戦後70年

プロローグ「あの戦争から何を学ぶか」③ 思い継ぐ、私たちが 失敗の歴史学んで

 「昭和史の語り部」と呼ばれる作家半藤一利氏と、「憲法を暗唱するアイドル」として注目されるAKB48の内山奈月さんが「戦後70年」をテーマに対談。「なぜ戦争したのですか」「憲法9条の意義とは」。平成生まれの内山さんの疑問に半藤氏が自らの戦争体験を振り返りながら答えた。

   × × ×

 内山 初めまして。AKB48の内山奈月です。よろしくお願いします。

 半藤 よろしく。内山さんのおじいさんは何年生まれですか?

 内山 1933年です。小学生だった祖父は東京から静岡県や甲府に疎開し、甲府で空襲に遭いました。焼夷(しょうい)弾が降る中、田んぼのあぜ道を逃げ、まだ赤ん坊だった祖父のいとこは火の粉をかぶり亡くなったそうです。

 半藤 おじいさんは私より三つ下だね。私も中学生のとき、東京の下町で焼夷弾攻撃をまともに受けた。だから今でも花火が嫌いだ。焼夷弾が落ちてくるときの音と火花、そっくりだからね。

 内山 祖父も同じことを言っていました。空襲で亡くなっていたら私は生まれてなかった。そう思うと不思議です。

 ▽「絶対」使わず

 半藤 東京大空襲(45年3月10日)で私も死にかけた。火の手が迫る中、川まで逃げて船に助けられた。ほかにおぼれている人を助ける手伝いをしていると、高齢の女性に肩をつかまれた拍子に川の中に投げ出された。周囲のおぼれた人たちがつかんでくる手を必死に振り払った。自分が生きるためだった。なんとか川面に首を出したところを別の船にひょいっと引き上げられて助かったんだ。

 内山 …(絶句)。

 半藤 そんな経験もあって私は「絶対」という言葉を使わないと決めた。戦争中は「絶対に勝つ」などの言葉が流行し、人々も「自分は絶対に死なない」「絶対に人を殺さない」と思っていた。そんなのはうそ。戦争に絶対はない。

 内山 私には戦争の経験がありません。でもお話を聞くと本当に恐ろしい。人が人でなくなってしまうような気がします。

 半藤 いま19歳? 戦争末期であれば女子挺身(ていしん)隊として働かされ、戦争の訓練をさせられたことでしょう。

 内山 平和な時代しか知らない私には、その状況に置かれることが想像できません。

 ▽なぜ戦争に?

 内山 なぜ日本は米国との戦争に踏み切ったのですか。

 半藤 欧州で先に第2次世界大戦が始まっていた。日本と軍事同盟を結んだドイツは当初すごく強く、日本側は英国が降参するのは時間の問題で、取り残された米国は日独に戦争をする気など起こさないと考えていた。そこで日本への石油輸出を止めるなど経済制裁を行った米国をたたくのは今だ!とばかりに開戦を決めた。ところが英国は降参しなかったし、米国も孤立しなかった。

 内山 日本にとって想定外だったのですか。

 半藤 いや、想定外というよりも、実際にはあり得ない想定をしていたのです。こうなればいいなという希望的観測が「絶対に勝つ」といった絵空事に結びつき、戦争を始めてしまった。

 ▽押し付け?

 半藤 ところで内山さんはなぜ日本国憲法に興味を持ったの?

 内山 小学校の授業で覚えたのがきっかけです。その後、九州大の南野森(みなみの・しげる)教授(憲法学)と「憲法主義」という本を出すときに憲法の奥深さを教えられ、もっと興味を持ちました。

 半藤 日本ではよく「押し付け憲法」と言われるね。連合国軍総司令部(GHQ)の原案があったのは事実だが、これをどう生かし、どんな条項にするかは日本側も考えた。GHQ原案は当時の国会で大議論しながら修正されていった。ちょっと9条を言ってみて。

 内山 はい! (スラスラと暗唱)。

 半藤 あら全部言えたね。文頭にある「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」も後で付け加えられた。この部分は敗戦後の日本人の、本当に平和国家をつくりたいという願いの表れでしょう。

 内山 憲法が約70年間運用され、9条のおかげだけではないにせよ日本が平和を維持しているのは、とても価値のあることだと思います。

 半藤 日本も戦後、戦争になりかけたことが何回かあった。でも日本には9条があり、それを世界が認めているからこそ戦争は起きなかった。

 ▽世代を超えて

 内山 半藤先生はよく「歴史にイフ(もし)はない。けれども…」とお書きになっています。戦争は二度と繰り返してはいけないですが、日本の憲法も、この悲惨な経験がなかったら生まれなかったのではないか、と思います。

 半藤 その通りだね。「平和憲法」とはつまり「戦争をしないと宣言した憲法」ということ。それが国際的に信頼されることが何よりも日本の国益となると私は思う。

 内山 この企画を通して、私は初めて祖父母に戦争体験を聞き、本当に戦争があったんだと、あらためて実感しました。祖父は「やっと当時のことを笑って話せるようになった」と言っていました。私たちが祖父の世代からきちんと話を聞き、憲法ができた当時の人々の思いを受け継いだ上で、これからの日本や憲法を考えていかないといけないといま思います。

 半藤 大変力強い。平和が長く続くと、それがつまらなく見え、中にはもう一度強い国にしたいと思う人もいるでしょう。人の考えはそれぞれ自由ですが、若い人たちにはぜひ、日本がアジアの盟主になろうとして戦争に突き進んで失敗した歴史を知った上で、これからどんな国をつくっていくのかしっかり考えてもらいたいですね。

(共同通信)=2014年12月6日

潑剌としたジャガイモ顔 一人一人が主人公の時代 吉岡忍

 戦後70年である。共同通信社と全国の新聞社が所蔵する報道写真を基に、戦後日本の歩みを再構成したシリーズ「ザ・クロニクル」が刊行中だ。1945年から5年ごとを1巻にまとめているので、全部で14巻。その第5巻、高度成長と若者の反乱がつづいていた69年までが手元にある。

 第1巻「廃墟からの出発」の表紙は、広島の原爆ドームを背に走る幼児の写真。第2巻「平和への試練」では、サンフランシスコ講和条約調印でにぎわう東京・銀座で女子高生らが花を配っている。第3巻「豊かさを求めて」になると、電線だらけの街の向こうに建設中の東京タワーの脚部が見えてくる。第4巻「熱気の中で」とは、東京五輪開催の熱狂だ。第5巻「反抗と模索と」では、早くも戦後の世の中に疑義を唱える学生たちが、東大安田講堂に立てこもろうとしている…。

 時を経た写真は面白い。撮った瞬間は、誰もが目にしていたありふれた光景が、何十年もたってみると、当時の景色やモノばかりか、人々の気分までも表す証言になる。そこに私は写っていなくても、ここに私はいた、こうやって私たちは生きてきたのだな、という生々しさがこみ上げてくる。

 敗戦から四半世紀の写真を眺めて、私が気づいたことは二つ。第一は、昔の日本人はジャガイモ顔だったということ。男も女も下ぶくれっぽい丸顔で、ごつごつしている。食糧難がつづいたはずなのに、特に子どもや若者がそうだ。一生懸命育てた親たちの苦労が、その背後に透けて見える。

 第二に、みんながそのジャガイモ顔で、世の中の主人公として振る舞っていること。廃墟から豊かさに向かう熱気のなかで、一人一人が潑剌と動いている。まさに民主主義が新鮮だった当時の時代相である。悲惨な事件や事故や災害も少なくなかったのだが、そのときでも人々は目の前の現実にひたむきに立ち向かっている。

 多くの写真を見て、単に感慨や回想にふけるのではなく、歴史として認識し、そこから現在と未来を動かす潑剌さを取りもどせるかどうか。読者の力量も試されるシリーズである。(ノンフィクション作家)

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