あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第40回は岩手県陸前高田市です。
2万4,000人が暮らしていました。
津波によって市街地は壊滅。
死者・行方不明者は1,800人近くに及びました。
津波を逃れた人々が直面したのが深刻な情報不足でした。
命にも関わる情報。
人々が頼ったのは市役所でした。
しかし市役所は津波で被災。
職員の3/3が亡くなり市民に情報を発信する事ができなくなっていました。
非常事態の中市民にどうやって情報を届けるか。
市役所は表裏一枚の広報臨時号を毎日発行する事にしました。
しかし…。
問題はそれだけではありませんでした。
いくつもの困難を乗り越え広報臨時号は7か月にわたって発行されました。
情報だけでなく明日への希望を届けようと苦闘した市役所職員たちの証言です。
2011年3月11日。
15mを超える津波が町を襲いました。
当時市の広報を担当していた…地震のあと津波の写真を撮るよう上司に命じられた大和田さんは高台へ走りました。
地震からおよそ30分後。
大和田さんは市街地を見下ろす高台にたどりつきました。
カメラの準備を始めたその時…。
岩手県警のヘリから撮影された津波の映像です。
市街地に到達した津波の高さは15mを超えました。
家々を押し流しながら海から1キロ離れた市役所にも迫っていきます。
当時大和田さんが所属する企画部の部長だった…地震のあと市役所の前に避難していました。
その時市役所の屋上で撮影された映像です。
菊池さんが目にしたのは町を覆い更に勢いを増す津波の姿でした。
津波は市の職員やその家族ものみ込みました。
菊池さんの部下…母親と次男が行方不明になりました。
翌日水が引いたあとに現れたのは変わり果てた町でした。
市役所の屋上にいた市の職員たちも同じ光景を見ていました。
4階建ての市役所は3階まで水没し全ての設備が使えなくなっていました。
市の職員たちは津波の被害を免れた高台の学校給食センターへ向かいます。
この大災害への対応の中心となる災害対策本部を開くためです。
しかしそこにあったのは…。
水や電気通信などのライフラインは全て止まっていました。
更に443人いた職員のうち300人に連絡がつきませんでした。
災害対策本部として必要なもののほとんどがありませんでした。
やがて生き残った職員たちが集まってきました。
(取材者)ここに来たのはいつの何時ごろだったんですか?津波の写真を撮っていた大和田さんです。
高台の避難所で一夜を過ごしました。
給食センターには情報を求める市民も集まってきました。
大和田さんは2階の会議室に設けられた安否確認所で市民の対応に当たります。
大和田さんは手書きの表を作り捜している相手と自分の名前を書いてもらいました。
それを安否確認所の壁に貼り出していきました。
安否確認所に毎日のように通っていた市民がいます。
市街地の中心部で畳店を営んでいた…消防団で市民の避難誘導を行っていた息子の勇輝さんが行方不明になっていました。
安否確認所の大和田さんも壁にぶつかっていました。
どこの避難所に誰がいるという情報がないため行方の捜しようがなかったのです。
更に手書きの表を貼り出す方法にも限界を感じていました。
避難所でも大和田さんと同じような歯がゆさを感じている人がいました。
家具店を経営していた…
(取材者)お一人ですか?そうそうそう。
震災の日の夜。
両親を捜していた高橋さんは最大の避難所だった第一中学校に向かいました。
そこで目にしたのは同じように家族の行方が分からない人々でした。
高橋さんは両親を捜しましたが見つけられませんでした。
その時ふと思いついた事がありました。
高橋さんは市役所担当者の了解を得ると持ち歩いていたノートパソコンに名前を打ち込み五十音順に並び替えました。
声をかけてくる人もいました。
全ての避難所で同じ事ができたわけではありません。
災害対策本部の大和田さんは電気の復旧を待って避難所それぞれの名簿をパソコンに打ち込む事にしました。
ようやく市民一人一人の居所と安否の全体像を明らかにする道筋ができました。
しかしこのころ市民の求める情報は新たな段階に入っていました。
企画部長として本部の指揮を執っていた…市民の求める情報の内容が変化してきた事を実感していました。
こうした生活情報を求める声は市内の全域で高まっていました。
災害対策本部からおよそ15キロ離れた広田地区です。
4,000人近くが暮らしていました。
市役所の広田地区本部で住民対応を担当していた…地区本部にも情報を求める人々が途切れる事なく訪れていました。
しかし通信手段がなくなっていたため災害対策本部からほとんど情報が伝わってきません。
災害対策本部では市内の各地で不満が高まっている状況に危機感を募らせていました。
菊池さんは一つの対策を思い立ちます。
A4の紙一枚に情報を印刷した広報臨時号を市民に配る事です。
菊池さんは震災前に広報担当だった大和田さんにこの仕事を指示しました。
しかし大和田さんは戸惑います。
A4の紙一枚で何を伝えたらいいのか分からなかったのです。
市民はどんな情報を知りたいのか。
大和田さんは相談窓口に立つ事にしました。
やがて大和田さんは気がつきます。
多くの人が同じ質問をしているのです。
大和田さんは窓口で多く聞かれた質問に直接答える広報を作る事にしました。
周囲の職員に最新の情報を聞いて回り原稿に書いていきました。
作業は深夜0時まで続きました。
完成した「広報りくぜんたかた臨時号」第1号の原稿です。
A4サイズの紙の表裏が使われました。
表面には避難所の場所が掲載されました。
裏面には多くの人が聞いてきた質問が回答と共に掲載されました。
「ガソリンは救急車や重機を優先するので一般の車は節約して下さい」。
「水道は被害を確認中。
ガスは業者が巡回します」。
「病院で処方された薬は市内の2つの避難所にいる医師からもらえます」。
しかしこれだけで広報臨時号が発行できるわけではありません。
どうやって印刷するか。
災害対策本部には印刷機も紙もありませんでした。
印刷を手伝う事になったのは母親と次男が行方不明になった村上知幸さんです。
印刷できる場所を探し回った末に見つけたのは避難所になっていた第一中学校の印刷室でした。
そこには2台の印刷機と数箱のコピー用紙がありました。
印刷開始。
コピー機の音だけが響きます。
村上さんは行方不明の家族を思っていました。
そんな村上さんにとって刷り上がっていく広報臨時号の内容はつらいものでした。
家族を亡くした人に向けられた情報がいくつもあったからです。
市民が広報臨時号をどのように受け取るのか村上さんは不安を感じていました。
震災発生から1週間後の3月18日朝7時。
広報臨時号の第1号が最初に届けられたのは第一中学校の体育館でした。
市民は広報臨時号を競うように持っていきました。
広報臨時号は毎日発行されました。
第2号では盛岡市までのバスの運行が始まった事遺体安置所が増えた事道路の復旧状況電気の復旧状況歯科診療所が出来た事などが知らされました。
第6号では仮設住宅の入居申し込みの受付が始まる事が知らされました。
翌日の第7号では説明会の日時と場所が発表されます。
その翌日の第8号では明日から受付開始と伝えられました。
広報臨時号は自衛隊によって食料や水と一緒に各地の避難所に運ばれました。
当時市内には72か所の避難所がありました。
避難所で広報臨時号を目にした…大和田さんは日中に取材をし深夜まで原稿を書き早朝から印刷する生活を何か月も続けました。
最初の4か月は災害対策本部の一室に泊まり込んでいました。
3月26日の第9号。
り災証明書の申請手続きの案内が出されました。
り災証明書は義援金の受け取りや保険料の減免などの手続きに欠かせない証明書です。
広報臨時号は市の中心部から最も遠く情報不足の不満がたまっていた広田地区の避難所にも届けられました。
避難所のリーダーを務めていた…広報臨時号を今も大切に持っています。
しかし問題もありました。
この集落はおよそ400人が暮らしていましたが紙の不足で広報臨時号は1枚か2枚しか来ません。
避難所以外で暮らす300人余りには届きませんでした。
藤原さんは手作りの掲示板を避難所の前に立て広報臨時号を貼り出す事にしました。
全ての住民に見てもらうためです。
他にもさまざまな情報が広報臨時号では提供されました。
そして市内の復旧が進むにつれて内容は徐々に日常的なものに変化していきます。
第1号の発行からおよそ7か月後の10月26日。
広報臨時号は第107号で廃刊となります。
その後は震災前と同じ通常の広報に戻りました。
広田地区で広報臨時号を掲示していた藤原さんは今も広報を住民に配っています。
あれから4年。
今陸前高田市では住宅移転のための高台造成工事が進められています。
復興に向けた新しい町づくりがようやく始まりました。
広報臨時号の原稿を書いていた大和田さんは市役所の復興対策局で働いています。
今でもあの時の事を思い出すと言います。
ふだんはあまり気にかけられる事のない自治体の広報紙。
それが震災直後の陸前高田ではなくてはならないものになりました。
大災害が起きて生活に欠かせない情報を伝える術がなくなった時どうやって人々に届けるのか。
これからも変わる事のない課題です。
テレビも見られない。
ラジオも聞こえない。
そんな時にどうするのか?陸前高田のように一枚でも広報誌を作って配るか。
他に手はあるのか?いつか起きる地震と津波の際にどうするかは今から考えておかなければなりませんね。
さて各地で復興に向けた取り組みが進んでいますがNHK福島放送局ではその原動力となる若い人たちを応援しようというキャンペーンがスタートしました。
温泉街の復興に取り組む若者たちを紹介しましょう。
福島駅から車でおよそ30分。
土湯温泉です。
歴史は1,000年以上と言われています。
その温泉で今注目を集めているのがこちら若旦那です。
この方々正真正銘温泉宿の若旦那。
「若旦那図鑑」というフリーペーパーを作ってあちらこちらでPRしています。
こちらの若旦那旅館の売りは美人の湯。
正統派イケメンです。
土湯有数の大旅館誰が何と言おうと若旦那40歳。
料理にこだわる人情派の若旦那。
みんなの愛され系王子おちゃめ系若旦那。
土湯温泉の若旦那衆です。
どなたがお好みでしょうか?ちなみに5人目のメンバーは新婚旅行に出かけて不在でした。
若旦那たちの活動のきっかけは4年前の原発事故でした。
風評もあって観光客が激減。
3割の旅館が廃業に追い込まれました。
そこで若旦那が立ち上がりました。
「若旦那」をブランド化すればいいと地元の大学のアドバイスを受けて作った「若旦那図鑑」。
問い合わせ取材殺到しました。
思わぬ反響に気を良くした若旦那たち。
土湯温泉の新名物にお風呂上がりにぴったりのアイスクリームを作ろうと考えました。
それも自分たちの個性を取り入れた…協力したお店の人もちょっと戸惑い気味。
料理自慢の若旦那入れてほしいとリクエストしたのはハナビラタケというきのこです。
果たしてどんな味のアイスになる事やら?若旦那味のアイスクリーム販売も始まったようですよ。
復興を進めるには若い人たちの力は是非とも必要です。
間もなく大型連休若い人たちが活躍しているスポット訪ねてみてはいかがでしょうか?それでは被災した地域で暮らす方々の今の思いです。
宮城県気仙沼市の皆さんです。
気仙沼の大島で大工をしています。
津波で作業場は流されましたが海から道具を拾って仕事を再開しました。
この4年間あっという間でした。
今も直さなければいけない家やリフォームしなきゃいけない家がたくさんあります。
カキやホタテの養殖業をしています。
津波では大きな被害を受けましたが震災前とほぼ同じぐらい収穫できるまでになりました。
本当にありがとうございました。
応援してくれた全国の皆様には俺たちと同じ思いをしてほしくありません。
ともに前に進んでいきましょう。
大島で躰道という武道を習っています。
震災で練習できない日もあったけど自主練頑張ってその年の全国大会で優勝。
去年も全国大会で優勝する事ができました。
2015/04/28(火) 02:00〜02:50
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録 東日本大震災 第40回「岩手県陸前高田市」[字][再]
津波ですべてが流された陸前高田市。人々が苦しんだのは深刻な情報不足だった。家族の安否、生活情報…。市役所が発行した広報臨時号は情報とともに希望を配った。
詳細情報
番組内容
津波ですべてが流された陸前高田市。人々が苦しんだのは深刻な情報不足だった。家族の安否、生活関連情報…。情報提供を期待された市役所も被災して多くの職員を失い、十分に機能できなかった。一週間後、市はA4の紙一枚の広報臨時号を発刊、市民が知りたがっている情報を7か月にわたって提供し続けた。市民はその中に、情報だけでなく未来に踏み出す希望を見いだした。ふだんは何気なく見すごす自治体広報紙の意外な活躍の物語
出演者
【キャスター】畠山智之
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
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