本年度アカデミー賞において、助演男優賞を含む三部門の受賞で話題となった『セッション』は、アメリカでトップレベルの音楽院に入学した青年ニーマンが、教師フレッチャーから受けた厳しい指導を描いた作品である。将来はジャズドラムでプロになり名声を得たいと渇望するニーマン。そのためには、指揮者であるフレッチャーの目にとまり、実力者のみが参加を許されるスタジオ・バンドで演奏することが必要となる。フレッチャーからスタジオ・バンドへの参加を認められたニーマンは、このチャンスを逃すまいと意気込んで演奏を始める。本作を手がけたのは、撮影当時、まだ28歳だった無名の監督デイミアン・チャゼル。監督自身がジャズドラムの経験者であり、高校時代に出会った指揮者に感じた恐怖がテーマだという。若き監督が感情をぶつけたフィルムならではの鬱屈したエネルギーが魅力となり、日本国内でも論争が起こり話題となっている作品である。
これは製作者によって周到に意図されたことなのだが、私は、音楽院の教師フレッチャーに対する不快感でいっぱいになった(それはつまり、製作者の狙い通りにこの映画を楽しんだということである)。そのため、最初に見たときはストーリーの細かなディテールがほとんど頭に入らず、あらためて映画館へ出かけなくてはならなかった。フレッチャーはすぐれた教師なのか? 「偉大な目標へ到達するためには、手段を選ぶべきではない」という教師としての信念は空疎化し、単に虐待のための虐待となり果て、罵倒そのものが目的化している。
ゆえにフレッチャーは、決して「常軌を逸した音楽愛の結果、指導が行きすぎてしまう天才教師」ではない。せいぜい「生徒を恫喝で従わせる手段に長けた、いくぶん凡庸な教師」といったところだ。こんな男に大切な将来や運命を握られてはたまったものではない。自分の人生を破壊するのが、『羊たちの沈黙』(’91)のレクター博士のような超人ならば、まだあきらめもつくだろう。しかし、われわれの人生に立ちはだかるのはたいてい、フレッチャーのような小悪党なのである。
劇中フレッチャーは、密閉された音楽スタジオの内部で王として君臨するが、実はことのほか体裁を気にするタイプでもあって、大会や演奏会場、コンサートホールといった第三者の視線が介在する場所では決して本性をあらわさない。公衆の面前にあって、彼は妙に態度を取り繕い、礼儀正しい指揮者であろうとするのだ。また、演奏者たちへ「自分に恥をかかせるな」と繰りかえし注意するのも印象的である。フレッチャーは、偉大な音楽的達成よりも、大会の審査員の目に自分がどう写るか気になってしかたないというタイプの小心者だ。部外者のいない密室でのみ暴君と化す彼は、「わきまえている」のだ。その姑息な計算が凡庸なのである。
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