朝鮮人だけが日本軍慰安婦として連れていかれたわけではない。朝鮮人の少女が最も多かったが、日本の遊郭で働いていた女性たちもたまにいた。毎日新聞の記者、千田夏光(1924-2000)は1963年、第2次大戦当時の写真記者たちが撮影した2万枚以上の未発表写真を整理していたところ、気になる写真を見つけた。中国江蘇省徐州戦闘の際、着物の裾を上げて河を渡る2人の女性の写真だった。兵士しかいないはずのこの場になぜ女性がいたのか、千田は疑問に思った。すると中国で従軍した経験のあるベテランの写真記者が「これは従軍慰安婦だ」と説明してくれた。
長い取材が始まった。9年後に千田は「慶子」という名の日本人従軍慰安婦の証言を聞き取り、これを本にまとめた。後にこの問題が外交の懸案になることなど、当時は誰も予想していなかった時代だ。その後、千田は慶子が朝鮮人の少女たちと共に輸送船に乗り、上海で船を降りる1937年12月の状況を詳しく書いた。この船には小銃の弾丸5万発、砲弾800発、馬170匹も積まれていた。「軍属」と書かれた腕章を着けた業者が「大金を稼がせてやる」と言って慶子や少女たちを集めた。慶子は自分が何をしに来たのか理解していたが、朝鮮人少女たちは分からないようだった。誰もが貧しかった。少女たちは何かを恐れた顔で「軍人さんたちの食事を準備し、洗濯だけしていればいいのでしょうか」と尋ねた。
慰安所で最初の兵士を迎えた時、慶子は隣の部屋から朝鮮人少女が悲鳴を上げるのを聞いた。その少女は食事の時間になっても出てこられなかった。慶子が他の朝鮮人少女と共に様子を見に行ってみると、下着を着直そうともせず血を流したまま横になっていた。涙はすでに乾き切っていた。