結局を心を沿わせて話してはいたのだけど、
その人はどちらの感覚をも一応に理解する謂わば通訳的人なのかもしれないと思えた。私と人種は違うけれど、何か生活的日常においての滞りがあった際に、少し通訳を頼めるというくらいのスタンスなのだろう。失う必要はないが、その人に自分のことを理解してもらおうと思ったりそう考えることは的外れなことで、つまりその人は心のメンターとしているわけではないのだった。泥濘を歩けないときに敷かれる簡易的な木板と同じような役割。とても助かるけれど、そこにいつ迄も心を委ねてはならないということ。
そう。
だから、深入りすることは確実にアホだという結果が見えた。
そう考えることができて呆気なく、ひとつ季節が過ぎたような気がする。・・
踊りを、踊りとして、何を見るか・・・・
私は絶え間なく人の体と精神の宇宙だと確信している
だけど、体だけではどうにもならないのが当たり前なんだけれど、精神的になりきるためにはそれ相応の肉体的感覚を冴えわたらせることが必要だと思っている。
体は人が作った物ではないからだ。つまり、ただの器ではない。
体の構造も仕組みも、みんな天然のもの
心や気持ち同様
感受性が生まれるのも肉体あってこそ
考えてみてほしい。
例えば怪我したり病気して、熱が出たり、咳が出たり、いろんな反応が起こる。それは体が勝手に治癒しようと働くからなのだ。つまり人間の利己的な意識に反して体は自然と働くのだ。
踊りのヒントはそこにあると私は思っている。
いまそれを深く記す気にはならないけれど、
肉体で音や光や空気を感じなくてして
もし頭で考えて初めて感じるのだとすれば、もっと身体中の毛穴を開いて、筋肉を解して、ストレッチして、手のひらを見て、口の中を見て、
いろんな部分を触って、いろんな方向へ動かしてみて、
自分がどう感じるかの感を今一度感じ試した方がいいと思う。
心の熱りが冷める、つまり冷静になったのはやはり、
「体はただの器」だという言葉だったのかもしれない。
それぞれの舞踊へのアプローチはあると思うし、同じジャンルでも違うジャンルでもそれに取り組む想い、取り組み方、始めたきっかけや背景はそれぞれ違って当たり前だ。
ただそれがただの器であった場合、
ただの器と言い切れるほど安いものだと思うのだろうか?
家具などの物とは違う、人が作ったものではないから。
人体の構造も機能も人間が設計しコントロールできるようなものではない。
人間の体は、光、音、流れ、空気、雲、雨、土、虫、雪、風、振動、となんら変わりのない本当はものすごく純粋なものなのに、
それを都合よく体は器と切り離す感覚がいまいちわからない。
もし本当に体が器であった場合、
大きな疑問が残る。
どうやって踊るの?・・・・
体が無かったら死んでいるということ?・・・
どんな病気に蝕まれても、
どんな怪我で自由がうまく効かなくても
人の体は呼吸をして、血が流れていて、
何をしなくても熱を生みだし続け
静かに確実に生きている
体が温かい限り踊るの
生きているから踊るの。
だけど、体が温度の無いただの器だとしたら、
気持ちもプラスチック化するだろう。・・・
踊ることも、その必要性も、愛情、セックス、さえ・・・。
存在し無いだろう。
「心で踊る」とか温いことを発する人が増えないことを祈る
以前、
こういうことを平然と話す踊り手にであったことがある。
テクニカなんかと心があればと生ぬるいことを言っていたが、
心は誰にもあるのだ、
気持ちも、感情も、想いも
それを表現するためには、
その想いを表現しきれるだけの
エネルギーと時間と鍛錬は必須だ・・・
テクニカは必ずしも技術という意味ではないが
体の感覚を肥やさずして
そう簡単に心を操ることはできない
というより、それってかなり危険なことだと思う。
心で踊るようになるためには
肉体との信頼関係、心技体の統一、深め合いと鍛錬が必要だ
心技体を高め年月をかけ磨き続けてきた
巨匠たちのレベルでやっと奏でられる
と私は思うけれど、、、、
それは必ずしも年月に限らないので
心と体が一致し、成る時に成るのかもしれない
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