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傲慢不遜毒吐き批評 婆雨まう

作者:道得風光
批評
婆雨まうコレクション読了
言ってしまえば、無料ならば……という点のみ得をした以外、胸打つものも感動も何もなく寧ろ呆れ、こんなものが……と思った。昔、小生は、今時の作家どもは◯◯をも売ると言って燃えたことがあるが、悪いけれど◯◯と言っても……。はっきり言って、お遊びで書いてる感しかない。三人称と一人称のチグハグ、誤字脱字、掴みようのないストーリーもどきのもの。そして、自意識過剰と思われるような広告文。もうよしてくれ、こういうのが日本文学をぶち壊しているのである。趣味で、なろうやブログに書いているのなら目はつぶる。言うなれば、そういうところに書く連中は全員、ではなけれども、吐き捨てるように、自己満足のために書いてるからだ。しかし、これは腐っても(大いに腐っていても)売り物である。売り物がこれでは困るのである。まだ、(まだであるけれど)なろうの作品の方が木戸銭を取れる価値があるのではないだろうか。困り者以外の何者でもない。
さて、「皆殺しの歌」である。
叩きたいところはたくさんあるけれども、まず救いよう?は一応あって、まあ、発想だけはそれなりにあるだろうから、そこをつっつけばユーモア作家程度にはなれそうなもんではあるが。しかし、この作家はシリアスになればなるほど、その語彙力の表現力のなさが露見をし、もう手のつけようがない、昔、永井龍男が池田満寿夫の作品を(稚拙な義太夫)と言ったが、これなんかそうなのではないだろうか。一人称と三人称が意図的に組み替えられているのならまだいいけれど、どう見ても、稚拙な義太夫そのものである。チャンチャカチャンチャカチャカチャカチャカチャカと綺麗な三味線の音色は(すなわち小説の発想は)あるのに、肝心の大夫がどうしようもない音痴かつ悪声(すなわち文章力表現力がない)なのである。そして、もう一つ義太夫、いや義太夫を馬鹿にすることになるが、何を言いたいのかちっともわからない。義太夫はそういうやり方だし、今のようになったのは江戸時代だから、江戸言葉で通じないのは仕方ないといえど、こいつばかりは、平成の作品であろう、それがもう時代錯誤なのである。三味線の伴奏に置いてけぼりにされて、三味線ばかり無駄に響いているのだ。多分、書きたいのはSFチックな話及び不気味な世界に違いないけども、もうわからない。一章二章……全然辻褄が合っていない。あってるのは登場人物のみで、あとはなんとも都合よく合わされているだけ。大体が無駄、なのである。昔、ある義太夫の人に、義太夫は、最初の三味線の一押しが大切でそれを失敗すると、客を義太夫の世界に入れられないで大夫及び人形遣いに大きな迷惑をかける、というような話を聞いたことがあるけれど、これは最初に失敗してるから、もう後が、それがそこそこまとまっていてもダメなのだ。世界に入りきれない。最初から失敗した作品は失敗作なのだ。もうこれ以上語ることはない。中野重治が最初の一文、すなわち読者を引き込むための一文が浮かばずに缶詰生活が過ぎた、という苦労談があるけれど、それくらい最初の出だしというのは難しいもので、それを一人称三人称を間違えた上、チグハグになってるなんて、これ以上何を求めよというのだ。無理な話である。

トンビー婆さんは、失敗作ではないが、決していいと思わない。また人物描写や登場の仕方が下手くそ、である。小池さんのところがいきなりすぎて、豆鉄砲なり。また、トンビー婆さん一族も、身も蓋もなかりけりである。もっと、自然体になれないものか、と思う。これじゃあ、ダメだ。三流アニメ以下である。犬と猿という仲のくせにライバルとは……英語のライバルは確かに敵対、の意を持つが、これは言葉違う風に酌み取られるだらう。間違ってはいないが、犬猿の仲で押し通したほうがよかった。他にも不備はあるが、いくら突っついても、アンチができた方がいいんです!(どやっ)とかいう人には馬の耳に念仏、豚に真珠、馬鹿な作家にありがたい経文という類なので端折る。しかし、この作品は、完全に突き詰め、トンビー婆さんのみに主点を置いて滑稽ながらも女の一生。性根ひねた理由みたいなことを書けば、それなりには面白いかもしれないが。しかし、趣味悪で独りよがりな話で、もうこればかり閉口する。よく売る気になった。その信念だけは本気で褒めたいと思う。◯◯をも売る恥さらしさがない。文学を金儲けのタネにしてる。子供の身売りである。単にいじめや性的なものを書けばいいってもんじゃないのだ。こういう不逞の輩が増えれば増えるほど批評家はお手上げ、餓死する羽目となる。はっきり言って一から書き直せ、と言ってやりたい。

数作飛ばす。

ワナビでコロッケを買う。
悪く言えば、この手の作品は一切の信用を寄せない。丸谷才一や井上ひさしも書いてるが、作家なんてやり方次第であり、我々が金メダルを取った選手の練習プランを真似しても金メダルを取れないように、丸谷才一や井上ひさしの真似しても書けないのである。それを偉そうに語る。少しは業績やまともな論文にしたら…と思ったけれども。日本文学を踏まえた上で、さて小説とは?と見るならば大いに認めますが、これでは自己価値の押し付けである。描写しろ、と俳句ではない。饒舌体があり、会話文的な作品があるから面白いところもあり、僕、私の一人称なんかは全てではないが、語りである。平林たい子や林芙美子が「我々がこう喋ってるように書けばいい」と何かで書いていたが、作品は語るのも大切なのである。語りの要素なくして物語ではない。描写ならば写生文で十分である。そして、テーマというが、これは何度も書いたから繰り返さぬが、稚拙な義太夫しか語れないのが何がテーマだろうか。一冊読んでファンを失う、と書いてあるが、これこそこの作者のことであらう。もうこりごりだ。時間の無駄である。まず、他人に教えるより自己を振り返るべし。これで文学とか言うのなら大笑いである。この本で一番思ったのは作者の自虐なのである。作者は偉そうに言っているが、これこそ自虐の最骨頂。もし、これを意図的にやっているのなら内田百閒来の天才である。自分はダメダメのくせして、やってることは正しい、私は素晴らしいと思い込みをやっている、と。もう賞賛である。これだけの自虐を書けるのならば他の本は参考程度にしかいらない。お笑い草にはもってこいである。

最後になるが、己で奇才というのはいかなるものが、奇才とか思ってるのならオメデタイ話である。文学を、いや創作を舐め腐っている。結局はこの作者宣伝だけはうまく、あとは、まさに昔言ったように、◯◯をも売るのである。宣伝はうまくとも不味いものは不味い。海塩に岩塩を混ぜても所詮は塩なのだ。まず根本に文章を書くとは何か、売文とは何か、ということをわからない限り、この作者は永遠に伸びることはないだろう。むしろ、慎むべき、卑下すべき存在にしか思えない。最初は誰だって大根役者だが、その大根役者で溺れていてどうするんだと、名役者にならずして、これで骨を埋めるのか、情けない話である。こういうのを不逞の輩といい、日本文学や創作を大きく貶める守銭奴的な輩というべきだろうか。
小生は本当はこの作者の作品を黙殺したいし、ゴミ箱に直行させるだろう。しかし、あまりにもひどいため、これを書くことにした。作者よ。ありがたいと思いたまえ。作者の説くアンチ様なのだから。
後は作者次第。

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