外国人に日本語を教えた経験があるものなら大抵いちどは立ち止まったことのある問題だろう。日本語でものを数えるのは難しい——日本語では「数える対象」によって数え方が違うのである。日本語母語話者にとって当たり前のこの一事が、実はどれだけ難しいものを含んでいるのか、そこを考えるのが小文の趣旨である。
一少年、二少年、三少年
2004年に飯田朝子『数え方の辞典』という好著が話題になり、あらためて耳目がこの問題に集まったのであるが、日本語は驚くほどのバリエーションを擁して「ものの数え方」を区別している。ただ名詞に数詞を添えるのではなく、名詞のカテゴリー分別を内包した、いわゆる「助数詞」を添えるのである。
これが例えば英語ならば、a/one boy, two boys, three boys といった具合に数詞を対象の前に付加していくだけでよいが、同じやり方を日本語に適用すると「一少年、二少年、三少年」ということになる。こんな日本語は『十五少年漂流記』というタイトルぐらいでしかお目にかからない。
そこで「一人、二人、三人の少年」のごとくに助数詞「人」を添えて数えるわけだが、助数詞をつけるというだけでは済まない、いわば連辞構造が時に異なってくることにも注意が必要だ。今日の印欧語では数詞はだいたい冠詞類などの広い意味での限定辞のカテゴリーに分類され、名詞の前に固着するのが定位置である。特に「冠詞類と交替/共起しうる」という性質が多くの言語の文法学習に重要となる。ところが日本語の助数詞は名詞にくっついてなどいない、文中を動き回る。
二人の少年が不平を漏らした。
少年がふたり不平を漏らした。
などと言うように、後者の例ではあたかも連用修飾語として述部を修飾しているように見える。英文法で言うと状況補語、広い意味での副詞句の役割を果たしている。あるいは主語に係る限定辞の遊離構文の一種と考えることも出来るだろう。この問題については生成文法系の論文がたくさんある。とりあえず我々にとっての問題としては、文法的なステイタスがどうも固定されていないという一事が興味深い。
ゆいいつ「一度、二度」というような言葉なら、たいていの言語が副詞的にかなり語順の融通の利く語彙として用意してあるもので、英語の once, twice フランス語の une/deux/quelque fois ドイツ語の einmal, zweimal などがそれである。
(余談であるが、こうした副詞化は、たいてい属格 genitive の副詞的用法に由来する。once, twice の ce は John’s(ジョンの)の ’s と同根である。同様に sometimes, always の語尾に s が付くのも属格の語尾の名残であって、複数形の s ではない)
閑話休題:しかし日本語では助数詞を添えれば、どんな言葉も上の「語順の融通」をつけてもらえる。
車が三両駐車している
ご飯を三杯平らげた
箪笥を二棹運び出す
助数詞はいずれもこうした「副詞化」を許容する。私見では、いわゆる「主語」のような文法構造の基盤となる概念からして、いっけん自明なものと見えても実はなかなかステイタスをこれと確立できない。それは主語の自明性が強く意識されている印欧語でも本当はそうなのだ。だがこれは一著の主題たりうる大問題であるからここでは措く。
まずは「ひとつ、ふたつ、みっつ」——それでは済まないこともある
ここでの問題は「しかじかの対象に対してどの数詞を適用するか」という難問である。いちばん適用力の高いニュートラルな数詞は「ひとつ、ふたつ……」と「一個、二個……」であろう。濫用すれば味気なく、表現力が衰退していきそうだが、ひとまずはこれでかなりの範囲をカバーできる。教わる側の外国人(例えばフランス人をご想像下さい)もこれで一安心だ。しかし人を数えるのに「先生が一個」などと言ったら失礼極まる話となる、と威しておかなければならない。
そう言っておきながら、どっこい「一個の日本人としてこう主張したい」などと、文脈によっては使って差し支えないのがまたややこしい。
ともかく日常的には人を数えるなら「一人、二人……」、もっとへりくだれば「御一方、御二方……」、これがカップルとなれば「いよっ、御両人」と決まってくる。君主なら「二君にまみえず」、殿上人や神様なら「三柱おはします」となる。この辺で当のフランス人が悲鳴を上げはじめる。一「人」、二「人」などというのはむしろ判りやすい例だと思えても来るだろう。「ひとり、ふたり」が熟字訓であるが、三から先は機械的に数えていける。
一膳、二椀、三脚
お箸は「一膳」、お椀は「二客」、椅子は「三脚」……いずれも筋が通っているようだし、必要なら由来だって説明できそうだけれどもこれが外国人には難しい。一つひとつの対象宛て、いちいち数え方も同時に覚えなければならないのかと、彼らの前途に暗澹たる雲がかかる。
ここで問題のフランス人(仮にマリーとする)が絡み始める。
「でもタカダさん、椅子は一つに四つの脚があります、論理的にはこれは十二脚あるということになりませんか」
「いや、椅子は一つで『一脚』と考えるのだよ、マリー」(本当はしどろもどろになっているのだが若干の潤色を加えた)
「それはおかしい、一本脚の tabouret(スツール)ならそれでいいかもしれませんが、この椅子に足は四足あります!」
「マリー、足は四足とは数えないのだよ、『何足』と数えるのは靴と靴下だけだ。足は『四本』と数える」
「では椅子は三脚で脚が十二本あって……座る人の足は六本で、靴が六足?」
「いや、靴は三足」
「靴は山賊!」
「いや三の足で三足。前に教えた連濁規則だ、『足』の語頭音が有声化したのだよ。そして靴、靴下は『二つ一揃い』で『一足』と数えるのだよ、これはフランス語でもその通りではないかね? une paire de chaussures, de gants ou de lunettes(靴、手袋、眼鏡が『一対』)」
「そうですか。三人が三脚の椅子に座って、椅子の脚が十二本、人の足が六本、靴が三足……」
「納得いただけたかね」
「椅子が tabouret でも、三本足の chaise-selle でも、四本足であっても、いずれも一脚と数えるのですね」
「ふふっ、その通りだよ、マリー」(私は「ふふっ」なんて笑ったことは生まれてこのかた無いが、若干の潤色を加えた)
「……それではタカダさん、tripodes(三脚)が三つあったら、これはとうぜん『三脚の三脚』ということになるんでしょうね」
「いや、三脚は三台」(泣きながら)
「なぜ!」(怒りをこめて)
ところでカメラにつける「一脚」はどう数えるのだろうか、簡単に調べたが判らない。おそらくは形状からして「本」か、三脚に倣って「台」が穏当だろうが、もしこれを「脚」で数えられたりするとややこしいことになる。I have two unipods を訳すと「私一脚二脚もってます」となり何が何だか判らない。I have two unipods and four tripods なら「私一脚二脚三脚四台もってます」となり、さらに混迷の度を深める。一脚と三脚の所有数には気をつけた方がよさそうだ。
一台、二台か一両、二両か
それでは車はどう数えるか——当たり前のことだが「一台、二台」。しかし思えば「一両、二両」とも数える。「両」は一般に対になったものを数えるものだから、これは「くるま」の一語が、二輪の「人力車」を指していた時代の名残ということになるだろう。共時的に見れば、通常四輪の自動車を数えるのに「両」というアナクロな数詞がこんにち生き残っていることになる。またマリーが怒り出すわけである。
「車輪は四つあります! 一台につき二両です! おかしいです!」
「そんなことを言っていたら10トントラックは一台につき五両だっていうことになってしまうじゃないか! 自家用車とトラック、二台の事故で合計七両だっていうのかね! なんだって車輪の数にそんなに拘らなきゃいけないんだ!」(涙目で)
「最初にそこに拘ったのは日本語の方ではありませんか!」
マリーが「不合理である」と憤激するような不整合の数々は、しばしば歴史的な事情で上のように説明できるけれども、問題は外国人にとって、これから出合う日本語の名詞に対して、どういう助数詞をつけるのが本当なのか、対策の立てようがないということにある。じっさい助数詞を正しく使い回すことなんて、日本語母語話者にだって難しいことなのだ。その都度、古きを温ねるしかないのだろうか? 言葉の来歴を知らなければ、数を数えることすら覚束ないというのだろうか? 「そんなのおかしいです! 大変過ぎます!」
例えば箪笥・長持ちは「一棹、二棹」と数えることになっているが、これに馴染みのない日本語母語話者だって多いことだろう。この「棹」というのは幟・旗、要するに竹竿などを数えるのに用いるのが本来で、箪笥・長持ちについては棹をつけて持ち運んだ歴史があるものだから今なお「棹」が使われる。しかし今日の箪笥にはまず棹は付いていないし、引っ越しの時だって改めて棹に括ったりはしない。「棹、ありません! おかしいです!」
また例えば蝶を「一頭、二頭」と数える例がある。だが、ふつうの日本人には「一頭、二頭」というのは馬とか、牛とか、象とか、ともかく「やや大型の」「重めの」「動物」を数える言葉であるとの印象があるものだろう。やや小さめなら「一匹」で、やや大きくなると「一頭」である。それなのに「蟻や蝶」を「一頭、二頭」と数えることがあるといわれれば、フランス人でなくったってわけが解らなくなってくる。
「どう見ても小さいです! 軽いです! おかしいです!」
「タカダさん、真似しないで下さい」
「いや、私も一度言ってみたくて……」
羽はないけれど「一羽、二羽」
蝶なら鳥などと合わせて一羽と数えるのは自然な成り行きというものだろう。羽あるものは「一羽、二羽」である。まったく論理的だ。一安心だ。ところが……兎はしばしば「一羽、二羽」と数えるが……「羽、ありません! おかしいです!」いや、しばし待たれよ、こと西欧人、とりわけフランス人相手であれば、これには一発で腑に落ちる説明がある。
「いや、マリー、兎は comptoir(ここでは肉屋のガラスカウンター)では鳥と並んで売ってるでしょう?」
「確かに!」
「つまり肉屋で丸ごと一羽、内臓アウト、レバーのみインで売っているものはみな『一羽、二羽』ということなのだよ。ニワトリ、カモ、ウズラ、ホロホロチョウ、ウサギ……同ジャンルだよね」
「た、確かに!」
あとはマリーがソーセージやハムを数えるのにも「一羽、二羽」が使えるかどうか検討を始める前に話題を変えることである。
助数詞のあたりをつける
ともかくも、日本語母語話者というものは何らかの名詞をつかう際に、その形状や重量や、あるいは場合によっては「来歴」を勘案の上でどんな助数詞を使うかだいたいの「あたり」をつけているものである。例えば重そうな、四角張ったものなら「一台」、薄っぺらいものなら「一枚」。小さなものなら「一個」、もっと小さければ「一粒」。器に汲んだもの、あるいはその器そのものは「一杯」。タコ、イカ、アワビは容器扱いで「一杯」なのである。
「嘘です! おかしいです! アワビが器っぽいのは認めますが、水は汲めません、穴から漏れます」
「いや漏れるかどうかではなくてね」
「イカとタコはどう汲めるというのですか」
「いや、それが『イカ徳利』というものがあってだね……」
「イカ飯にイカ徳利……なるほどイカは容器だったのですか……アンクロワイヤーブル」
「納得いただけたようだね」
「タコ徳利というものもあるのですね!」
「え……と、あったのではないかな……」
そして棒状ものなら「一本」といった具合である。鉛筆、釘、杭、材木、柱、乾麺(フィットチーネ、タリアテッレなどの鳥の巣様のものを除く)……剣や槍などもそれぞれに特別な数え方はあるが、なんなら「一本、二本」で差し支えはない。棒状のものは『一本』——これは簡単な区別になりそうだ……と思っていたのが不覚であった。
棒状のものをめぐる飽くなき攻防
「形状が重要なのですか。棒状のものなら『本』……」
「まずはそのようだ」
「『本 livre』そのものはどうするのですか」
「本は棒状ではない。本は『一冊、二冊』と数える」
「おかしいです! ですが、たしかに本は棒状ではありませんね……鉛筆は『いちほん』ですか」
「その通り、ただし、そこは勢いよく『いっぽん』としたい」
「判りました、勢いよく『っぽん』ですか。では二つなら『にっぽん』」
「いや、その場合は『にほん』となる。『にっぽん』では『じゃぽん』のことになってしまう」
「『にほん』でも『じゃぽん』ではないですか。タカダさんはイロジークです。おかしいです! そして三つなら『さんほん』」
「いや、そうではなく……」
「では『さんぽん』」
「いや『さんぼん』となる」
「お……おかしいです! 『いっぽん』の『にほん』の『さんぼん』ですか! 『ぽん』なのか『ほん』なのか『ぼん』なのか、はっきりさせてください、ルールは無いのですか」
「音韻環境によって変わってくるのではないかと……」
「では四つなら『よんぼん』ですね! 『さんぼん』と音韻環境は同じです!」
「いや、そこは『よんほん』」
「メルド! 五つなら『ごっぽん』ですか!」
「いや、そこは『ごほん』」
「ピュタン! 『ごほん』の時は勢いはいらないのですか! おかしいです! それでは六つでは『ろくほん』」
「いや、そこは勢いよく『ろっぽん』。マリー、口に気をつけてくれたまえ」
「なぜ『いっぽん』と『ろっぽん』だけ勢いがいるのですか! 二と五には勢いはないのですか! セ・パ・ジュスト!」
「いや、不当と言われても……」
「七つならば……七つならば『ななほん』」
「それはその通りだ」
「規則が判りません、ぜんぜん嬉しくありません……八つならば……『はち』……これは勢いがいるのでは?」
「だいぶ鋭くなってきたようだね、マリー、八つならば『はっぽん』だ」
「モン・デュー!」
「だが『はちほん』とも言える」
「なぜですか! 『いちほん』は駄目だったのに、『はちほん』はいいのですか! セ・パ・ジュスト!」
「九つで『きゅうほん』」
「ならば同様に、十では『じゅうほん』ですね?」
「済まない、マリー、十では『じっぽん』。俗には『じゅっぽん』となる」
「また勢いですか! なぜ一、六、十だけ勢いがいるのですか! セ・パ・ジュスト!」
「本」で数えるものはみな棒状か?
こうして「一本、二本、三本」をめぐってさんざん紛糾したのだが、この「ほん、ぽん、ぼん」の交替については細かな説明をしてひとまず納得をしてもらえた。その説明がどんなものだったのかはあまりに煩瑣にわたるため別項にあらためる。
問題は「棒状のものは本で数える」という件(くだり)である。早稲田通りを下ってきたマリーは、途中の早稲田松竹の幟を見て衝撃をうけていたのであった。「タカダさん、映画は棒状ですか?」
つまり二番館の早稲田松竹ではシーズン遅れの「二本立て」が掛かっていたのであるが、映画はなるほど「本」で数える。しかし棒状とは言いがたい。ここは「本で数えるものは棒状である」というのは引っ込めなければならない。いわゆる「逆は真ならず」ということだ。「本で数えるもの」の外延は「棒状のもの」よりもはるか広範囲にわたっていた。具体的にはまず「紐状のもの」に思いをいたすべきであった。
すなわち、紐、糸、帯などは「一本、二本」と数えるのである。
しからば「本で数えるものは長細いものである」とは言えないだろうか。例えば道や線路、隧道、河川なども「本で数える」のだが、これらはいずれも「紐状のもの」とも言えそうだが、全般的な内包はやはり「長細く続いていくもの」ではないか……?
抽象的な棒
しかしやはり「本で数える」ものはみな「細くて長いのだ」とは言いがたい。具体的な形状を持っていないものをしばしば「本で数える」のである。例えば「論文」などは「三本」書いたなどと数える。何か文学作品や文芸著作物はいずれも本で数えるのである。映画・演劇、小説・脚本・戯曲・マンガ・絵巻物、論文、写本、ルポルタージュ、リポート、はてはゲームソフトも一本、二本と数える。ゲームソフトの物理的媒体はたいていディスクかカセットだが、そうした物理的形状には一顧だに無い。ゲームは一個でも一枚でもなく、やはり一本なのだ。
もっと抽象的なものでもよい、例えば案件、企画、議案、契約、プロジェクト、これらはいずれも一本と数える。意味深長なのはいずれも「立てる」ものである点だ。しかし映画、小説、論文などのグループに入るのは疑いない。証明書・書簡・速達も一本と数える例がある。何か知的、文化的、芸術的生産物で「本とは数えないもの」を考えた方が足しになるだろうか。絵画は本では数えまいが、音楽となると微妙である。交響曲を一本書いたなどといえそうだ。あるいは俳句や短歌は本では数えないが、これは一句、一首という数え方の定着度が高いからに過ぎないからだろうか、それとも俳句・短歌の短さが「本」で数えるものの内包に抵触するのだろうか?
先に触れた「長く続いていくもの」という内包はまだ保たれているようだが、具体的・抽象的とを問わず「長く続く」なら「本」で数える対象となるのだろうか、ここで面白いのが次の例:電車バスの運行便数。電車バスの路線を一本、二本と数えるのはいいのだ、それは自明である。道路のバリエーションの一部と言ってもよい。ここで問題にしているのは「この路線は一日に三本しか往復しない」などと便数を数える場合なのである。この場合、一便いちびんが「長く続く」から「本」なのだろうか。
もう一つ細長さについて意味深いものとしては野球シリーズがある:ヒット・ファウル・バント・ホームラン・フライ、野球からは離れるがフリーキック、体操などの試技。ホームラン一本などは、ことによると客席へと届く打球の軌跡が「長く細く続く」と意味付けもできそうだが、それならばバントはどこが細長いのか? 三振や四死球などは本では数えないが、こちらは短いのか? まさかバットが絡めば長いとみなされるのであるまいな? そういえば振り逃げは一本と数えるだろうか。盗塁はどうか? ストライクやボールは単独では一本とは数えないが「ストライクを二本続けて放る」などとすれば「本」で通る。シュートもパスも一本であるところを見ると、やはり球の軌跡が問題なのだろうか。
電話はどんな時に一本となるか
ここできわめて意味深長な対照例が飯田朝子『数え方の辞典』に指摘されている。電話についてである。電話線のことではない、回線を一本と数えるのは紐のバリエーションから自明とみていいだろう。問題はむしろ通話なのである。
「電話を三回かけた」というの言い方がまずある。「三度」でもいいだろう。「三回かけたが先方は一度も出なかった……」などと使う。ところで「電話を三本かけた」の方はどうだろうか。「三本かけたが先方は一度も出なかった」と果たして言えるのか、ここが大問題である。どうも「三本かけた」の方は「先方が出た」ことを意味に含んではいないだろうか? 「彼は電話一本で問題を解決した」。先方が話し中だったら成立しまい。三本の電話は……相手に話が通じたことを前提にしていないだろうか? ここに「本で数えるもの」の本質がほの見えてきたように思える。
すなわち「本で数えるもの」には「細く長く続く」という外形的あるいは抽象的な性質に加えて、「首尾が整った」という含意が必要なのではないかという疑いがある。繋がらなかった電話は回数は三回でも「三本の電話」とは言いがたいのである。
しからば「本で数えるもの」とは、棒状でも紐状でも抽象的なものでもよいけれど、「細長く続く首尾の整ったもの」という、直感的には意外なほどに踏み込んだ内包を抱えていることになる。首尾が……つまり始めと終わりがあって、ある種の果たされるべき目的があって、そして細長く続いているもの——なにか一件についての価値判断というか、評価が混入してきている。「鉛筆一本」からはずいぶん遠いところまで来てしまった。
〆の一言
首尾が整っているか、そんなことまで判断しなければ「本で数えるもの」の対象、その外延は網羅できないのだろうか。だとすればこれを「ひとまずどういう風に数えるのか教えて下さい」と言っている外国人にどう伝えよう。マリーだったら定めし「そんなことまで考慮に入れなければ、数え方も選べないのですか、おかしいです!」とでも悲鳴を上げるのではないか。
なんとかしてこのエントリーに首尾を調えなければ、「一本」の記事たりえないという遺憾な結論に辿り着きつつある。どうすれば一文の結構を首尾よく纏められるのか。
ここはいささか勇み足でも強引にお開きにしておくしかあるまい。
というわけで、このエントリーはここで閉じることとします。立派な結論にも達することが出来ず、最後はぐだぐだになってしまいましたが、なんとか「これで終わり」という形にまとめたいものですね。こういう時はどうすればいいのか……やはりあれだろうか、三本〆。
ではお手を拝借、しゃしゃしゃん、しゃしゃしゃん、しゃしゃしゃん、しゃん、と。はい、ご静聴有り難う御座いました、これでひとまず首尾よし、と。
まてよ、でも三本〆って、どうして「三本」なんだろう? そして何が細長くて、どこに首尾があるのかな?