もうすぐ大型連休。
地方の魅力に目が行きますね。
は〜お客さん来ないね。
寂しいもんだねぇ。
店主を任されて3週間ちっとも売り上げが伸びない。
あれ?何かこのお店って落語をやってんの?やってないですよ。
ちょっと!ダイアモンドユカイさんに藻谷浩介さん。
いや〜お待ちしておりましたよいらっしゃい。
あれ?話し声したから誰かお客さんいるのかと…。
よく来て下さいました。
早速ですがつきだしをねお出ししてもいいですか?何も頼んでないんだけど。
つきだしにしちゃえらい量がありますね。
これつきだし?これね「煮ぼうとう」といって埼玉・深谷の名物なんですよ。
深谷って事は深谷ねぎですか?そうですそうです。
このすごく大きな深谷ねぎに…。
いただきます。
どうぞ。
いろいろな野菜が入っておりまして。
ちょっと頂きますか。
いかがですか?それお店の売りにしようと思ってたんですけど。
これが深谷の特色か。
そうなんですよ。
この幅広の麺ですよ。
ほうとうね。
売りにならないですかね?これ。
どうだろうね。
ちゃんと店主が勉強してやっぱり何で深谷なのかって事ちゃんと説明できれば名物になるんですけどね。
今日お出ししましたこの煮ぼうとうですね実はある歴史上の人物の大好物なんですよ。
今日はその人物から地域おこしのための知恵をたっぷりと堪能して頂こうと思います。
江戸時代が終わり迎えた明治の世。
日本は近代化へと走り始めます。
西洋の技術も制度も整わないいわばゼロからのスタート。
その時代に民間の立場で500もの事業に関わったのが渋沢栄一。
日本の資本主義の父と言われています。
渋沢のまなざしは文明開化が進む都市部だけでなく発展が十分ではない地方にも注がれていました。
渋沢は全国各地で銀行や鉄道の設立を進め更に繊維製紙食品など数々の産業を興していきました。
そこにはどんな信念や地域活性化の知恵があるのでしょうか。
その渋沢の知恵を読み解くのが…日本全国全ての市町村に足を運び町おこしの実態を調査してきました。
藻谷さんは今地域が生き残る方法として「里山資本主義」を提言しています。
水や食料燃料など人が生きる資本が里山にはそろっているといいます。
「だけどお客さん相手にしてる人だけが気が付くんです」。
地域にある資本に気付き誇りを持ってそれを生かしていく事が地元の自立につながっていくと藻谷さんは考えています。
今宵地域振興の伝道師藻谷さんは渋沢の知恵をどう読み解くのか?今日は渋沢栄一の知恵を味わって頂きます。
テーマはですねこちらです。
ドン!「お宝発掘助けます」という事なんですが地域の発展にも大きく貢献した渋沢なんですけれど。
ユカイさんは現在栃木県佐野市にお住まいで「とちぎ未来大使」なるものをされていると。
「佐野ブランド大使」っていうのもやってますけど。
佐野に行くとね三大「たいし」って言われてますから。
厄除け大師ありますねそういえばね。
たまたまなんですけどね。
たまたま佐野に住む事になって。
佐野に移り住んで自分でよかったなとかここは…。
例えばですよ東京だったらいろんな選択肢が多いじゃないですか。
でも佐野だったらシンプルなんですよ。
そういうシンプルなところが逆に何も考えないで住みやすいなとか。
多分地元の人からね言われませんでした?え!?ダイアモンドユカイさんそんな有名な人があなた佐野に住むってね。
こんな何もない所に住んで何してるんですかとか言われたりしません?地元の人に。
割とね住んでくれてありがとうって言ってみんな優しいんですよ。
いいですよね。
藻谷さんが全国全てを歩いてる。
ずばりお宝発掘のコツってどんな事でしょうか?まさにね…「何もない」と言わない。
東京の人ですらそうですよね。
…と思ったりするじゃないですか。
「何もない」って言わない。
「何があるんだろう?」って。
これがスタートラインですね。
大事な言葉がもう既にたくさん出たような気がしますけれども。
数多くの事業に携わった渋沢栄一ほんとに地域の発展に大きく貢献したんですね。
その理念がどこから生まれたのかというのをまずその経緯からひもといていこうと思います。
渋沢が生まれたのは江戸の後期場所は現在の埼玉県深谷市血洗島です。
家は地元でも一二を争う豪農でした。
藍を農民から買い上げ染め物に使う藍玉に加工して売る商売を14歳から手伝っていました。
そのころから既に地域を活性化させる能力があったようです。
これは渋沢が作った藍の生産者たちの番付表。
質の良い藍を作った農家を大関から前頭に分け評価しています。
青年期の時から村の人みんなをまとめてそしてみんなのやる気をモチベーションを上げてですね村全体の生産力を高めてそしてみんなが豊かになるという事で後の渋沢の経営力の手腕につながっていると思います。
21歳の時に渋沢は江戸に遊学。
やがて徳川の一橋家にその経済的手腕が認められパリで開かれる万国博覧会の使節団に抜擢されました。
この時の経験が渋沢の人生に絶大な影響を与える事になります。
パリに向かう途中渋沢は建設中のスエズ運河を見学しました。
アジアとヨーロッパを結ぶ途方もないプロジェクト。
しかもそれが国家ではなく民間がつくった会社という組織で行われている事に渋沢は驚がくします。
更にパリではさまざまな会社が産業をけん引し社会を発展させている姿を目の当たりにしました。
一体発展の源は何なのか?渋沢はそれが大衆からお金を集めて事業を行う銀行や株式会社の存在だと教えられるのです。
多くの人が参加する仕組みを作れば日本が変わるのではないか?志を遂げようと帰国後渋沢は大蔵省に入ります。
しかし軍備拡張を主張する政府と対立しやがて辞職。
このあと渋沢は民間の立場から新しい社会の実現を目指します。
そのキーワードが「合本主義」。
国民が広く資金を出し合い国の発展を担うというものです。
渋沢はまず銀行の設立に着手しました。
出資者の募集に際し銀行の意義をこう訴えています。
明治6年渋沢は第一国立銀行の開業にこぎ着けました。
「国立」とは国の法律にのっとったという意味で日本初の民間銀行でした。
多くの国民から資本を集め事業を興す。
この資本の循環が行われれば国全体が発展すると渋沢は考えたのです。
当時の明治ってまだ…戦争とかいろいろやってた時代ですよね内輪でね。
そんな中で初めて銀行をつくろうっていうところに目を向けたっていうのはまあちょっと…。
すごい考えだなっていうか。
藍玉の生産者の番付表を自分で作った。
あれ藻谷さんどのようにご覧になりました?10代の時に考えてるんですよね。
年上の作ってる人たちにやる気出させようっていう事でこの人すごいよって。
これとんでもない子供ですよね。
でも大人としてはやっぱり載ればちょっとやる気出ますよね。
自分は名前のとこさりげなく真ん中の行司のとこの真ん中に。
10代なのに「澁澤榮一郎」ってねさりげなく同じ大きさで書いて。
(鹿島)こんにちは。
いらっしゃい。
鹿島さんどうも。
ちょうどいいとこにいらっしゃった。
常連の方ですか?そうなんですよ。
鹿島茂さん。
実は渋沢栄一の評伝も書かれていらっしゃるんですよね。
早速ですけども日本において渋沢の残した一番の功績っていうのは何だというふうに思いますか?渋沢の功績の最大のものは…売れる商品…「信用」だと。
例えばここにお金がある人いますね。
こっちにアイデアあるけどお金全くない人いますね。
この2つが結び付くといろんな事ができるわけですがお互いに信用できないわけですよ。
金を貸す人間も相手ほんとかって感じでしょ。
だからそこのところに間に入って…どっちに対しても信用を築いてその信用でお金とアイデアを回すとこういうアイデアですね。
なるほど〜。
確かに行司みたいな人ですね。
合本主義っていう考え方を当時もう既に持っていた事にも驚いたんですけれども。
例えば1,000人の貧しい人がいる。
みんな1万円だけは持ってる。
資本を合わせる。
そしてそのかわりに…最初からじゃあ草の根のお金を集めてそれを還元するという事を考えてた。
それがねどうしてそういうね。
それ不思議でしょ。
どうしてそういうふうになったのかというと彼が原体験があるんですね。
深谷の農民だった時に代官がいてですね自分ところのあれが嫁にいくからお前たち金をよこせって。
上納金を取ったわけですね。
「お前んとこ5百両」って言われてね。
「私ちょっと父親の代理なんで即答できません」と言ったらね代官が怒ってね生意気だっていうのでね。
何で俺はあんなバカな代官にねへいこらしなきゃいけないんだ。
これ世の中間違ってる。
身分制度間違ってる。
だから普通だったら民衆集めて革命を起こそうというふうになるんだけども。
たまたま行ったパリでの経験が株式会社というものも一つの革命原理になるんだっていうそう考えた。
だから彼にとっての株式会社が革命原理なんですよ。
今の話は地域と中央でいいますと日本で今でもあるんですよ。
まず東京を豊かにしていってそこに人が集まればいいんで落ちていく地域はほっておけばいいんだという考え常にあるわけです。
逆に地域は貧乏で弱いですから誰か東京の人お金下さいと言って尻尾振るってのも常にありますね。
渋沢栄一の考えはそうではなくて…草の根の下の方にいる人が頑張れば頑張るほど全体的によくなるぜっていうそういう考え。
今の地域振興の世界でも是非みんな考え直して学ぶべき考えの基本だと思うんですよね。
地方の言ってみればお宝をどうやって発掘していったのか。
その知恵をこのあとは見て頂こうと思います。
こちらはですねなかなか苦労しましたがなかなかいいお味となっております。
西洋に追いつこうと必死な日本。
明治19年にはヨーロッパのような壮大な官庁街を造る計画が立てられます。
良質のレンガが大量に必要になりますが日本のどこにも作れるところはありません。
その時政府が白羽の矢を立てたのが渋沢でした。
「作った製品は買い取るから近代的なレンガ工場を造ってほしい」。
渋沢はふるさと…その一帯は江戸時代から瓦作りが盛んな土地。
豊かな粘土質の土壌があったのです。
一方その土地には水田が少なく農民は畑を耕し暮らしていました。
渋沢はレンガの土を無償でもらい受ける代わりに畑を水田にする事を勧め用水路の建設を援助します。
米が出来れば生活が豊かになるとの思いからでした。
今も深谷にはレンガ用の土を取って土地が大きく下がった水田が残っています。
渋沢は工場を造るにあたって会社も地域も潤う道を模索したのです。
明治21年株主を募り資本金を集めた渋沢は最新の設備を備えた日本初の工場を操業させました。
この中にレンガを詰めて焼いていました。
当時の製造方法が分かる窯が今でも残されています。
窯はドーナツ状のトンネルになっていて熱が循環する仕組みになっています。
当初の見込みではひとつきに150万個ものレンガを生産する予定でした。
しかし操業してみると事業の存続さえ危ぶまれるさまざまな困難に見舞われるのです。
レンガは焼く前に乾かす必要がありました。
そのためにドイツ式の乾燥室を造ったのに日本は湿気が多いためカビが発生。
更には近くの川が氾濫して工場が浸水し操業が一時停止。
そして極め付きは官庁街計画の時に取りつけたレンガを政府が買い上げるという約束が取り消されてしまったのです。
最大の取り引き相手がいなくなった事で株主たちが会社の解散を要求する事態となりました。
しかしレンガは地域や社会の未来を支える原石のはず。
渋沢は諦めず株主の説得に当たります。
この時は渋沢の熱意で何とか解散を思いとどまらせる事に成功しました。
その後注文が来るようになると新たな問題が発生します。
それは東京方面への輸送でした。
レンガは利根川を船を使って東京へ運んでいました。
しかしそれでは大量に運べず納期が遅れてしまうのです。
渋沢は深谷と工場の間に専用鉄道を造り解決しようとします。
ですがそれには新たな資金調達が必要でした。
その額現在の金額でおよそ3億円。
渋沢は会社の借金社債で対応しようとします。
しかし再び株主が猛反発。
開業から5年余りいまだに配当金も出ないのにこれ以上出資が必要なら持ち株を放棄するという株主まで現れました。
ここで撤退すればレンガという宝が社会に行き渡る道が細くなってしまう。
選択を迫られた渋沢は…言ってみれば自分の銀行を担保にするというリスクの高い決断でした。
しかしここで投げ出さなかった事が功を奏します。
専用鉄道が開業したのは明治28年7月。
ちょうど日清戦争が終わり日本に建築ブームが到来。
レンガの需要が一気に増え値段は開業当初の6倍に跳ね上がりました。
ついには初めて株主に利益配当を出すに至ったのです。
渋沢の工場で作ったレンガの建物は今も全国で目にする事ができます。
去年開業100年を迎えた東京駅。
建物を支える構造用レンガとして使われています。
そして群馬県の碓氷峠で行き交う列車を支えた…渋沢が深谷に作ったレンガ会社は明治から大正にかけて地方から日本の近代化を支える重要な存在となったのです。
これだけ我慢して我慢に我慢を重ねて未来を見据えていたっていうか。
渋沢栄一っていう人のね人間のパワーを見せつけられましたね。
フランス行きましたね。
で日本と違ってじゃなくて日本もいずれここになるだろうっていう事を見てきてるわけですね。
だから未来を見て現在を見てるからあとねもう少し粘れば絶対よくなるっていう事は分かるわけですね。
そこから逆算して今必要な会社をつくっておこうという事で。
例えば日本人はみんな当時和服着てますよね。
いずれ洋装になるだろう。
それで靴も履くだろう。
だから靴の会社つくって。
それから服のための大阪紡績という繊維会社つくって。
だから僕は「グランドデザイナー」っていう言葉を使ったんですけどね。
日本の社会をね資本主義社会のはじめからいろいろなプランそれもかなり具体的なプランですねそれを積み重ねていって日本の未来像を予想してという事ですね。
藻谷さんねその事業者と地元の人たちが将来的に栄えていくために工夫だったり知恵がいろいろ必要になると思うんですが。
渋沢栄一の時代は日本の人口が爆発的に増えていく時代であり何もないところから同時に西洋に追いついていかなければいけない時代でしたね。
今はもう逆でして日本は世界に先駆けて人口が減っていく。
どっかの段階で減るのが止まって年寄りは非常に多いのだけどもみんなが安定して暮らしてる社会をつくらなくてはいけない。
その時にお手本はどこにあるか。
日本の中で他の日本全体より更に30年ぐらい先にいって高齢化してる地域はいっぱいありましてね。
いわゆる過疎地にね。
例えば島根県に邑南町という合併して出来た町があるんです。
既に住民の一番人数多いのは85歳以上の人。
まあちょうど日本の25年後日本中がそうなるんですけど。
ところがそこはいろんな努力をした結果2〜3年前から引っ越して入ってくる若い人の方が出ていく人より多くなりましてね。
これは「人口転入超過」っていうんですけど。
高度成長期以来初めて出ていく人より入ってくる人が多くなってきた。
それはどうして?いやあの地元の農業だとか特産品振興だとかいろんな集客交流だとか。
ご多分に漏れず病院がなかなか経営が成り立たないのをですねこう一生懸命人を入れ替えて工夫して黒字にしてる。
というふうに一つ一つ…もう一つはね子育てをしやすいように子供をたくさん欲しい人が産んじゃっても生活に困るっていう事がないように。
子育て支援をしてる。
ええ。
たくさん産んだ人はその分だけ支援が受けられるというような仕組みを一生懸命優先的に作る。
他のところに回すお金を削ってですね。
すごいですよ1.3か1.4ですから。
もう日本と思えない。
東京がまだ1.1だっていう時にですね。
同じ事を果たして30年後の東京はできるだろうか。
まさにでもそういうところから逆に小粒かもしれないけど現代の渋沢栄一みたいな人はたくさんたくさん出てくるんじゃないかなと僕は思うんですね。
いや〜もう全て聞いた話がね目からうろこのようでね。
そういう地域を見てね未来が見えるっていうのはね今まで考えてもいなかった事ですね。
地方の産業育成を進めていこうとする渋沢。
そのために重要なのはやはり銀行の存在でした。
渋沢は全国各地の銀行設立に手を貸していきます。
渋沢のもとには第一国立銀行を開業したその手腕を期待して地方から協力の要請が相次いでいたのです。
渋沢が地方の中でも注目していた一つが新潟です。
ロシアや朝鮮半島とも結ばれる港は日本海側の物流の拠点となる可能性を秘めていました。
もう一つが石油です。
古くは「日本書紀」に朝廷に献上した記録が残る石油は明治はじめには長岡などで採掘が試みられていました。
そんな折明治9年ごろ一人の人物が渋沢を訪ねました。
越後長岡の商人岸宇吉です。
岸は長岡に銀行をつくりたいと考えていました。
長岡は戊辰戦争の戦火で町が焼け野原となり甚大な被害を被りました。
町の中心人物の一人である岸は銀行をつくる事で復興の足掛かりにしたいと知恵を借りに来たのです。
渋沢は岸の人柄をこう語っています。
「岸君は至って正直であって且つ自己本位の人にあらずして…」。
この人物と組めば長岡が発展するのではないか。
渋沢は岸を援助する事を決意します。
それに合う人間に対しては…岸を見込んだ渋沢は積極的に支援していきます。
まずは渋沢の意をくんだ大蔵省の官僚が長岡を訪問。
銀行の制度や業務を教えていきました。
これは大蔵省との人脈を築く事にもつながりました。
更には長岡から人を呼んで第一国立銀行で銀行業務に必要な複雑な簿記の習得にも当たらせていきます。
およそ2年の交流の末…岸は副支配人となりました。
第六十九国立銀行は現在は北越銀行と名を変え新潟の地域経済を支え続けています。
銀行設立後も岸は社会全体の利益を考えるという渋沢の経営理念を胸に産業の育成に務めます。
岸は新潟の石油資源の開発に乗り出し日本石油の設立発起人となりました。
そして北越鉄道現在の信越本線の敷設にも関わります。
鉄道を開通させる事で新潟の石油産業や機械産業を大きく発展させようとしたのです。
岸が設立に関わった日本石油はその後合併を繰り返し現在では石油元売りの国内最大手の企業にまで発展しました。
どこそこの渋沢といういわばそれがキーパーソンとなって…地域の人間が主体となって事業を興し生まれた利益を地域に還元。
それがまた次の発展につながる。
こうした渋沢マインドを理解したパートナーたちと二人三脚をしながら渋沢は地域振興を進めていったのです。
こちらは渋沢数多くの銀行の設立・支援に関わってきてるんですけれども現在も残っているものをこのようにまとめてみました。
北は青森から南は九州熊本長崎までありますが鹿島さんこれだけ各地にビジネスパートナーがいたというふうに言えるんでしょうか?一つはね…でまあ当時は教育受けたのはほとんど武士階級でねこれが全員失職しちゃったわけですからね人材は豊富だったんですよ。
渋沢はそういう人を有望な人を見ると留学資金与えて行かせて。
だから何か産業やろうとする時にもそういう人材ネットワークとかねそういうのは結構活用してましたね。
パートナーでいうと藻谷さんにもそういったパートナー岸みたいな人もしくはミニ藻谷さんみたいな方という…。
私は別に地域振興といってもいろんなとこにいる人を元気づけるだけの仕事なのでやるのは向こうが主役で。
鍋料理で言うととんがらしの役割なので入れなくてもいいしそればっかりじゃ食えないし。
だからとんがらしも元気づけるために入ってるわけですよね。
それで自分のパートナーとしては……という事をすごく意識してますね。
辞めそうもない?才能よりも我慢というか…。
何かそう我慢というか根気というか根性というか本人の意志というんですか思いみたいなものがすごく重要だと思う。
そこのとこがね特に渋沢は…例えばアイデアがあるとか口がうまいとかそういう事じゃないんですね。
要するにこれは例えば極端な話ですけどもギャング映画なんかでもこいつは信用できるかとかね悪事をやるのでさえも信用って必要なんですよ。
腹が据わってるかみたいな。
そう。
裏切らないかとかね。
さっきの岸さんの写真見てたら銀行家というより何かあれは武士の顔ですよね。
ちょんまげのない武士。
ちょんまげのない武士みたいな顔でしたよね。
主人公ゆかりの地からとっておきのネタを紹介する…
いや〜りりしい表情ですね。
かつて渋沢栄一の邸宅がありました東京・北区王子の飛鳥山に来ました。
空襲で母屋などは焼けてしまったんですがまだその一部が残っているという事で早速行ってみましょう。
こちらは迎賓館として使われた晩香廬という建物。
77歳の喜寿のお祝いに建てられました
お〜落ち着いた雰囲気ですね。
そうですね。
こちらが晩香廬の談話室といいましてお客様を招いてここで小休止をしたりお茶を飲んだりというふうに使われた部屋なんですね。
土壁と萩の小枝を集めた腰板は数寄屋造り。
そして耐熱レンガを使った暖炉は洋風の造り
和洋折衷のスタイルです
これはインドの詩人タゴールが晩香廬を訪れた時の映像です。
70歳を迎えた渋沢は会社の役職の大半を辞めて民間外交や社会福祉事業に力を尽くしました
晩年の渋沢はどんな思想を持っていたのか。
渋沢史料館を訪ねました
まずは渋沢栄一を象徴するという一枚の絵を見せてもらいました
実は渋沢栄一が70古希を迎えた時に渋沢栄一のそれまでの事跡を絵にしてもらいたいという事で有名な洋画家小山正太郎に頼んで描いてもらった絵なんですね。
刀は武士道シルクハットは紳士道。
武士の魂を持った渋沢の姿を表しています。
そろばんは実業家として歩んできた事。
そして「論語」は渋沢がその倫理観を大切に生きてきた事を意味しています。
渋沢は「論語」の精神を持ちながら経済活動を続ける重要性を説いていました。
この絵はそれを表現しているのです
大正5年76歳の時に渋沢は若者に処世術などを説いた本を著します。
タイトルは「論語と算盤」。
「論語」を学んでいた渋沢はこの本の中で「論語」に独自の解釈をしています
それまでの多くの「論語」研究をする学者たちの考えというのはいわゆる商売をする事商う事商売をする人を非常に卑しいというふうに見ていたんですね。
ところが渋沢栄一は「論語」をくまなく読んでいく中で孔子は一切そういう事は言っていないと。
むしろ……という事を説いている。
ただしその経済活動を進める際に道義感……という事をこの中で述べてますね。
渋沢は倫理観を持った経済活動の大切さを「道徳経済合一説」と名付けました
それをより多くの人に知ってもらおうと83歳の時に吹き込んだ肉声が残されています
今の僕らに対しての戒めのようにも聞こえてくるし。
鹿島さんこの説を唱えた背景には当時何があったんでしょうか?この当時はね日露戦争の勝利それから第一次大戦のですね非常に大もうけして日本の資本主義がね非常にパワーアップしたんですね。
それに伴って…要するに自分たちだけ金もうければいい。
道徳なんて言ってたら世界のアニマルスピリットの人たちに絶対勝てないから。
そうじゃないんだって。
ただしその時にこれ重要なんですけど…朱子学に戻っちゃう。
そうじゃないんです。
渋沢栄一を見てると地域振興にも国にも全部通じる事なんですが企業も同じなんだけど何のためにやってるんですかという事をこの人は答えを持ってやってたと思うんですよね。
何のために経済成長してね何のためにお宅の会社利益上げてね…渋沢栄一はそれはだからいい世の中にするためですと。
全員がみんなができるかぎり幸せになれる世の中にするためにやってるのこれ当たり前じゃないのかと。
同じように地域振興も目指してるものは何かみんなが元気になって楽しく生きていけるしよその側から見ても「いや〜お宅すごいね。
頑張ってるね」って言われて「そうだろう」みたいなね…さあ今日見てまいりましたけれどもユカイさん渋沢栄一最後にいかがでしたでしょうか?派手なね織田信長とか豊臣秀吉だったりとかそういう歴史上のね派手な人物よりも渋沢栄一っていう人にねリスペクトと興味深いサムシングを感じましたね。
こういった人こそね…藻谷さん「お宝発掘助けます」その極意を教えて頂けますでしょうか。
はい。
自分たちの地域のね本当にここにしかない優れたもの何だろうと外の人の目を借りながら見つけてそしてそれを磨き上げて。
これはほんとに地元にとっては当たり前のものなんですよ。
当たり前のものだと思っていたものが他の人から見るとなんてすばらしいものだと。
ここにしかないものだと。
これをね磨いて示す。
ちょっと褒めてもらえる。
すると少しやる気が出る。
もうちょっと磨く。
これを何回か繰り返していくうちにほんとにピカピカのお宝になるんですよ。
時間かけてちゃんと磨いたものはそう簡単になくなりません。
今日は皆さんほんとに長時間ありがとうございました。
またのご来店お待ちしております。
2015/04/28(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 お宝発掘、助けます「渋沢栄一」[解][字][再]
日本資本主義の父・渋沢栄一は、都市部だけでなく地方で産業を育成することを重視した。全国500を超える会社の設立や経営に携わった渋沢に、地域活性化の知恵を学ぶ。
詳細情報
番組内容
地方の活性化が叫ばれている現代。いまや地方への視線なくして日本社会の未来は語れない。そこで注目したいのが日本資本主義の父と言われる渋沢栄一だ。会社の資本を経営者が独占するのではなく、利益が人々に還元されることで、社会全体が発展すると考えた渋沢。都市部だけでなく日本各地で産業を振興することが日本社会の発展につながると、全国500もの会社の設立や経営に携わった。渋沢栄一に、地域活性化の知恵を学ぶ。
出演者
【出演】日本総合研究所主席研究員…藻谷浩介,ダイアモンド☆ユカイ,明治大学教授、作家…鹿島茂,【司会】近田雄一
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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