 波一つない、静寂なる島前の内海を囲む島々。黄金に刻々と変化する空と海の色彩。帳を降ろした群青の闇に灯る漁り火。その景色を自ら「鏡が浦」と名づけた八雲。菱浦では、苦手な生臭い魚やイカの臭いに悩まされることなく、機織の音を耳にし、美しい家々の並ぶ路地を散策した。そして、どこまでも透き通る砂浜で海と戯れ泳ぐことを何よりも好んだ。
 八雲は菱浦に、遠い記憶に眠る生まれ故郷レフカダの情景を思い起こしたのではなかろうか。晩年、妻のセツに、退職したら菱浦に家を持ちたいと言う。しかし、その願いは叶わず、八雲の夢は永遠に隠岐の海に溶け込んだ。

これらの二つの文章については、最初、怪談の情景を髣髴とさせる写真に添えられた文章の引用を考えていたのですが、最初の文章が、いま読み進んでいます井沢元彦の『心霊の国 日本』の文章とほとんどおなじなので、ここに引用し、それの対としてあとの文章を引用しました。
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『小泉八雲と日本の心』
2015/03/20(Fri)
 1978年古川書房発刊、高木大幹著 『小泉八雲と日本の心』 を読みました。
以下が目次です。
 序章―松江にハーンの旧居を訪ねて
 「感覚表現―耳なし芳一の場合」(日本英文学会第29回中国四国大会 1976)
 「盆踊」              (『明治村通信』第五巻第五号、1974)
 「ハーンと日本人の微笑」         (『英語教育』1974年、4月号)
 「ハーンと明治」                 (『構想』第二号1973)
 「日本の庭」            (中部工業大学紀要第八巻、1972年)
 「色彩」             (中部工業大学紀要第九巻、1973年)
 「地蔵」             (中部工業大学紀要第十一巻、1975年)
 「ハーンと西洋文明―漱石に ふれつつ」(中部工業大学『結晶』第三集、1976年)
 「短歌」             (中部工業大学紀要第十二巻、1976年)
 「無常(1)」            (中部工業大学紀要第十巻、1974年)
 「無常(2)」      (日本英文学会第二十七回中国四国大会、1974年)
 「無常(3)」
 ―書評―
  平井呈一著『小泉八雲入門』         (『英語教育』1976、十月号)
  斎藤正二訳『〈完訳〉怪談』         (『英語教育』1977、二月号)
 あとがき
 この目次にあるように、学会などで講演されたり、紀要などで発表されたものをまとめられた本です。
 この『小泉八雲と日本の心』を読んでいる途中、ときどき勤務している児童館の玄関に、飾るためにドライのほおずきの赤いのと白いの(ほおずきを漂白して透けるようにしたもの)とをもって行きました。児童館では飾った花瓶に必ず飾ってある植物の名前を大きく書いて貼り付けています。ほおずきって漢字はどう書くんですか?と聞かれ、にわかには思い出せず、携帯で検索。「鬼灯」ということがわかり、私はこの「感覚表現―耳なし芳一の場合」のなかで説明されている鬼火が頭から離れなくなりました。ほおずきの赤い色といい、形といい、芳一が真っ暗な雨の中、安徳天皇の墓碑の前にひとりで座り琵琶を鳴り響かせ壇ノ浦の戦いの歌を声を張り上げて歌っている、その背後や周囲、墓地のいたるところで、鬼灯が赤く怨む心を燃やしながら飛び回っている様子を思い浮かべ。感覚的に「耳なし芳一」が捕らえられてゆきました。
 書物の終わりころになってくると、そこまでのハーンの日本についての理解や、それに引かれていくハーンの深い気持ちを述べる中でたどり着く仏教思想に基づいた無常についての分析になってゆきます。「・・・この国民は、特にこの信仰の深い哲理に、身をもっていそしんだわけでもなかったのに、無常を説いたこの教義は久しい年月の間に、この国民性に深い影響を及ぼしたのである。・・・仏教は、自然はすなわち、是夢なり、迷想なり、幻なりと教えたと同時に、その夢の消えていく姿をとらえて、これを最も高い真理に関連して解明することも教えた。・・・火事、洪水、地震、疫病、―そうした人間の惨禍すらが、彼らに生者必滅のことわりを絶えず教えたのである。」と著作し、「久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ」というような歌への美意識をも愛でたのです。
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疲れた一週間の記録
2015/03/16(Mon)
先週、
月曜日は、午前中は福王寺への山登り。午後は児童館で2時間30分の仕事。
火曜日は、午前中は集会所でNさんと8月の工作の下準備をして。午後はNさんと工作の買い物。帰って家の片付けと掃除。
水曜日は、午前中は福王寺への山登り。午後は児童館で2時間30分の仕事。
木曜日は、午前中は大洗濯と裏庭の手入れ。午後は児童館で5時間の仕事。
金曜日は、茶臼山へ、Nさん、Iさんと登山、そのあと区役所へ行って、「あさきた里山マスターズ認定申請書」と地図をいただきに行く。3人でコーヒーをと区役所地下の喫茶室に行ったが2時までということで、また来ることにしてホウ酸団子の書類はもらわずに帰った。
土曜日は、9時までに友達3人で空き家になっている安藤家を蘇らせる計画のために安藤家に行って1日中片付け掃除をした。2月からみんながあいている日を調整して今日で5日目だ。この計画は家電製品などの修理修復、外渉など、男手が必要なこともあるので、夫も一応賛助会員になっており、この賛助会員は3人の夕食を作ってくれたり、夕食会も開いてくれたこともありシェフ役としても、尊ばれている。ここでの3人なかまで、一番片付け、整理能力のないわたしはつねに 指示待ち族でがんばる。あとの二人はそれぞれ、これから私たちが生きていくために必要な物の値打ちをきっちり判断して、捨てるもの磨いて残すものの仕分けをする。なかでも、ごみ分別の正確なKさんは、その日の捨てるものはきっちり袋詰めして中身を表示、市のゴミ収集車に持ち帰っていただけるようにし、作業の効果を目に見える形で進めてくれるので、わたしは、その前後の作業に奔走した。
 夫は敷地内にある工場の製造機械を見に来た業者と、交渉。流しの漏れの修理もしてくれる。また、夕食はコナシロの美味しい寿司と、鯛のお吸い物を作って3人に御馳走してくれた。
日曜日 朝から洗濯。よいお天気だというので4回洗濯したあと、午前中は福王寺への山登り。帰ってもう1回洗濯をして、掃除をし、午後、洗濯物の取り込みをした。夕食時、前日お寿司を持ち帰ったお返しにとカキモチをたくさん持ってきてくれたので、金寿堂の鉄瓶研究の成果を披露した。

これが大変疲れた1週間の記録です。

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第175回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/03/11(Wed)
 3月7日、第175回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 一緒に参加させていただいている夫は、さかんに小泉八雲関連の古本を購入して、わたしにみせびらかしては部屋に閉じこもって読書三昧のようすです。
 私はといえば、ほとんど登山と仕事の予定がつまっていたり、風邪を引いたりで全く予習をしないままでの参加でした。
 それでも、ほんのわずかの茶の子をもって、夫と参加するのはほんとうに楽しみです。
 きょうは、「阿弥陀寺の比丘尼」学習の最後の日です。風呂先生の、プリントでは「阿弥陀寺の比丘尼」を100パーセントの作品分析をし、すっきりとまとめ、ハーンの作品から感じ取ってほしい要点を浮き彫りにしてくださっていて本当にすばらしい講義でした。
 また、2月28日土曜日の中国新聞の「天風録」にあった2月20日に命を奪われた中学1年の上村遼太くんの記事に、隠岐の島出身の彼も聞いたであろう「しげさ節」のことが書かれてあり、ハーンの会への参加者のほとんどが教育者として、子共にかかわってきた人たちなので、皆さんで胸の詰まる思いで読み返し、テープで流してくださった「しげさ節」を涙ながらに聞かせていただきました。
 その後、部屋を移動して、1980年にNHK松江放送局が製作した、小泉八雲生誕130年記念番組の「出雲における小泉八雲」ビデオ鑑賞しました。そのなかで、来日以前に『出雲風土記』などで、古代出雲に関心を持っていたラフカディオ・ハーンが、西田千太郎のはからいによって、松江に着いてわずか2週間で出雲大社を訪れ、外国人としてはじめて昇殿を許されたことや、小泉セツとの結婚にいたる話などが収録されていました。また、旧小泉八雲邸の持ち主であった 根岸家の当主根岸啓二氏が、八雲の人間像を熱く語っておられました。番組全体の解説者は池野誠氏でした。
 さいごに、全体の質問を受けられたとき、田中先生から、質問がありました。
 『阿弥陀寺の比丘尼』からの質問でした。 “Nun”という英単語について、既婚者であったお豊が出家した後の呼び名を“Nun”と呼ぶことについて疑問があるがということでした。 風呂先生は俳句にも異訳があるが、・・・・とのことでした。
 英語のわからないわたくしは、考える根拠を持たないのですが、日本でのハーンのさいごの著書『神国日本』をより丁寧に読み返す作業を始めていた私は、ハーンがあえて最初の章に「難解」とタイトルをつけて、まず、日本を理解することの困難さを 《・・・・日本人の表面の生活の基礎となっているものを認知し、是を理解する事の甚だしく困難なる事に帰せられる。其生活を十分に解説する著作は―歴史的に、社会的に、心理的に、また倫理的に、日本を内部からも外部からも、描いた著作は―少なくとも今後五十年間は出来まいと思う。この問題は頗る広大にまた錯綜しているので、幾多の学者の一代の労力を合わせても、これを尽くすことは出来ず・・・・》というように、なんども言葉をつくして、説明しているので、八雲自身が西欧人には理解できないことは重々理解のうちかいたものと思わずにはいられませんでした。
 帰り間際、このたび、ハーンが日本滞在時に出版した本の何冊かをギリシャ語訳したものを、ハーンの会に寄贈された古川正昭氏が、先月太田雪影さんの書を配布させていただいたことについて、見せる人ごと好評で、太田雪影さんこと「はなてぼさん」のブログを教えてほしいといわれたので、教えて差し上げました。なんだか喜んでいただけて、夫も大喜びでした。
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『アングレン虜囚劇団』
2015/03/09(Mon)
 1981年出版、池田幸一著 『アングレン虜囚劇団』 を読みました。
 池田幸一さんについては、志村建世さんのブログでときどき紹介されていて、大変尊敬させていただいておりましたので、夫がネットで購入できたといったときには大変うれしく思いました。
 志村さんのブログでは現今の政治批評の記事を読ませていただいておりましたので、虜囚劇団とは以外でした。むかし見たのか読んだのか思い出せませんが、『南の島に雪が降る』を思い起こさせるタイトルでした。
 今になってみれば、終戦間際ですが、池田さんは奉天で代用教員をしていた1945年8月1日に召集されます。
 いろんなところを転々とした挙句、歩兵二等兵で、新京の宮内府警備隊に配属になります。15日間の宮殿の巡邏という兵役でみたものとは、満州国皇帝や高官たちがあわてて逃げ、抜け殻になった宮殿です。開けっ放しの引き出しの数々、引きちぎられて捨てられた勲章や略綬、螺鈿象眼の棚に封も切らずにいっぱい積み上げられてある避妊用具の箱、口を開けられたまま並んだ舶来ウイスキーの数々、見捨てて城を逃げ出すときに脱糞したとおもえるまだ生々しく盛り上がった渦巻き、さして必要とも思えない退屈極まりない毎日であったとあります。
 このように必要かさえわからないような任務のために徴用され、終戦を迎え部隊ごと捕虜になるのです。
 以後、

昭和20年9月12日 慮囚列車新京(長春)出発
昭和20年9月24日 アムール河を渡りブラゴペシチエンスク着
昭和20年10月19日 アングレン着。
アングレン〈悪霊の谷〉の意。中央アジアソ連圏ウズベク共和国の寒村
 昭和23年9月21日舞鶴へ帰還

 この間、虜囚として帰還させてもらえるまでの様子が、帰還後、30年過ぎてもう一度捕虜として過ごした場所を訪れたり、虜友と出会ったりして、思い出せることなどを中心に描かれてゆきます。
 アングレンは、やわらかい油性の多い無煙炭が無尽蔵に掘り出せるところで、日本兵はこの採掘と、それに必要な施設づくりである丘のうえに進められている集合住宅建設作業、そして新しい川底にある鉱脈を掘り出すための河川切り替え工事いわゆる運河づくりの3つがおもな労役の柱となっていました。
 芝居や文芸仲間のなかにいた異色の志摩少尉を中心に捕虜生活のことについて語り合う部分の一部を抜粋します。
《・・その日はドイツ捕虜の闘争をしきりに誉めていた。彼らの作業隊が三日も作業拒否を続けているそうで、今日もドイツの歌を高唱し、サッカーをして遊んでいるという。どうせ原因は些細なことであろうが、ロスキーをイワンの馬鹿呼ばわりして懲罰も減食も恐れず、民族と国家の誇りを容易に曲げない処が泣かせるというのである。志摩さんならずとも・・・。われわれ士官は勝つこと以外は勉強しなかったのだ。負けてからのことは作戦要務令にもただの一行も書いてないじゃないか・・・ドイツ軍に国際捕虜法を習いたいのだが・・・だれかドイツ語のわかる兵隊おらんかな・・・。》
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『西鶴名作集』
2015/02/28(Sat)
 講談社の少年少女古典文学館17 藤本儀一著 『西鶴名作集』 のなかから、『日本永代蔵』より、「初午は乗ってくる仕合わせ」、「世は欲の入れ札に仕合わせ」、「世界の借屋大将」「茶の十徳も一度に皆」「見立てて養子が利発」。『好色五人女』より「姿姫路清十郎物語」、「恋草からげし八百屋物語」。などを読みました。

 25日、ときどき、臨時指導員として働いている児童館でのこと、職員のひとりが、「テレビで見て作ってみました」とお絞り人形なるものを、三体作ってきて、動かして見せてくださった。この日は4人だけでの勤務でしたが、他のものは、聞くなり見るなり、お絞り一枚と、割り箸だけを使ったこの人形に見入ってしまい大喜びです。それぞれ手にして動かして楽しみました。わたしは、これは膳のまわりのものばかり使ってあるので、ほう間のお座敷芸ではないかと勝手に思い込み、家に帰ってもつくって散々遊んだ挙句、きょうになって、いわゆる太鼓もちの雰囲気を味わいたくなり、家の本棚からこの本を取り出し、パラパラとめくってすこし読んだのでした。

  じつはこれは娘の本で、読んだのは初めてでした。この名作集は読みやすく解説も図入りでわかりやすく丁寧です。
 さっそく三箇所にありました。
  「見立てて養子が利発」―見込んだ養子は大当たり― の文中、
 《ところが、この京の男、遊芸にかけてはあまりにも器用で、謡曲は三百五十番全部覚え、碁は名人に二目でかち、蹴鞠は宗家から町人としては最高位の紫腰の袴を許され・・・・・・即興小咄は太鼓もちの神楽庄左衛門や願西弥七も、はだしで逃げるほどだった。》
 「姿姫路清十郎物語」、副題―おなつ清十郎、悲しい恋のゆくえ― の文中、
 《これもまた俗にいう“昼のない国”を演出して遊びほうけるのだった。こすっからい太鼓もちをおおぜい集め、火の用心の口まねをさせたり、こうもりの鳴き声をさせたり、遊女の見張り役のやり手婆に、お盆でもないのに門口で茶釜をたいて歌念仏をうたわせた。》
 《そんなさわぎのなかで、いっこうにあわても、おどろきもしない太鼓もちがい他。闇の夜の治介という、この世界を知りつくした男だ。「男ははだか百貫というじゃありませんか。ふんどし一本でも世の中は世の中は渡れるというもんですぜ。清十郎さま、なにもあわてることはありませんや」と、清十郎をはげました。》
 すこし、遊び客相手の太鼓もちの雰囲気も伝わってきて西鶴の世界を垣間見た気になります。

 それとは別に「世は欲の入れ札に仕合わせ」―あっぱれな後家さん―には、実生活で考えさせられました。この話は、後家さんが住んでいる家を借金のために手放さねばならなくなって、宝くじの要領で、入れ札をさせて、逆に借金返済金以上の大金を手に入れる話です。空き家がずいぶん増えています。みんな年老いて、実家などの空き家を抱えて、さてどうしようかと悩んでいる人も周りに少なからずいます。私たち夫婦も、長年抱えていた空き家を4年位前に倒して駐車場にして、借りてもらっています。江戸時代では、こんな方法もあったのかと、さすが、大阪などへの丁稚奉公は商科大学だと小泉八雲が作品のなかでいっていたことばににうなずけました。
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『神国日本』
2015/02/23(Mon)
  昭和13年12月20日(戦時体制版)初刷2万部発行定価78銭、満州・朝鮮・台湾・樺太外地定価85銭、第一書房刊行、小泉八雲著 戸川秋骨訳『神国日本』を読みました。
 出版元の第一書房が15冊の図書を戦時体制版として昭和13年に、《思想・芸術・宗教等の文化の各方面に渉って、古今東西を通じて現代日本に最も緊要にして重大意義ある名著のみの普及を計るものであります。》 として、昭和2年に発刊されたものの刊末に、14ページこれら図書の解説を増補してあらたに発刊したものです。
 ついでに記すとそのなかの5冊「大地1部」・「大地2部」・「大地3部」・「風とともに去りぬ」
は確実に読んだ記憶があり、「石川啄木」は他の著者のものを、あまた読んでいるので、なんとなく読んだことにして、さらにこのたびの「神国日本」を読了したということです。
 日本人はこの島国で、鎖国による唯一無二の体制による価値観のなかで何世代も生きてきました。1854年に開国し、それから36年後の1890年に来日したラフカディオ・ハーンは日本語も話せないまま、いきなり、地方都市の松江中学で教師となり、貧しい中で懸命に学問に取り組む地方の子どもたちの英語教育に当たりました。彼にとっては、御伽噺のような不思議な国の、この子どもたちに接することから、日本の国への解明が始まります。
 日本の風物や民話をかたる作家として、あるいは新聞記者のレポートの目線で、欧米に12の作品を発信してゆきます。
来日して14年目、ハーンの生涯で最後の作品となるこの『神国日本』は、「黄金の国」日本に群がろうとする世界中の国々のなか、開国に当たっての国内の政変による幾多の戦乱や騒擾がつづくなか、そして貧しさのなか、自主独立を目指して、列強国との交渉・戦法・武器に耐える準備を模索研究し日清戦争から日露戦争へと懸命に耐え忍ぶ日本の歩みを目の当たりにし、このような日本人の精神を形成し支えているものは一体何なのか・・・・と、可能なかぎり日本についてレポートされている作品です。
 そしてさらに40年後の昭和20年、敗戦をむかえた日本に占領国軍司令部のマッカーサー元帥やその側近は、ラフカディオ・ハーンのこの『神国日本』を読みつくして来日したと言い伝えられています。まさに日本はこの作品に書かれてあることと全く変わっていなかったとの感想を持ったようです。
 それから70年がたち、私もこの本を手にすることができました。
 この本は、印刷にむらがあり、印刷の薄い部分は、目覚めた朝空けの明るさや、天井にはめ込んである明かりのところでは読めないのだと、半分くらい読んだときにやっと気づいたり、読めない漢字を調べるには手間がかかり、100ページくらい読んだときにやっと前後からの類推で読めるようになったり、文章の意味がわかりにくく、二度三度読み直してもわたしなりに理解できていない部分が多々あり読み進めない本でした。一気に読める章については、著作の時期、同居していた翻訳者戸川秋骨の資料提供により練り上げられた文章ではないかとも思えたのですが、この件については専門家の感想を待つしかありません
 ですが、日本という国についてこのように私に説明してくれたものがあったでしょうか。読書が「自分探しの作業」である部分があるとすれば、わたしはこの本を読みおえたら、もう自分はこれっきし本を読まなくてもいいと思える本でした。自分は日本人と日本を知るために生まれてきたのでしょうか。もうこれきり、いつ死んでもいいのではないかなどと思わされるところがある不思議な本でした。
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第174回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/02/16(Mon)
 2月14日、第174回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 寒さのおり、自宅学習はラフカディオ・ハーン著戸川秋骨訳『神国日本』が1日数ページくらいしか読みすすめず、無為に過ごしているような日々の中での参加となりました。
 このような停滞の中にあるせいか、会員の方々と会えることが楽しみな参加になりました。
 このたびは、上野公園東京都美術館の朝聞書展に1月20日から24日まで展示された、太田雪影さんのラフカディオ・ハーン著「日本の面影」のなかの「富士山」からの抜粋を書に仕立てた写真のコピーを持参し皆様に配布いたしました。
 太田雪影さんとは、本名、太田千代子・ブログ名、花てぼさんです。写真は、「日々の暮らしを記憶に刻む」という、みどりさんのブログに掲載されたものです。昨年、わたしは5月13日のブログに「目覚めればラフカディオ・ハーン」という記事をかきました。第164回「広島ラフカディオ・ハーンの会」のニュースのなかのハーン著「日本の詩瞥見」の『詩歌撰葉』にかかれている詩の書の美しさを愛でている文章があったのをのせたのです。その記事のコメントに花てぼさんが「この感動をどう伝えようかとそして早く伝えたい・・・」また、「ハ-ンの講座?に出席なさっているのですね。こんな素晴らしい会の機会に恵まれておられるのが何ともうらやましいです。」ともかいてくださいました。そして昨年秋、ハーンのものを書にかくことを予告してくださり楽しみにしていました。それが年明けの1月21日のブログには「何か月前から予告していたのでしょうか、やっと今「小泉八雲の文」を書にしたものを上野の都美術館で発表しています。みどりさんがよく写真を撮ってくださいましたので、みどりさんのブログをお訪ねいただいてご覧になってください。これを書きましたきっかけは、ご紹介いただいた「日本の面影」でした。ありがとうございました。」とコメントをいれてくださいました。上野の美術館にかかげられた、ラフカディオ・ハーン著『日本の面影』よりの美しい一幅の書が、このようないきさつで広島ラフカディオ・ハーンの会のご縁によって掲げられたことを伝えたかったのです。
 今回の学習会では、風呂先生の解説に強い感銘を受けました。前回に続きハーンの「阿弥陀寺の比丘尼」の学習でしたが、文中にある、お豊の坊やがお豊の身代わりに死んだという「身代わり」について、浜田廣介の『泣いた赤鬼』の話をされ、これを読むと涙が出るといわれました。わたしもこの話を聞いて涙が出ました。半分は風呂先生のもらい泣きで、半分は、自分が50歳のころから職場の人たち12・3人で人形劇をやっていて、4作目にこの『泣いた赤鬼』に取り組みましたが、失敗に終わったことを思い出したからです。このとき、風呂先生のような感性でこの作品に取り組んでいたら、人形作りから違ったものになっていただろうとお話を聞いて思いました。子どもたちに伝える内容への検証がなされていなかったことへの強い反省です。親友である赤鬼の願いをかなえるために、青鬼が赤鬼に別れの張り紙を残し旅に出かけていくシーンにしっかり心を置くべきでした。
 会の締めくくりの挨拶では、田中正道先生が「風呂先生の井戸は汲めども汲めども清い水が湧きでてくる」と評され、的を得た評のあまりの美しさに風呂先生の心根が映し出されていることを思い、参加者全員が惜しみない拍手を送りました。
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 『ともしび』
2015/02/10(Tue)
 平成25年、広島県密教青年連合会(真生会担当)発行 第47号『ともしび』 を読みました。
 A3 2枚8ページからなる会報といったようなものです。
 先日、2月7日(土曜日)に虚空蔵山(こくぞうやま)登山の帰りに参詣した並滝寺に立ち寄ったときに、参詣者用に置いてあったのをいただいたものです。
 持ち帰ってゆっくり読んでみて、あらためてこういった神社、寺院などの意向をつづった書き物に、いままで全く目を留めて理解を深めようとしなかった自分を悔いたのでした。
 ラフカデオ・ハーンの会に参加させていただくようになり、そこで毎月いただくすみよし神社の発行されている『すみよし』を読むようになって、さらにラフカデオ・ハーンが生存中の最後の著作となったという『神国日本』を四苦八苦して読みながら、はじめてこのような書き物を真摯に読んでみようという気持ちになったのでした。
 表紙には安田学園の校庭で被爆したにもかかわらず生きつづけているというソメイヨシノの葉桜の写真がもちいられています。
 そして、残り7ページは
 1、神様と仏様           広島蜜青会  大願寺  平山真悠             
 2、祖母の人生を振り返り    福山即身会  法薬寺  釋 光教
 3、曼荼羅の中にいる私たち  尾道真生会  観音寺  末道弘聡
 4、高野山の伽藍         広島蜜青会  金剛院  常廣淳亮
 5、心の安らぎ           福山即身会  正善寺  今井隆博
 6、薬師如来について      尾道真生会  光音寺  吉武真仰       
 7、通信欄
となっています。
 そのなかで、日本では古来、神道と仏教がどのようなかかわりを持って日本人の心の中に根付いていったのかを説明しておられる部分に出会うことができました。
 1、の「神様と仏様」のなかでは、「お寺で買ったお守りと、神社で買ったお守りを一緒に持つと神様と仏様がけんかをするじゃろう」という素朴な疑問から、神仏のかかわりについて
 《仏教が日本に伝わってきた時に、日本では、仏教は私たち衆生を救済するために、神様のお姿を借りて目の前に現れ ておられるのだという本地垂迹説が広まったのです。神様と仏様は表裏一体として拝まれていたわけです。このようなこ とは今さらながら神仏習合を説くものではなく、私たち日本人の“信仰”の豊かさというものをもう一度見つめ直すものな のだと思います。》
と、述べられています。
 また、4、の「高野山の伽藍」では、伽藍のなかにある諸堂の説明のなかの【御社】の部分で、
《地主神である丹生・高野明神を勧請しています。この神の守護により伽藍を建立し神仏融合の始まりとなりました。》とあります。これらの説明は、ラフカデオ・ハーン著『神国日本』に述べられている、「仏教は神様に友達のように受け入れられた」という説明をあきらかにしています。また「神道という言葉については昔からあったものではない」との記述については、この会報では触れられていませんが、廃仏毀釈後鮮明になってきたのかなとも思われました。
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虚空蔵山(こくぞうやま)登山
2015/02/09(Mon)
 2月7日土曜日、虚空蔵山に登りました。
 このところの天候の悪化から、もと登る予定だった山を変更しての登山でした。
 虚空蔵山は、東広島市志和町にあり半月まえに登った曽場ヶ城山から7km北北東にあります。
 3・4日まえからの冷え込みで寒く、衣服、お弁当のおにぎりもすこし多めに、スパッツも装着していったほうがいいとのアドバイスも忘れないように準備しました。7時40分の羽柴さんの迎えを待って車に乗せていただき、国広さん、佐々木さんと拾って、水野さんご夫婦、玖保さん堂河内さんの乗っておられる車と合流、総勢8人で出発しました。芸備線と並行する県道37号線を白木町まで北上して、それから南下。志和堀をとおり、並滝寺池という300年前につくられたと看板表示に説明されている大きな池と道路の間にある駐車場に車を置きます。登山靴に履き替えて、すぐそばにある登山口の看板のところから登り始めました。
 登山口のある県道が山裾を削ってできたからでしょう、登山口から、急傾斜地で、さっそくロープの世話になって登り始めることになりましたが、それからは、なだらかな道がすこしつづきました。そのあと、またずっと急傾斜地で、登るのは何とか楽しんでロープに助けられて「よいしょ!よいしょ!」と登るのですが、これをくだるとなるとなんだか怖くなります。ずいぶん間隔をあけて下ることが大切だなどと思わされます。こんな急傾斜地ですからあっという間に一気に高度をあげ、真下にどんより曇った空を映した並滝寺池が見えてきました。無駄な迂回もなくまっすぐあがってきて、まるでロープウェイであがってきたような感じです。
 途中、すっと高く伸びてきて、二股にわかれた羊歯がながく伸びています。こんなに長い羊歯は見たことがないねと、ステッキで測ってみました。二股に分かれたところからなんと98センチもありました。
 そこらあたりからはふつうののぼりです。すこし平らなところは、やはりそのむかし修行僧のための粗末な宿坊でもあったのではないかと思われます。幹の肌が白っぽくゴトゴトした木が目に留まります。アベマキという木でコルクを作るのに用いられると教えていただきました。大好きな春欄も枯葉の間からつぼみを覗かせて春の兆しを告げています。
 途中AコースとBコースとの合流点ですの案内板があります。わたしたちはAコースだったことがわかりました。そこで、水分補給などの休憩を取っていると、一人の男性が登ってこられました。町内の方で、毎週1回くらい登ってこられるとのことです。そこからすこしいったところに山の案内文にも紹介されている大岩と呼ばれるところがありました。そこに先ほどの男性が座って景色を眺めておられます。どのように行けばそこにいけるか教えていただき行ってみると絶景!!その人も入っていただいて記念撮影などをします。さらにすこしすすんで頂上。666,1メートルの三角点を撫で回して、またまた記念撮影をしました。昼食にはすこし早いのでそのまま下山しました。なぜか道をどこかで間違えて、あの難所と思えた長い急傾斜地がないままに降りてしまいました。だからといって迂回した様子もないのです。いまでもそのことを不思議に思っています。
 車で並滝寺池をめぐっている山の中を道なりに迂回して並滝寺に行きました。この道路は、ミステリー映画のロケにでも使えそうな景色の中をすすみます。湖粋園というレストランを供えたホテルもあり、駐車場も広いのが坂道に三段あります。すこし登って、並滝寺に着くと667年創建と書かれてあります。荒れるに任せてあるのがなんとも寂しくその藁葺きの本堂の回廊でお弁当をいただきそれから帰途に着きました。一応初の冬山登山で早い帰還でした。
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『我輩は猫である』
2015/01/30(Fri)
 昭和43年発行、旺文社の特製版文庫、夏目漱石著 『我輩は猫である』 を読みました。
 30年くらい御無沙汰していた愛読書です。特製版とは表紙が文庫本でありながらがっちりしています。
がっちりはしていますが、何しろすでにボロボロです。この本に限っては何度か読んで暗証している部分もあるくらいです。しかしいくら暗証したといっても、30年も前のことですし、ぼやっとなって失念しています。こんなに失念してしまっているのに、先日22日に、職場で「けん玉教室」の講師を頼まれ、とっさのことにこの『我輩は猫である』で覚えたらしいことをいい加減にしゃべってしまったのです。
 なんとなく、確認?いまさら?でも読み返してみたのでした。
もともと講師ができるほどでもないのに、このところ講師代が大幅に削減されてしまったので、けん玉がほんのすこし上手であれば、けん玉名人などと持ち上げて、臨時指導員として雇って講師をさせようという苦肉の策なのです。
 裏山に登る道で、わたしが教育実習にいったとき、その高校の体育の先生をされていて、のちに実業団のバレーの監督になられた方と出会い親しく話すことがあるのですが、先生にけん玉の講師について悩みを打ち明けると、上手な子どもにやらせて、どうすれば上手になるか子どもの言葉で話させるとほかの子どもがよく理解することがあると教えていただき、さっそく当日実行しました。
 1年男子、2年女子、3年男子、3人の子にみんなの前に出てもらって、実演してもらいました。なんと1年生の男子の子が極端に上手なのです。そうすると、3年生の男子が体裁が悪くなり悪ふざけを始めます。「先生、玉が止まらんけーできん」といいます。観客が気になって、心が定まらない様子です。「さすが3年生、大事なことを言ってくれたね。止まらないものは乗せられんよね。そんなときの呪文。相手の太刀に心を置けば、相手の太刀に心を奪われるなり。自分の太刀に心を置けば自分の太刀に心を奪われるなり、相手の心に心を置けば相手の心に心を奪われるなり、自分の心に心を置けば自分の心に心を奪われるなり、ほら、玉が止まったよ、乗せて!」偶然ちゃんと乗ったので皆が「うおー」と感嘆することになったのです。
 「けん玉教室」の終わりの挨拶のとき司会者が、「玉を止めるときはどうするの」というと、「相手の心にも自分の心にも・・・何処にも心を置いちゃいけんのよ」とふざけて実演した子が言ったので、みんな大笑いでした。これに似たようなことを、九章のなかの、沢庵和尚の不動智神妙録のなかの文言だと迷亭の伯父がいうのです。まあ何とか子どもたちを煙にまいてモチベーションをあげさせることができたようなできなかったようなけん玉教室でした。
 昨年から小泉八雲について知るようになり、改めて漱石への理解もリアルになってきました。六章では迷亭が「僕もだいぶ神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しいことに先生は永眠されたから・・・・」と自分の過去の恋愛談を話すところもありました。
 また余談ですが、八章では、スチーブンソンも風呂先生のように腹ばいに寝て小説を書いたという部分もありました。
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『マルセル嬢誘拐』
2015/01/25(Sun)
 昨年の2014年9月に発行されたばかりの新幹社の浅見渓著 『マルセル嬢誘拐』 を読みました。
 風呂先生から著者が知人ということで紹介をいただき購入したものです。
 1968年12月27日金曜日、京都国立近代美術館から展示中のフランス十九世紀の代表的画家、アンリ・トゥールーズ・ロートレックの名画「マルセル」が盗まれたことが起因の作品です、
 盗まれた夜、当直で警備をしていた警備員が、年明けの正月早々責任を取って自宅の布団のなかで刺身包丁で自害するという不幸な事件が起きました。
 1975年12月27日午前0時、「マルセル」の窃盗犯罪は、犯人も絵も見つからないまま、時効が成立します。ところが、時効後1ヶ月たった、1976年1月29日、「マルセル」が届け出られてきます。学習塾の講師をしている青年から中身が何であるか知らないまま預かったと夫婦が朝知新聞(朝日新聞)に持ち込みました。届け出た夫婦は時効を告げる記事に大きく掲載された絵のなかの青い色をみて、包みから見えた絵の青い色を思い出し、もしかしてとのことです。鑑定者によって本物であると判定されます。預けてきた青年の名前は明言したものの、その青年がさらに誰から預けられたかについては語らないため、犯人については現在に至るまで迷宮入りとなって未解決です。
 この書の著者は、事件当時、本書では毎大新聞と名づけられた全国紙毎日新聞の京都支局で事件記者でした。事件後数年が経過して毎日新聞社の記念特集に、それぞれの記者が自分が記者生活で一番記憶に残る出来事について書いたものが掲載されることになり、彼は未解決の「マルセル」強奪事件について書きます。それを読んだ女性作家がそのことを題材にして小説を書きたいと、そのときの事件関係の資料を見せてほしいと申し出、2011年元旦より1年間、毎日新聞の連載小説として書き進められます。それを読んだおおくの読者から、その事件を取材した当人の書いたものが読みたいとの声があり、本書が出来上がったという経緯の本のようです。
 著者は、この事件では、自殺者もありその遺族の心の痛みを思い、部署が変わっても、転勤があっても、この事件の真相を探ることに心に留め、ついに、警察も犯人らしき人に行き当たっており、時効を過ぎていることから、とどめの確認もできずつらい思いをしていることもわかり、ことここにいたって、社会正義と遺族のために、信義に基づき犯人が自ら出頭することをうながすための思いをこれでもかこれでもかというほど訴えています。
 わたしは事件の翌年1969年11月に一人で京都を2泊3日で旅しています。この京都国立近代美術館にもゴーギャン展を観に行っています。本格的な美術館にいったのはこのときが初めてで、美術にまったく不案内な私もゴーギャンの「ヴァイルマテ」に金縛り状態になったのでとても印象深くおぼえています。今でも「ヴァイルマテ」も展示場内の雰囲気もよく覚えています。今思えばこの事件はその前年の暮れのことだったのです。
 また、著者の痛切に訴えてやまない社会正義。わたしは当時勤めていた建設会館に毎日12時45分に迎えに来るタクシーに乗って、合同庁舎の4階の中国地方建設局に出向いて、業界新聞やたまに全国紙の記者クラブのかたがたと、係長が報道向けに発表する建設・土木工事の発注に関する記事を聞き取ってメモし、県庁で大きな工事の発注があるときはやはり立ち寄っておなじことをして、タクシーで帰り、清書して上司に上げるという仕事をしていました。職場の上司から、記者の人たちがタクシーに同乗を希望されるときは気持ちよく受け入れるよう指示されておりましたので、このかたがたと話す機会もおおく彼らの社会正義感にもおおくのことを学んだことを思い出しながらの読書でした。
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曽場ヶ城山登山
2015/01/21(Wed)
 1月20日火曜日、曽場ヶ城山に登りました。
 曽場ヶ城山は広島市の東に隣接する東広島市の八本松町にあり、わたしたちの住む安佐北区からは、狩留家から湯坂から志和に抜け、八本松駅の前を通って南下、曽場ヶ城山登山口から登ることになります。
 当日は、このところの冷え込みがうそのように雲のない青空で、暖かく風もなく、むしろ登山者としては温かすぎるほどのお天気に恵まれました。
 8時5分に羽柴さんが家のすぐそばに迎えに来てくださり、久保さん、佐々木さんとひろって、アルゾの駐車場で、玖保さん、国広さんの乗った水野さんご夫婦の車と合流して、途中コンビニで弁当などの買い物やトイレを済ませ出発です。
 登山口についてみると、夫とよく通る八本松小学校の先の大きな池の反対側から7・8メーター上がったところだということがわかりました。水道局の設備があり、案内にあるほどの空き地ではなかったのですが、上手にとめられて、登山靴 に履き替えます。もうこのとき、ほとんどの人が暑い暑いとジャンバーなどの上着も脱いで、9時45分から登り始めました。1時間30分くらいで頂上とのことで、時々急傾斜地もありながら、冬山とあって見通しもよく、みんなの姿もよく目にはいって、道々の説明書などを確認して、ところどころにある石仏に手を合わせながら、道々の整備にも協力、折れた木切れなどを脇によけたりしながら登ります。
 しばらくいくと三の丸跡があり、気分はだんだん戦国時代へ、そして「午の段」と書かれた削平地、午とありながらイノシシの掘り返した跡も生々しくそのすぐ上の二の丸跡へと続きます。二の丸から本丸への道がびっくりです。まるで、トトロが通り抜けていく草むらのトンネルをすこし大きくして暗くしたような矢竹の群生のトンネル道なのです。矢竹という言葉もその竹を見るのも初めてですが、指の大きさくらいの竹が釣竿のように長くそしてよく撓るのです。群生しすぎているせいか竹はすこし黒ずんでいるようですが、戦国時代にはこの竹をどのように利用したのでしょうか。              
 群生が尽きたところを2・3メートル上ると本丸跡です。東側を迂回しますが、石垣がずっと築かれ、粗末な高さ2メートルくらいが太った雑木などによって崩れそうです。東北側から本丸跡に上がります。ひろい削平地で、見晴らしもよく、今では石仏がおかれ、お酒などがお供えられています。本丸跡を反対方向の北西にすこしくだって、また稜線をのぼり行き着くところが頂上で、標高607メートルの三角点があります。ここでの見晴らしもおおよそ360度で、抜群です。記念撮影でにぎわい、お弁当をたべて、下山です。途中、登るときに気になっていた供養塔への道があり、わき道にそれていってみました。もとあった巨大な自然石に、供養塔と掘り込まれ、さらに下段の岩に戦没者や被曝者の名前がずらずら並んで掘り込まれ、廻りも整備が行き届き東広島の市街地を見下ろしています。みんなで手を合わせ、もとの登山口に下山いたしました。降りて万歩計を見ると8600歩くらいしか歩いておらず、福王寺の駐車場より3000歩少ないのに改めてもともとの八本松の標高の高さに驚きました。
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「日本英学史学会中国・四国支部12月例会資料」
2015/01/18(Sun)
 鉄森さんからいただいた「日本英学史学会中国・四国支部12月例会資料」を読みました。
 この資料は、わたしにエキサイティングな一日をプレゼントしてくれました。
 2部ある中の「中濱万次郎が果たした教育的役割―開成所から開成学校を中心にして―」は、ジョン・万次郎で有名な中濱万次郎の一生と、かれの業績・人とのかかわりを知ることができます。
 十四歳にして乗っていた漁船が難破することによっていきなり英語圏での生活が始まります。頭脳明晰で、誰からも愛される人柄によって、広めた見識と知識、技術、資産、英語力を得て、9年後日本に帰ってきます。もちろんすんなり受け入れてもらえる日本の国情ではありません。しかし、諸外国からアプローチをうけ、鎖国が二百年以上続いた日本にとって彼の持っている見識と知識、技術、資産、英語力が捨て置かれるはずもなく、あらゆる方面での先駆的人物としての活躍を期待されるのです。日本の開花は、彼の活躍なくしては語れないことを改めて認識させられます。
 彼が、アメリカの桶屋で働いていたときのエピソードを読んだとき、きゅうに子どものころやはり『ジョン万次郎漂流記』を読んでいたんだと確信しました。わたしたちが子どものころは、『トムソーヤの冒険』などと同列に読んでいたのでした。中濱万次郎そのひとと、開花期の時代の流れの中での存在意義を、わたしが本当の意味で顕彰できた貴重な資料でした。
 もうひとつの資料「漱石とThe Loutus Library ⑷」は英文が多くてちんぷんかんぷんでした。それでも何とか資料製作者の意図する雰囲気を味わいたくて、岩波書店の『漱石全集』27巻の書き込みとあった部分から調べてみようと、我が家の全集から27巻を取り出して裏山に登りながら読むことにしました。この全集ではないようでしたが、山中ではもはやどうにもならないのをいいことに、明治22年からの書簡集をよみほうけ、何年かぶりに漱石の世界にはまりました。このプリントにもあるように漱石の蔵書の書き込みはおなじみで、私も真似て、子規への手紙から始まる本文初ページから書き込みを入れており、おもわず苦笑いでした。
 引き込まれていくうち、明治37年7月24日に、橋口貢(五葉のことだと思うけれど)に送った葉書で、「名画なる故三尺以内に近付くべからず。」と書き送っています。ところが次の日、「昨日君の所へ絵葉書を出したところ小童誤って切手を貼せず定めし御迷惑の事と存候然しご覧の通の名画故切手ぐらいの事は御勘弁ありたし 十銭で名画を得たり時鳥」と送っています。
 そこで私も一句。 書き込みて漱石きどるや時鳥
その内容が書評などではなく、漢字の読みであったり、意味であったりするのが悲しいところですが、こうして後々読むこともあれば、私的な漱石読解本として有効なので山道万歳!の読書です。この全集は当時、主婦兼学生で本も買いにいけない私のために岩崎文人先生が自分のと一緒に月々買ってきてくださった思い出の全集です。
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『Q先生の遺産』
2015/01/17(Sat)
 京都修学社より2005年発行の、ヘレーン・ハンフ著・桝井幹生訳 『Q先生の遺産』 を読みました。
 この本は、第173回広島のハーンの会のとき、風呂先生にいただいた本です。うれしさのあまり、何はさておき読み始めました。
 ところが、正直読み始めてみるとわけがわからず、つい読みかけるとほかの用事に思いがいって興が乗りませんでした。もちろん、読み進んでいくうちだんだんおもしろくなって夢中になり最後まで読み終えました。ただ最初から、直前に読んだ吉野せい著『土に書いた言葉』同様、自分も何か書いてみようかなと思わせる不思議な本です。『土に書いた言葉』では、本を下さったみどりさんがやはりそのような思いをしたとコメントに書いてくださっていました。そして、この『Q先生の遺産』では、翻訳者の桝井幹生氏が「あとがきにかえて」で、ヘレーン・ハンフのロンドン行きの記録を本にした『ブルームズベリー街の公爵夫人』ほどのロンドン案内記ではないがとことわって、この翻訳に掲載するため写真撮影のため自身以前留学したことのあるロンドンに行かれたときの様子を書き留めておられます。その部分とさらに今一度「まえがき」を読み返したことによってこの作品への興味が数倍になり再度読みなおしました。
 「虚」をえがくことによってより「真」を書くといったような技法は一切なく、何か訴えたいテーマがあるわけでもなく、ただ自分の身に起こったことしかかけない作家。それが読む人をこんなにフレンドリーにさせるとは思いもやらないことでした。
以前、司馬遼太郎がなくなって後、マスコミ関係のだれかが奥様に「もし司馬さんが突然あらわれたらどんなお話がなさりたいですか」といった意味のインタビューをしたとき、「人の悪口が言いたい」と述べられました。この気持ちはよくわかります。運命共同体の人にしか人の悪口なんて早々言えるものではありませんが、著者のヘレーン・ハンフにはそれが言えるような気がするのが不思議です。
 著者は、《わたしは落ちこぼれの台本作家。わたしはこの映画全盛時代に、生テレビ番組を作った経験など1円の価値もないテレビ作家。もうだれも出版しなくなった子ども向きの歴史本の作家。わたしはもうお呼びではない。わたしは負け犬だ。》と自覚しています。然し大学に行けなかった分、Q先生の「散文の書き方」講義を読んで長い歳月ひとりで苦労してきたのだからと、こだわってはみるものの、小説は嫌い、フィクションは嫌い、悩みは尽きず生活は苦しい。『ショービジネスの下積み生活』で一時しのぎをしてはいたが・・・。ところが53歳にして、20年間文通をしてきたロンドンのマークス書店の店主が亡くなり店じまいされ、それを契機に書簡集のような『チャリング・クロス街八四番地』を出版。米国英国などでこれがヒット作となり、著者の生活は一変します。
 2度目を読み終えたわたしは、「あなたの昔の苦労話、そして本が当たってロンドンにまで何度も行った話。Q先生仕込みの散文でまた読ませてよ!」と親しみをこめての思いです。
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福王寺登山
2015/01/16(Fri)

 1月11日、和子さんと石田さんと福王寺に登りました。
 和子さんは亡くなった夫の弟の妻です。
 毎朝登っているのにあらためて「福王寺登山とは何?」ってことですが、去年職場を定年退職してからのいつもは、福王寺登山といっても駐車場までの登山で、さらにそれまではもっと低いところにある展望台までの登山だったのです。
 展望台までは登る人も多くて気楽に登れるのですが、駐車場までとなると、登る人も少なく、クマや猪や鹿や猿が出てきそうで気楽に登れません。しかし、9時に展望台に到着すると、ほかの方面から登ってこられた方々がさらに駐車場まで登られているということがわかったので、その時間に合わせて、みなさんと駐車場まで登ることができるようになったのです。
 しかし、今日は、和子さんがおにぎりを4個作って、わたしがお茶、ジュース、果物、せんべい、飴、チョコレート、ケーキなどを背負って、カメラも持って、駐車場を通り過ぎ頂上のお寺まで、そして寺の裏にある金亀池を廻ってさらに峯を伝って三鬼さんの祠に、、そしてさらに300メートル先の496メートルの三角点まで登るのです。
 もともと和子さんと二人で登る予定だったのですが、石田さんの家の前で石田さんに出会ったので誘ったのです。石田さんは大喜びですぐさまついてこられました。          
 石田さんの話が面白いので足が痛くならずに笑いすぎてお腹が痛くなりました。
 お寺では、お参りをして、金堂の中まで入り、本尊の不動尊坐像、不動尊の共木で作られた千体仏を拝ませていただき、大きな座布団に乗せられた五鈷を確認しました。ここではこの五鈷を眺めるのが何故か好きです。
 池までいくと和子さんはココが今日の登山の最終地点だと思っているようで弁当を食べようといいます。和子さんはよく動き回る人で、料理も好きでよく食べます。わたしは、ここで終わってはただのお寺参りに終わってしまう。三鬼さんに行かなくてはと話します。和子さんはよく宮島にお参りする人なので三鬼さんといえばお参りせずにはおられないと思ったからです。三鬼さんにお参りしているところで和子さんがお弁当を食べようといいます。三角点まで行こうとさそうと、300メートルもあるから大変だと、もう行きたくなさそうです。そこに、若い登山客の男性がやってきました。写真を撮りあって、話しているうちもちろん三角点に行きますよとその男性が言ったのでそれなら一緒に行こうと、和子さん元気よく三角点まで行きました。三角点に着いたという満足感で二人に喜んでもらえたようでした。私と石田さんはおにぎり1個、和子さんは2個食べ、石田さんは和子さんがおにぎりに添えていてくれた沢庵が美味しいと言って何枚か食べていました。そして夫の作ったケーキを食べ、さらにあれこれ食べて元気の出たところで下山しました。途中雨が降ってきて、夫から車で迎えに行こうか?と電話がありましたが、二人が大丈夫というので、断って歩きました。石田さんの家では石田さんが二人に柚ジャムをくれました。家に着くと、夫が林さんにもらったイノシシの肉鍋を作ってくれていたので「ほーほー」と言って食べました。そのあとまた夫の作ったケーキとコーヒーを飲んで1時間くらい歓談して前日鉄森さんに白菜の漬物をふた袋頂いていたのでそれを一つと我が家の柚ジャムひと瓶土産にしました。ほんとうは、今年は和子さんの作った柚ジャムが一番おいしかったのですが・・・・。
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『仏教を歩く №7 良寛』
2015/01/14(Wed)
~~2013年8月10日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

 朝日新聞出版刊 『仏教を歩く№7 良寛』 を読みました。
 夫が定期購読している本で、今年の4月7日号です。
 見返しに、「仏教を歩くとは」とこのシリーズのコンセプトといったようなものの記載がありました。
 ≪インドに発し中国を経て日本に広まった仏教は、今もさまざまなかたちで私たちの暮らしに深く根づいています。お彼  岸、お盆、お遍路さん、精進料理、お祭り、そしてお葬式。仏教はいつの時代も、私たちの生活の身近にありました。   『仏教を歩く』は、各時代を代表する祖師や名僧たちを取り上げ、その足跡をたどることで、今も絶えることのない日本  仏教の豊かな水脈を再発見しようというシリーズです。≫
 病院や、美容院の待合で、良質な用紙を用いた広く薄い冊子に出会うことがよくあります。十分に落ち着いた景色やそれを物語る資料の写真とで、即その世界に浸れて優雅な気持ちになれます。そんな本です。
 荒井魏著『良寛の四季』を読んだあとの読み物としては、今年発刊されたものにしては、まるで新しい資料による検証がなく従来の良寛像のままですましているという多少奇異な感じもいたします。
 表紙から裏表紙まで40ページ中、良寛についての記載は27ページで、あとは、“ブツ女”田中ひろみの「この仏さまが好き!」、ドイツ人住職が伝える「禅の道」、瀬戸内寂聴の「仏教への誘い」、小野庄一の週刊お遍路さん、「典座さんの食べる仏教」という5つの連載ものです。この連載ものは良寛とは直接関係なく広く仏教について書かれてあり、あとでまとめてひとつずつ読むほうが私の読み方にあっているかもしれません。

 ※ 良寛さんの時代の手毬には、中にぜんまいの綿が入れてありよく弾んだというのは知らなかったことです。
    試してみたい気持ちになりました。

  
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『良寛の四季』
2015/01/14(Wed)
~~2013年8月7日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

荒井魏著 『良寛の四季』 を読みました。
 みどりさんからいただいた本です。
 新たな資料の研究により、近年、従来の良寛像が、大きく塗り替えられていることを受けて、著者はその研究を元に、良寛ゆかりの越後をくりかえし訪れて、改めて良寛の魅力と生身の良寛の吐息を感じ、それによっての解説を加えた優れた俳句・短歌・漢詩を味わうことができます。
 忘れていたのですが、ブログ記事を書くようになって、2009年4月に中野孝次著 『良寛に生きて死す』 を読んだことを記録していることに気づきました。いま、その記録を読み返してみて、そのときも若い頃夫に進められて読んだときにも特別良寛について深く感じなかったことを思うと、歴史的背景、宗教的背景、あるいは家庭的背景に言及して考察してあるので、あらためて良寛にわが身を置いて読めることで良寛の魅力に触れることができるのだと感じています。
 良寛が、短歌などを勉強するのにどんな本を読んだらいいですかと聞かれて、『万葉集』だと答える部分があります。すると難しいところがあってよく読めないのですといわれて、わかるところだけ読めばよいと答えていました。
 読解力にも感性にも個人差があります。相手の能力を見抜いての答えなのかとも思いますが、私自身にもこの答えが一番いいのではないかと妙にうなずけたのが印象に残りました。良寛の師の辞世の句に、十分に仏教の経典に通じた人でないと理解できないむずかしい句がありました。良寛も辞世の句にまったく同じ心理を伝えたくて
 裏を見せ表を見せて散るもみじ
と詠みました。これなら後世に通じ、現代でもこの句が多くの人に親しまれているのが理解できます。
 なんだか、このように肩の力を抜いて生きていていいのだと感じられます。

 読んだ内容が汗とともに流れ落ちて記録にとどまらない状態です。
 今、やはりみどりさんからいただいた
  ≪ ひだるさに寒さに恋をくらぶれば 恥ずかしながらひだるさがまず ≫
と詠んだ沢庵の歌を紹介した水上勉著『沢庵』を読み終え、つづいて夫が購読している『仏教を歩く№7 良寛』を読んでいます。
 施設では、たまにクーラーのある部屋で過ごしますが、35度前後の遊戯室で布ボールでの野球の審判をしたり、卓球をしたり、大縄跳びの縄をまわしたりしているので読んだことはみんな汗で流れ出てしまいます。

 天暑し自愛せよ。と、良寛さんから恋文が舞い込んできたと錯覚してがんばっています。

※ この記事には、ハーンの会で風呂先生が説明されたなかの、良寛への批判の声に相当するみどりさんからコメントがありましたので一部分付け加えます。
「良寛さんのほめ言葉は多いですが、良寛さんが生きていた時代、一碗の米すら家になかった貧農の暮らし、大飢饉による飢え死にの続出に目を注ぐと、里の子相手に手毬などしていたのか?と疑問視した本に出会いました。
それで、お渡しした著書を読み始めたのです。
人の心の奥底に潜むものは、ひとくくりでは言えませんね。
誰にも言えない懊悩もあり、其処を見据えながらも、淡々と大らかに生きられたら・・・とも思います。 」
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『良寛に生きて死す』
2015/01/13(Tue)
~~2009年4月6日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

2005年出版の中野孝次著 『良寛に生きて死す』 を読みました。
 中野孝次は1925年~2004年7月を生きた人で、この本は、中野孝次本人が亡くなってから編集されたものです。

 良寛遺愛の手毬の写真が掲載されています。
 糸を巻いてつくり、最後まわりに花の絵が刺繍されている美しいものですが、良寛には

  この里に手毬つきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし

などのように手毬をついていたという歌がたくさんありますが、いったいにこの手毬をどのようについていたのかなと思ってしまいます。
 また、彼の居住した五合庵の写真も2枚掲載されています。
 2間・2間くらいの建物で、閑静なたたずまいです。
 山の中にありますが、私のような人口の多いいところに住んでいても熊や鹿や猿や猪や狸がしょっちゅう出没するのに獣が怖くなかったのだろうかと思えます。
 ほかの写真は著者の中野孝次氏の写真や、お墓の写真ばかりが載っています。

 編集者が、中野孝次の生きかたについて、いかに良寛を理想として生き続けたかということを結果として伝える書になっています。


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第173回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/01/12(Mon)
 1月10日、第173回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 正月も明けて、口内の痛みで歯の治療を中断していた夫の歯茎から小さな骨のかけらが出てきてびっくりです。大方3ヶ月も原因不明の痛みに悩まされていたその原因がわかり、やっと痛みの解消治療に専念できるようになり、快方に向かい集中力が伴うようになったと夫が久々焼いてくれたケーキと、一昨年6月3日のブログに掲載していた「死なない蛸」のプリントをもって参加しました。
 風呂先生がヘレーン・ハンフ著桝井幹生訳『Q先生の遺産』という本をくださいました。表紙にQ先生のケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの中庭のある美しい本です。おもわずニッコリです。
 鉄森さんは、お願いしておいた浅見渓著『マルセル嬢誘拐』を持ってきてくださり、さらに2014年12月13日開催の日本英学史学会研究例会の資料をくださいました。ジョン万次郎で有名な中濱万次郎についての資料で興味しんしんです。そういえば先月いただいた資料、牧野陽子さんのプリントも読み終えていませんでした。楽しみが二つになりました。
 いつも、1・2分早めに始まるのがこの会のいいところです。“BILIEVE ME”のあと、各自今年の抱負を述べるようにいわれました。私は、抱負などいつも考えたことがないような気がするのですが、「福王寺登山を270回を越す」と「この会に無欠席する」ことを述べました。一年間、変わったこともなく元気で達成できるといいなと改めて思いました。
 ニュースおよび情報交換では、昭和2年松江市役所での講演の記録、元松江市長高橋節雄氏の「ヘルン先生遺愛の文机を圍りて」という資料の説明を中心に、これまで、小泉八雲の顕彰に労されたかたがたについてのお話を聞きました。風呂先生の、松江中学で、あるいは熊本の五高で、あるいは帝大で、早稲田で教えを受けられた方々のその得難い教えの感興を後々までも伝えようとされた尊いご意思の継承者としての気持ちがひしひしと伝わってきました。
 《読みたい本》では、中野孝次『良寛に会う旅』(春秋社 1997)が紹介されています。良寛については、ブログをくってみると、二度あったのであとに今一度これら二つの記事を載せて、当座はそれで「阿弥陀寺の比丘尼」への思いを深めたいとおもいます。
 「阿弥陀寺の比丘尼」の学習は、2回目で2章です。本を読んでいて、念入りに読む箇所とそうでないところがありますが、この章の内容は私にとっては軽く読みすぎてしまう箇所といえそうです。後になって、「えっ!そんなところがあったかしら」といいそうです。しかし、このように突きつけられると、なんだか霊に取り憑かれた巫女の狂ったさまを演じたおぞましい映画を見ているようです。「くちよせ」とか「とりっぱなし」というのだそうです。それでも、これらのことによって、悲しみから逃れられない寂しい境涯から、前向きに生きていく手段となるのなら、・・・。とりあえず夫や子供を失ったことがないのでなどとやはり軽く読んでしまいそうです。
 会の最後、五十嵐先生のClosing Speechでは、風呂先生の陰膳の説明を受けて、ご自分のお兄様が兵役に服されていたときお母様が陰膳とお水を毎回お供えされていて、復員されたきたお兄様が現地で喉の渇きを感じたことがなかったと言われたということをことを話してくださり、なんだか涙が出てしまいました。
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『土にかいた言葉』(2)
2015/01/09(Fri)
 山下多恵子編・解説 『土にかいた言葉』吉野せいアンソロジー のなかに は、「春」という11ページの作品もあります。
寒く厳しい冬を抜けて、貧しい開墾百姓の待ちわびた春の営みを描きます。開墾や農作業に出かけるとき、バンと名づけた赤い犬、一羽のオスと七羽のメスの鶏、一羽のオスと二羽のメスとのあひるが連なって歩くというのです。
 たんぱく質の栄養源はそれらの卵だけの生活です。ある日、どう数えても鶏のメスが1匹足りないと思っていたが、この界隈でもイタチに取られた話など聞くので、忙しい労働に明け暮れながら、そんなことかともあろうかと思っていました。
「おいおい、出てみろ」という夫の呼びかけに洗い物の手を止めて出てみると、
 《・・・・兎にも角にもまるで降って湧いたように小さな雑草の生え始めた土の上に、あのとさかの垂れためんどりと十一羽の黄色いひよこが晴々しくうごめいているではありませんか。・・・私は一握りの米をその目の前にそっと置きました。またたく間にたべつくしました。どんなに腹が空いていたのか。二十一日の間も私たちの目からかくれてどこで十一の生命を孵したのかが夢を見るようです。・・・・一人の子を生むのにさえ人間はおおぎょうにふるまいますが、一羽のこの地鶏は何もかもひとりでかくれて、飢えも疲れも眠気も忘れて長い三週間の努力をこっそり行ったのです。自然といいきれば実もふたもありませんが、こんなふうに誰に気づかれなくともひっそりと、然も見事な見事ないのちを生み出しているようなことを、私たちも何かで仕遂げることが出来たなら、春は、いいえ人間の春はもっと楽しく美しい強いものでいっぱいに充たされていくような気がするのです。》
 この文面で思い出すのがパールバックの『大地』です。野良仕事をしていて産気づき、ゆっくり産屋にと準備しておいた小屋に入り上からぶら下げた太い縄を握ってしゃがんで一人で子どもを産み落とし始末をして、子どもを寝せてまた野良仕事に出てゆくのです。おおかた半世紀前に読んだので、ほかのことはなに一つ覚えておりませんが、私もだれひとり人に知られることないこのようなお産のありようを望んでいたことは忘れていません。子どもは春に産んで夏に向けて育てるのだとも思っていたようにもおもいます。
 このほか、「いもどろぼう」・「飛ばされた紙幣」「老いて」「私は百姓女」「青い微風の中に」などがあります。71歳で夫である詩人の混沌歿。そのあと、草野心平に半ば命令されて書いたものに、串田孫一によって発表の場が与えられ、これらの作品が残るのです。
 最後にまいにちあきもせず裏山に上る私が気に入りの「青い微風の中に」からの抜粋です。
《いつも考えることだが、植物は季節をよく知っているのが恐ろしい。自然に順応した素直さ。それは彼らが各々のいきることに必死で正直なのだ。春には慰めを、夏には勇気を、秋には悔恨を、冬には諦視を、焦り惑うている人間の生きざまに何か暗示を与えてくれているような、季旬に添う葉っぱの色の移り変わりにも、音のない乱打の警鐘が聞こえるようだ。》
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