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インターステラーは現代の技術で作った2001年宇宙の旅である

この映画を見て最初に感じたのは現代に蘇った「2001年宇宙の旅」だった。

監督のクリストファー・ノーランはおそらくスタンリー・キューブリックの名作「2001年宇宙の旅」を自分の力で現代に復活させたかったのだと感じた。

人類が次のステージへと進化するためのステップがテーマになっているだけでなく、2001年では「HAL」という人工知能を持ったコンピューターが大きな役割を果たしたが、今作の「インターステラー」においても、もう一つのモチーフである「モノリス」を想起させるような外観を持った人工知能搭載のロボットが活躍する。
両作とも人間の更なる進化への手助けを人工知能が担っている。(HAL9000は反乱を起こしたけどね)

更にいうなら5次元空間においての印象に残るあのシーンは、2001年の白い部屋でのシーンを彷彿とさせるわけで、明らかにノーラン監督はそういう作りにしているはずだ。

2001年では木星を目的地にしていたけれど今作は土星になっている。
アーサー・C・クラークが後に描いた小説版では土星が舞台になっているのでそれにならったのだと思う。

こういった類似点は上げていったらキリがない。

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インターステラーは2001年を超えられたのたのか?

なにか文句ばかり言っているようだが、純粋にSF映画としてみたら本当に良く出来ている。
映像も素晴らしいし脚本も練られていて、張り巡らされた伏線が回収されていくところは心地よい。
役者の演技も文句のない出来だし、ストーリーに破綻している部分は見つけられなかった。

おそらく今後10年は名作SFとして語り継がれる映画になるのは間違いないけれど、じゃあ2001年を超えたのか?と言われると難しい。
おそらく2001年は今後も語られ続ける映画だが「インターステラー」は30年後に語られている映画であるとは言いづらい。

それはなぜかというならば、2001年が創り出した世界観と衝撃を超えられていなからだ。
もちろん近年作られた他のSF映画と比較したら、珠玉の出来と言って差し支えない。
似たような映画は他にもあったけれど、ここまで破綻なくまとめたという意味ではインターステラーは本当に良く出来ている。
ある意味投げっぱなしの作りである2001年よりも、きちっと閉めた今作の方が親切だと評価することに異論は無い。

今作はSF映画であると同時に父娘の物語でもある。
特にラストシーン間際に子供時代の娘に再開できるシーンは涙を禁じ得なかった。
そういうハートフル映画としての視点から見ると、評価はがらりと変わる。

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今作を2001年宇宙の旅に寄せたことによる弊害

2001年宇宙の旅を見たのは30年ほど前の小学生の頃だったと思う。
1968年公開の映画だから、その時点でもうすでに公開から10年以上経っていたことになる。
それでも初めて見た時の衝撃というのは今でも憶えている。

ストーリーのほうは、てんで理解できなかったけれど、その特撮技術やデザイン性。創りだされた世界観は圧倒された。
映画を見てこれほどまでに衝撃を受けたのは後にも先にも2001年しかない。
大人になってレンタルビデオ店で自由に借りることができるようになった際に、いの一番に借りた作品は「2001年宇宙の旅」だった。
もう一度しっかり見たいという気持ちをずっと引きずっていたからだ。

冷静にインターステラーと2001年を見比べてみれば、インターステラーのほうが優っている部分は多いことだと思う。
けれど腰が抜けんほどに衝撃を受けた2001年を超えられる映画は今後も出てこないと思う。
繰り返しになるけれど、インターステラーは非常によく出来た映画だ。
けれどノーラン監督がここまで2001年に寄せてきた結果、両作を比べざるを得なかった。
そうなるとこのような評価になる。
それほどまでに2001年という作品は、映画界にとって大きな転換点だったということだ。

ハリウッド映画にありがちな宗教臭の強さ

本作があまりにも宗教臭いところが気になった。
これはもうハリウッドの宿命と言ってもいいけれど、とにかくキリスト教の影響がいたるところに見て取れる。
これは2001年にもあったことだが、インターステラーの宗教臭さはかなりのレベルだ。
もちろん気にしなければ問題無いのだが、一度気になると次々にこれもあれも宗教がモチーフか……とうんざりする。

そもそもの「ラザロ計画」がズバリそのとおりだし、人類の脱出計画はノアの箱舟がモチーフになっている。
5次元に導いてくれた「存在」のことを映画の中では主人公が自分自身だと言っているけれど、それはひとつの受け取り方でしかなくて、それよりも人智を超えた存在=神(GOD)をイメージするほうが自然だろうと思う。
この映画の根底にあるテーマが人類の救済なのだが、それこそ最後の審判が下されて大いなる存在によって救済されるというキリスト的ストーリーそのものであるから仕方ないといえば仕方ない。

どうしてこういうキリスト教的臭いが気になるかというと、人類救済と謳っておきながらその対象はキリスト教徒だけなんじゃないの?と勘ぐりたくなるからだ。
他にも宗教的モチーフはあるけれどきりがないのでこのへんでやめる。

ハリウッド映画はその構造上、どうしてもアメリカ的宗教観が作品に強く反映される。
どうしてそうなるかという話は、またいずれ別の記事で述べたいと思う。

最後に

本稿においては否定的なことばかり書いてきたが、この映画単独で評価するならば傑作の部類に入るのは間違いない。
どうしても2001年宇宙の旅と比較せざるを得ない作品だったから、こういった書き方になってしまったが、特に2001年を知らない若い世代の方ならば、間違いなく楽しめる良作だと断言してもいい。

むしろ今作を見たあとに初めて2001年を見るような場合、拍子抜けするかもしれない。
なんでこんな古臭くて意味のわからん作品が、オールタイム・ベストなどで毎回上位に食い込むのか不思議に思われるかもしれない。
やはり公開当時の時代背景などを勘案しないとその凄さは理解しにくいだろうと思う。
興味を持っていただけたのなら、ぜひインターステラーと合わせて2001年も視聴していただけたら幸いです。