新世代が解く!ニッポンのジレンマ「大学のジレンマ?教育のジレンマ?」 2015.04.26


「教育」。
それはいつの時代も社会を映し出す鏡。
春4月今月のテーマはずばり…討論の舞台は品川にある京都大学東京オフィス。
独創性を重んじる学風で世に知られる西の最高学府京大。
その東の拠点だ。
京大OB・OGを中心とする若者たちがギャラリーとして見守る。
(青井)石井英真さんです。
よろしくお願いしま〜す。
(拍手)アメリカアジアヨーロッパさまざまな教育を受けてきた経験を持つ新世代がグローバル時代の大学日本の教育のあるべき姿を巡り議論は白熱する。
(拍手)日本に住み始めて22年以上がたってますが今の…更に元東大総長小宮山宏が今だからこそ本音で舞台裏を語る。
大きく言うと…誰もが通り抜け関心を持たずにはいられないテーマ「教育」。
さまざまな角度から大学を教育を語り尽す90分あなたも参加して下さい!「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」今回のテーマは「大学のジレンマ研究」という事なんですが教育に関するジレンマこれまで多々やってきましたけれどもこのテーマいかがですか?教育を語るってやっぱり難しいですよね。
実験がなかなかできないじゃないですか。
実験して効果が分かるのがすごい先だからほんとにそれが教育のせいかどうかも分からないしだからそれで結局実験して失敗してまたやってというのを繰り返してると結局何も測れないまま終わっちゃうんで教育改革ってすごい難しいなって気もするんですけど。
だから今日も議論の結論が見えない事は見えてますよね。
いやいやいや!それを目指していきましょうよ。
それではこの討論の取っかかりとして論客の皆さんそれぞれに大学入試に対する個人的な体験や思いなどを伺っていきたいと思いますが皆さんはどんな教育が今の自分を支えていると感じているかという事を5人の方に聞いていきましょう。
まずは石井さん。
私はですね淡路島というふうなね小っちゃい片田舎に生まれて。
日米の教育カリキュラム研究が専門。
今回ゲストの中では唯一の教育学の専門家。
討論の場となる京大で教鞭をとる石井がホストとして議論をリードする。
創造力なり創造性みたいなそういう限定されたもの…。
そういうどっちかというと教育というのは今の現状の「詰め込み」とか「知識偏重」とかって言われてますけれどもそういう共通な知識を習得するというふうなそういうのの恩恵を結構受けてきた方かなっていうふうに思ってるんですよね。
だからどちらかというと既存の学校教育に対してはまあまあ比較的肯定的な部分…。
もちろん課題もあると思いますけれどもそこで学んできたとこが大きいなと思います。
さあ続いてはパックンです。
僕3年生の時に先生に…。
小学校3年生ですよ。
先生に「ルネサンスマンを目指せ」と言われて。
ハーバード大学を卒業後日本でお笑いコンビ「パックンマックン」を結成し活躍するという異色の経歴を持つ。
「マガジン」の発音かっこいいっすね。
マガジーン!現在は東京工業大学の非常勤講師も務め日米を股にかけた体験から独自の教育論を語る。
ルネサンスマンというのはまあダ・ヴィンチみたいに理系にも芸術にも政治にもたけてる。
もうできない事ないぐらいのオールマイティーなそういう人がいいと。
僕はそれをほんとに胸に焼き付けて理系も文科系も芸術も音楽もスポーツも全部必死にやって結果的に全部中途半端なレベルなんですけどもう基礎ができてるから何かの専門家にならなくても何でもできる。
まあマルチタレント気質になったんですね。
何来てもオッケー?
(パックン)そうなんです。
教育体制がずっと小中高大まで続いたんですね。
結局ハーバード大学で…。
(せきばらい)失礼。
(気取った声で)ハーバード大学で…。
(笑い声)比較宗教学部という学部を専攻したんですけど比較宗教業界というものそんなに存在しないんですね。
これっていった仕事は絶対できないんですよ。
でもそのかわりに幅広いいろんな仕事ができるようになって助かってるなと思います。
アメリカの学校ですよね全部小中高大と。
どの時期が一番重要だったなって感じですか?幼稚園かもしれないですよ。
幼稚園の先生デイ・ホープ先生という方がいまして僕の性格をうまく見極めて。
僕多動症ぽかったらしいです。
もう落ち着かない。
(笑い声)今もそうなんですよ。
ちょっと頭の固い先生だったらそれは学級崩壊につながるから困るよと先生を呼び出したり特別学級に入れられてたかもしれないです。
でもその先生は「パトリックは落ち着きのないパワーがあるからみんなが違う事やってる間あなたは本読んでてもいいよ。
何か組み立ててもいいよ。
絵描いててもいいよ。
あなたは自分の研究をしていい」と言われてそのデイ・ホープ先生のおかげでハーバード大学…。
(せきばらい)
(気取った声で)ハーバード大学に入れたんですよ。
ちなみに入学した時は幼稚園の先生に連絡して「おかげさまで入れましたよ」と言って。
今日ちょっとパックンがいる事でアメリカの学校というものもちょっと視点で入れてもらえればなと思いますのでよろしくお願いいたします。
そして続いては藤井さん。
一番大きかったのが海外に中学の時に行きましてそれはドバイという所なんですけれども。
青山学院大学卒業後ベトナムやシンガポールでウエディングの新事業を企画。
アジアで受けた教育から発想する新世代の起業家。
ドバイでは何があったんですか?
(藤井)そもそもはずっと日本に住んでたのでまず価値観の違う人たちだらけの中に放り込まれたというのが一番大きかったかな。
当たり前の事が全く通じない所に入って。
当たり前の事が通じないとやっぱり自分の価値観を広げるしかないという。
無理やり強制させられるのでまあそういう意味で自分の価値観がそこで広がったっていう経験が私にとってはすごい良かったかなと。
逆にそれで日本に帰ってきてなんか「日本狭い」とか思わなかったですか?あっでもそんなに思わなかったですね。
ドバイのインターナショナル・スクールの人たちっていろんな…。
特にアラブ人とかインド人とか多かったんですけどすごく自分の国に誇りを根拠のない自信を持っていてそれ結構大事だなと思って。
みんなすごく愛国心があるという所の中で育ったのでなんか逆に日本を誇りに思う機会がすごく多かったっていうのはありますかね。
日本に貢献したいなって気持ちはその時に芽生えましたし。
その経験があって今自分で会社をやられてると?
(藤井)そうですね。
原点になってるかなとは思います。
そしてお隣岩瀬さん。
僕も帰国子女でして小学校の頃イギリスにいたんですね。
東京大学法学部在学中に旧司法試験に合格しその後…インターネットによる生命保険会社を興し新たな価値を創造する人材教育について考える経営者。
やっぱりあの海外の経験ってすごく影響してるなって思います。
イギリスの学校で日本人1人だけだったのでやっぱり行った頃はですね典型的な日本人の子供で「みんなと同じじゃないと嫌だ」と泣いてたの覚えてるんですね。
初めての遠足で親からおにぎり持たされてですねそれでイギリス人に「なんでそんな黒いの食べてんだ?気持ち悪い」っていじめられて帰ってから「次から絶対サンドイッチにして」って言ったの覚えてるんですよ。
でも振り返ってみると今だとみんなと同じだとすごい気持ち悪いんですね。
なのでいつもみんなと違う道を選んできたつもりなんですけど。
いつからか人と同じじゃない方がいいっていうふうに自然にそうなってったんだなぁと思います。
あとイギリスで覚えてるのは正解がない教育をするというか。
例えば歴史の授業でですねみんなでコスプレして昔のお城の戦争があったとこに行くとか。
あとサッカーもですねレベル別だったんですけどサッカーうまい子たちは普通にやって下手な子たちは違うルールでハンドしていいとかファウルしていいとかベストプレー賞とかベストファウル賞とかそういうのでみんなが盛り上がれるようなふうにしていたので日本の「競争はいけない」みたいのに対してまた違う形でイギリスらしい形でやったのかなぁと思います。
ちなみに岩瀬さんって学級委員長とかやった事あるんですか?僕やった事ないんですよ。
学級委員長キャラだから学級委員長やった事あるのかと思ってました。
僕一回もないんですよ。
(パックン)何部だったんですか?僕はですね中学サッカー部で高校は帰宅部でしたね。
高校の時は何してたんですか?高校の時はですねジャズ喫茶に入り浸ってました。
(パックン)ジャズ喫茶に!?超おしゃれっすね。
(岩瀬)あと28の時に社会人大学院にハーバードに…。
(気取った声で)ハーバードに行ったんですけどその時のやっぱり一番印象に残ってるのが「リスクをとって挑戦する人はかっこいい」みたいな価値観をすごいたたき込まれて。
やっぱり生きていく指針というかどういう生き方をしたいのかっていう事をディスカッションしたり問いかけられた事がその大学院での一番の収穫だったなと思ってます。
図らずも海外でね影響を受けたっていう感じになってしまいがちだから「日本が駄目」みたいに聞こえちゃうけれどもそんな事ないと思います。
ちょっと先崎さんにその辺り…。
まあ僕は純国産ですから。
(笑い声)東京大学文学部倫理学科卒業。
論壇に新風を吹き込む思想家。
地方大学で教鞭をとる経験をもとによりリアルな教育改革論を提言する。
まあ都会というか埼玉の下の方でほぼ東京と隣接してるとこで三多摩地区という所で普通に中学の塾に行って受験勉強をしっていう事なんですけど。
中学受験で失敗しましてきつい新興進学校に入って受験勉強大学受験に向けてというのでものすごく尻たたく学校に入ったんですよね。
そこは6年間…高校を経て大学受験する学校だったんですけどそこにいるのが耐えられなくてそれで大学の付属を高校受験をして入って立教大学の付属高校入って結局もう一回受験するというですね実は中高大と全部受験をしてるんですがその受験で尻をたたかれて非常に窮屈な思いを自分でしたのと同時にものすごくやっぱ自由でそこには独自の男子校文化も含めてその高校時代の3年間というのは非常に僕の心の中のよりどころになっているんですね。
中高大受験したって事ですけど受験好きなんですか?大っ嫌いですね。
(笑い声)まあそれぞれ今日5人の方いろんなバックグラウンドがあると思うんですけどその経験をもとに話していきたいと思います。
そろそろ本題に入っていきますがまずはこちらをご覧頂きましょう。
ジャン。
まあ文字量が多いんですけどこちら今年の1月文部科学省が策定しました「高大接続改革実行プラン」というものなんですが。
こちらがその改革案の抜粋。
高校教育大学入試大学教育にまたがる。
中でも注目されるのは従来とは評価基準を大きく変えた新たな大学入試。
面接記述論述式試験などで思考力や判断力主体性多様性などを多元的に評価し「生きる力」の育成を目指すとされている。
古市さんどうですか?この。
「学力の三要素が大事」って文章では言ってるんですけどその三要素ってのが「知識技能思考力判断力表現力主体性多様性協働性」って3つに絞りきれてない気がするんですけど何なんですかこれは?いやいや。
僕文科省の人間じゃないんでちょっと分かんないんですけど。
でも石井さんこれは何か目的があってこういう事したいわけですよね?文科省とか国というのは。
「高大接続改革」なんですよ。
だから高校と大学をどうつないでいくかって話なんですね。
その時に今までの日本の社会というのは基本的に入試っていうので…。
要は高校までの学力あるかどうかっていう事を確認して大学への選抜によってつないでいくって事だったわけですけれども要は今の状況ってのはその日本型のシステムがうまくいかないっていう事でどう変えていけばいいのかって話なんですよね。
具体的に今何がうまくいってないんですか?
(石井)一つは学力テストを経て入ってくる学生っていうのが十分に大学での学習に適応するようなそういう力をつけてるのかどうか。
更に言うとこれから大学から社会っていうふうな事の接続を考えた時に社会が求めるそういった能力っていうのと大学が今まで大事にしてきたものとの間にズレが出てきてるんじゃないかっていうそういうふうな事があってそれに合わせて単なる知識を習得するというだけじゃなくって思考力判断力表現力も大事になってくるのでそちらの方に重点を置いたテストをやっていきましょうというそういう事だと思うんですね。
昔だったら上から命令されてる事をやるような企業戦士つくってればよかったけれどもそういう時代じゃなくなったからこの大学入試も変えてかなきゃいけないっていう。
…というのが一つですね。
(パックン)1つ質問していいですか?落ち着きがなくて申し訳ないですけど。
そもそも日本の大学の目的は何だったんですか?僕日本に来てからはもうみんなから言われてるのは日本の大学は入りにくくて出やすい。
勉強しなくても…ね?勉強してなくても…。
今青井さんをさしていましたよね。
失礼ですね。
僕勉強…まあしてないかもしんねえですね。
そもそもその4年間何もしなくて卒業できる大学の意味合いは何だったんですか?
(石井)意味合いが結局大学っていうのがもともとは社会とか仕事の状況とか企業とか社会に出るっていう事とつながってなくてよかったんですよ日本の場合は。
大学生であるという事である程度のレディネスというか一定の条件は多分あったんですよ。
その上で大学って…。
例えば京都大学なんていうのは自由な学風というので有名なわけですね。
はっきり言って僕が96年入学ですけどその時の経験からすると入った途端放ったからしなんですよ。
昔は京都大学って同じ時間…。
例えば月曜日の朝9時からの授業なのに2コマとれたという。
あっあんまり言っちゃ駄目。
(笑い声)それは今はございません。
今はございません。
けどもそういう事もあったぐらい要はそれが何かっていうと授業来なくても学習できるでしょって話なんです。
だから要は大学というのはかつては教育機関というよりも学習機関というか。
教育機関というのは結局学ぶ学ばないというのは教える側の責任なんです。
学習機関というのは学ぶ学ばないは学ぶ側の責任。
どちらかというと京都大学なんていうのは学習機関だったんだろうと思います。
だからどっかで学べばいいんです。
今私が言うとまずいかもしれませんけど。
先崎さんなんか教えてる立場でもいらっしゃいますけれどもどうでしょう?
(先崎)今のお二人の話を踏まえながらしゃべると本来の日本の大学の始まりというのは明治時代もそうだしそれから戦後もそうなんですけれども教養主義みたいのが一つ大きな核なんですよね。
それは何かと言うと簡単に言うとスーパーエリートなんですよ大学生って。
その人たちが例えばドイツ語の原典を読む事によって自分の人格を形成していくみたいな事が一つ極めて重要な能力としてあって例えば戦前なら西田幾多郎の「善の研究」っていう哲学書は難しいけど読んでいる事がステータスであるというようなのが大学のイメージとしてあったんですよね。
だけどそれが戦後の高度経済成長期以降になると大卒の資格を取るっていう事が極めて大事になってきて大学の大衆化っていうか大衆社会化になっていくと全くそういう事が意味を…どんどん崩れていく社会になっていくんですね。
教育は常に時代の要請の中模索されてきた。
戦後民主主義の担い手を育てるべく新時代のエリートを生むための狭き門としてスタートした大学。
しかし高度経済成長期にさしかかり日本が企業社会へと姿を変え産業国家として先進国に肩を並べようとする頃になると大学進学者は急増する。
70年代半ばには大学進学率は40%近くまではね上がった。
こうした大学の大衆化の流れの中で日本の教育制度を特徴づけてきたのが…学力を測る物差しとして機能し大学の序列化が進みいい大学からいい会社へという価値観が広まった。
同時に受験戦争が激化する中「学力コンテスト」とも揶揄される評価基準は一面的だという批判の声も上がる。
だが偏差値は導入からおよそ50年がたつ今でもほぼそのまま大学入試の指標として使われ偏差値ランキングという日本的な価値観は社会全体に根づいているかに見える。
これまでは大学教育といったのも目標論とか目的論みたいなものを問わなくてもよかったんですよ極端な話。
でも今はそれは大学で何かを身につけて企業とか社会に送り出していく…そこのつなぎをちゃんとやっていかなきゃいけないだろうというので改めて「大学で何やってるんですか」って話になるわけですよね。
でも大学と社会がちょっとずれてるって事は多分もう結構前から言われてると思うんですね。
その中でいろんな大学も改革とかしてきたと思うんですけど今までの改革ってやっぱり駄目だったんですか?この大学と社会とか仕事につないでいこうっていうふうな改革自体はそんなに歴史は浅くないと思いますね。
2000年代以降そういう事がすごく言われるようになってきたとは思うんですけど今ちょうどその改革の途上だとは思います。
ただでも注意が必要なのかなと思うのは大学が専門学校化するじゃないですけれどもいわゆる社会からの要求…「即戦力」と言われた時にそれは果たして大学らしさとしてどうなのか大学ができる事なのかなとは考える必要があると思います。
すごいそういうお話聞いてて思ったんですけど今大学生とも結構インターンで…。
逆に企業に来てもらったりする事もあるんですけど採用する側として「大学で何をやってきたんだい?」と言った時に「インターンやってました」とか「世界一周してきました」とかそれが評価されるみたいになってしまっているから大学での学んでる事と大学に入って何をしたかという事があんまりリンクできない…。
まだ発展途上なのかもしれないんですけどまだ実情があるのかなというのはすごく思いましたね。
じゃあ「大学で勉強頑張ってます」という人はあまりインターンでもとりたくないですか?もちろんそんな事はないですがそれを語ってくる学生が少ないんじゃないかなという…。
評価されると思わなかったんでしょうね。
割とそこが分かりやすくみんな就職活動でいい仕事をしたいという考え方がまだまだいまだにあるからそうなっちゃってるのかなという気はしますね。
岩瀬さんも採用する方ですよね。
聞いててちょっと分かんなかったのは教養主義とか知識偏重がいけないと言ったとしてじゃ大学卒業する人がどれだけ知識があるのかっていうと決してみんな教養あふれて卒業するわけじゃないし知識持って卒業するわけじゃないのでそもそも方向性の問題というよりもきちんと定着するようにやってない事が問題のように思ったんですね。
それは何との比較かというとアメリカの大学院に行った時に先生がものすごく教える事に努力するんですね。
3時間の授業のために8時間予習したとかですね。
どうやって面白く教えるかと。
「白熱教室」みたいな世界ですよね。
じゃあ東大法学部の授業はどうだったかというと一流の研究者の先生が広い教室で黒板に向かって独り言言ってるみたいなそういう感じなんですね。
教えるっていう事に十分な努力とインセンティブがないっていう事が問題のような気がするんですね。
その次に何を教えるかというのがあるんですけどそもそも教えてないという事が問題だったように思います。
結局何を教わったのかほとんど忘れちゃいませんか?この前たまたま東京の公立高校の入試試験見たんですけどなんか示準化石とか示相化石とか出てきてそんな事は中学校で勉強した以来一回も使った事がない知識だったからあまり分かんなかったんですよ。
そもそも教わった事が定着…それ自体なかなか難しい気もするんですけど。
それについていいですか?僕が思うのは小学校中学校とかで学んだいろんな知識っていうのはもう空気とかなんか当たり前のもののように自分の中に多分残ってるんだと思うんですよ。
だから「示相化石」とかそういう個別の項目は忘れちゃっても「化石」っていうふうな事にいくつかまつわるそういう概念…そういうものは多分残ってるんだと思うんですね。
物の見方としてね。
だからむしろそういう事を大事にしていくっていうのが必要だと思いますし恐らくそういった教養っていうのと実力みたいなものの間というのはそういう物の見方とか考え方。
ここをどのように育てられるかという事だと思うんですよ。
多分この辺がこの改革の芯に当たる部分だと思うんですね。
結局大学で何を身につけてほしいのか。
知識あって損はないですよ。
もちろんいい事なんですけど30〜40年前に比べては知識っていうものがものすごく手に入りやすくなってそこら辺の博士よりこのポケットに入ってるスマホの方が全然頭いいですね。
知識でいうと。
でも情報をもらって処理してまた出力する。
この作業はいまだにパソコンにはできないものであってインターネットには任せられないもの。
ですから知識を持ってどうするのかどう考えるのかどう伝えるのかその辺のコツやり方そういうのを大学を通して身につけなきゃいけないと思うんですね。
この中身をこのあとも話していきたいなと思うんですけどどうすれば知識偏重であったり偏差値偏重みたいなものを抜け出す事ができるのかというのをこんな方にお話を伺ってきたのでここでVTRをご覧頂きたいなと思います。
総長時代には東大改革にも取り組んだ小宮山にまずは今回の高大接続改革実行プランについて率直な思いを聞いた。
大きな方向としてね自分の頭で考える人間をつくりたいとかいったような大きな方向観というのは正しいと思うんですね。
ただ非常に難しい問題だと。
社会全体の大きな流れの中にある背景の深い問題で大学入試にあんまり全てを期待するみたいな事は難しいかなと。
非常に分かりにくい時代に入ってるっていうね。
人類の大きく言うと歴史の転換期にあるという事だと思うんですよ。
それは何かっていうとこれまでず〜っとね「もっと豊かになりたい」。
一番…ほとんどは「食べたい」って事ですよ。
食べ物に苦労したくないという。
日本でも江戸時代の終わり頃でもう84%農民ですよ。
ですからほとんど食べる物を作っていたというのが歴史だったわけです。
だけど先進国のほとんどの人っていうのは欲しい物を大体持つ時代…。
つまり豊かになっちゃったんですね。
その目的を一応達成しちゃうと社会全体として100%ではないけど相当部分が達成してしまうとこのあと社会の目標をどこに置こうか難しくなりますよね。
その中で個人の目標も難しくなるわけですよ。
そうした事が「自分の頭で先を考えなさいよ」「自分で判断してやっていく人間が必要ですよ」ってなってきているわけでこれは正しいと思うの。
だけどじゃあそれをどうやるかっていうのは極論すると今まさに人類全体が挑戦してる話ですからね。
そんなに簡単な事ではないだろう。
そんな意識ですね。
自分の頭でものを考えるって事の難しさっていうのは多分教育っていう事と矛盾する面もあるんだと思うんですよ。
教育ってある程度幅を狭めちゃうというような面はどうしてもありますよね。
教えるから。
「これはこうやるんですよ」って教わるから。
だけどももう少し自由な発想っていうものを持とうというのが創造力の一つですよね。
だから教育すると創造力が減るって面もある。
だけども一方で昔から創造力って何だろうって議論があるんですよ。
多くの人はくっつける事だっていう…湯川秀樹なんかもそう言ってますよね。
こっちの知識とこっちの知識をくっつける事で新しいものが生まれてくるという。
これがかなり正しい事だと思うの。
だけどそのためには複数の知識知らないといけないわけですよ。
だから知識なしでね創造力が生まれるという事はありえないわけです。
東大では理三…お医者さんを養成する所ですね。
あそこが随分長く面接やりましてねどれぐらいやったんでしょう20年ぐらいやったんですかね。
それはできる子は入ってくるんだけれどもお医者さんになりたいのかどうか分からないっていったような状況が生まれてきましてね。
やっぱり面接をして個人を判断しなくちゃいけないという事でやったんですけど結局結論から言うとね受験対策に負けたんですね。
塾なり受験体制がほぼ完全に対応しちゃって何聞いても駄目。
面接って結構難しいですよ。
なんかいい人創造力のある人を選ぶなんて言ってるけど本当に選べるのって言ったら誰が選べるんですかという。
どうやって選び出すかはそう簡単な問題じゃないですよね。
ハーバード大学…みんな世界で一番だと思ってますね。
ハーバード大学はあそこに入学許可された学生の今多分2割近くが他の大学に行っちゃうと思いますよ。
抜けちゃうっていう事。
ちょっと日本じゃ考えられないでしょ?東大では3,000人ぐらい合格した人で抜けるの10人ぐらいしかいませんよね。
アメリカはリベラル・アーツ・カレッジなんてのがたくさんあってね教養やってる所だの経済だったらシカゴがどうだとかいろんな所にいろんな面でのいい大学があってハーバードが別にトップじゃないんだよ。
だから2割が抜けるみたいな事になる。
だけど日本の中ではそうじゃなくって縦だと思ってますよねみんな。
…というのは日本の特徴なわけです。
その中で若い人が何か考えたってね上の人に遠慮するじゃないですか。
これは創造力との反対ですよ。
だからグーグルなんて生まれませんよ。
フェイスブックも生まれませんよ。
今やってる事って日本人が苦手としてきた事。
それを若い人にやってもらおうと。
みんななるべく同じに調和を乱さないようにやろうとしてきた…これは別に悪い事だって言ってませんよ。
だけどこれと創造性っていうものをね一緒にやろうっていうのはね歴史を変える事ですよ。
「歴史を変える事です」と。
今まさにやろうとしてる事なんですよね。
で「ハーバードはトップじゃない」って。
(笑い声)その辺は全く意味分かんないけど大体おっしゃってる事は正しいと思いますよね。
「大学を変えよう」と言ってるんですけどこの社会が変わらないと大学も変わらない。
小中高の教育が変わらないといきなり大学から変えるのも難しい。
インタビューの中でも「創造」なんていう話がありましたけどメールも来ておりまして本棚の上のパンダさん25歳の男性の方です。
メールが来ております。
「創造性」「創造力」。
そもそも創造性とか創造力って何なんですかね?すごいふわっとした言葉じゃないですか。
ふわっとした言葉ほど何か言った気になって結局何も言ってないって事が多いと思うんですけど。
私が思う創造力っていうところで基本的には0を1にするか何かイノベーションをどこかで起こして改革を起こすかっていうところだと思うんですけど基本的にそういう時ってすごいしんどいと思うんですよ。
要は普通に楽に生きてく事もできるのになんかちょっと苦しい思いしないとやっぱりできなくって結局そこって私が思うに自分の持ってるマインドというかその危機感みたいなところをどこで育むかっていうのはそれは個人の生まれ育ちかもしれないしもしかしたら外部的な環境かもしれないし。
あんまり教育機関に期待はしてないって事ですか?どっちかというと自分でそこは本来なら持つべきものではあるのかなとは思ってるんですけどね。
大学の時にタイにボランティアに行った時に結構いろんな国の人が来てたんですけどドイツ人の人とかヨーロッパの人は結構面白いなと思ったのが高校から大学に行くまでに1年間休みがあってモラトリアムみたいな感じで休みがあってそこで大学で何学ぶかを決めるみたいな感じの話を聞いてそれがなかったら何も考えずにそのまま進んで大学に行くという感じなんである程度レールに乗っかってる方がやっぱり楽だし楽な方向に行かないで一回ちょっと立ち止まってみるみたいなのが結構面白いなと思って。
今こう考えてて何を理想としてるのかっていうので例えば今小宮山先生言われたのはグーグルのような会社とかアメリカのシリコンバレーをイメージしてるとするんですけどグーグルつくったの誰かっていうとロシアから移民してきた人ですよね。
だから別にアメリカで教育を受けたわけじゃなくてシリコンバレーの多くの人は世界中から集まってきてるので決して僕はアメリカの教育が創造性を育んだとは必ずしも言えなくてむしろ例えば多様な人たちが集まってぶつかり合えてそういった人たちが評価される社会の土壌みたいなところが支えてるような気がするんですよね。
今すごく重要なシリコンバレー僕実はほんの数か月前までシリコンバレーの方に半年なんですけどねあの周辺にいてそこでふと思ったのはですね創造力っていうのは個人の持ち物なのかどうかという気はしたんですよ。
だから今本当に岩瀬さんがおっしゃったようにむしろそういう創造力とかっていったものが…なるものがあるように見えるようなそういう場だからいろんな異質なものが出会う場っていったものが多分大事なのかなって。
それは教育の問題というよりもむしろ社会全体とか日本の文化全体をどう組み替えていくのか。
どういうコミュニケーションのそういった場っていったものが日常的にあるのかとかそういう場の担い手をどのようにつくっていくのかというのはそういう事なんじゃないかなって思うんですよね。
僕は今のお二人の発言を聞いてちょっとね…というか警戒心というんですかねちょっと怖くなってきたのは創造性というのはそもそも育てられるものじゃないよとか社会が変わらないと生まれないよとか言ってしまったら改革始まらないんですよ。
知識と同じように創造力創造性を育む教育はあると思うんです。
実際にアメリカの学校で例えばロールプレーイング。
「あなたはお医者さんあなたは患者さんあなたは患者さんの弁護士さんでお医者さんを訴える人とかそういう設定出来ました。
やりましょう」っていう。
その場でセリフも何もない台本もない状態で考えて想像して展開を作らなきゃいけないというような教育を実際に受けてるんですよね。
そういうのをやるかやらないかが大きいんです結局は。
そんなに創造力持ってる人必要なんすかね?そう日本中がパックンみたいになったら大変なわけでしょ?
(笑い声)確かに面倒くさいと思いますよ。
先崎さんいかがですか?学校の教育に対して今回の文科省の答申もそうなんだけど過剰な期待をしてるんですよね。
だけど学校というのはさまざまな人間の生活のごく一部分を担うべきであってしかもある意味においてですよ基本的な平均的な知識あるいは平均的な人前における態度とかを学ぶっていうアベレージを作ってあげる場である。
そこを押さえておかないとなんか学校にとてつもないエジソンとかが生まれてくるみたいな事書いてあるけどエジソンがいたら大変だし。
大変ですか?何が?いい事じゃないですかエジソンがいるぐらい。
(先崎)エジソンが恐らく出てくるのはそういった一般的な教育というのがかなり強くあった時にそれに対して違和感があったりそこからこぼれ落ちてもはい上がってくるとかそのぐらいの力がないとエジソンは出てこないと思うんですよ。
結局エジソンはアメリカの小学校から追い出されてお母さんに教えられてた。
それでも俺はやるんだというぐらいの気の強くかつ努力ができて才能があるとかさまざまな要素を持った人がエジソンになったりパックンになるわけであって。
並べられた…!反論できなくなったどうしよう。
(岩瀬)今聞いてて思ったんですけどビル・ゲイツもマーク・ザッカーバーグも大学もう中退してるんですよね。
大学がすばらしいから生まれたわけじゃないというのと大学に何を求めるのかそれ以外に何を求めるのかって結構考え方として大事だなと思いました。
この入試選抜改革を見ててちょっと思った事が法律家の…弁護士を増やすっていう法曹改革に少し似たものを感じていてそれまでは司法試験はすごく難しいもので毎年700人しか受からないすごくプレスティージャスなものでしたと。
だけど日本にはもっと法律家的なマインドを持った人が必要なはずだと。
という事で試験の体系を変えて大学院とかたくさんつくって弁護士の数を3倍ぐらいに増やしたんですね。
でもそうしたところ弁護士の需要が使う側が3倍増えてるわけじゃないので今どうなってるかというと若い弁護士仕事なくて困ってると。
というので少し似たものを感じるのは壊れてないものまで直そうとしてないかなという感じがしていてやっぱり過度に期待し過ぎたりそこを大幅に変えちゃう事が本当に間違ってないものまでひっくり返してしまうリスクもあるんじゃないかという事を少し思いました。
なんか今日話してると結構暗い…。
じゃあもうこれ失敗するって事ですか?
(笑い声)確かにいろいろと課題はあると思うんです。
ちょっと今よりはマシになるんですか?マシ…まあいろいろ過渡期ですね。
今まで要は理念不在で大学準備予備校化していたような高校を変えていくそのきっかけにはなるかなという気はするんですよね。
ただしこういう形で大学入試のテストに思考力を測っていそうな問題を入れるというのは劇薬的な改革なんですよね。
だから一過性のそういったチェンジしていく時の最初の部分としてはそういうのはありかもしれないけどもこれが恒常的に続くとなると劇薬は毒になりますからだからその辺りが非常に危険かなという気はするんです。
記述式問題とか考える力を測る問題を入れましょうというのは要は高校とか中学とかそういった学校の先生方にこれからの「学力像」といったものを提示するそういうふうな意味合いが多分かなり強いんですよね。
でもそれであれば入試っていう形で無理をしてそこをゴリゴリやっていくのが果たして妥当かどうかってのはちゃんと議論した方がいいかなと思うんですけど。
行ったり来たりするようななんか今波とかぶり返しとかいろいろ感じてるんですけど改革必要ないと思われてる方いますか?じゃあ僕あえて議論のために言うと入試が問題なんだろうか?と。
今の入試の仕組みがですね。
そうじゃなくて大学入ったあとにきちんと勉強し続ける仕組みになってない事の方が大きいような気もしています。
ビジネスマンの人分かると思うんですけど仕事しだすと勉強しなくなるんですよね。
勉強しないというのはつまり学生の頃のようにう〜んと頭を使って必死に暗記してた頃のあの感覚あるじゃないですか。
ああいうのって普通の社会人やってるとほとんどしなくなりますよね。
だからそういった意味では無理やり暗記するとかあの頭をすり減らすまで使うっていう感覚自体が僕はそんなに悪かったと思わないんですね。
むしろそれがゴールになってそれで終わってしまっているって事はもちろん問題だと思うんですけど逆に言うとこれをやったら急にグーグルとかフェイスブックみたいな会社が出てくるかというとそんな感じもしないので過度に受験勉強とか試験を問題視していて過度にそれを解決する事でいろんな事がよくなるんじゃないかというふうに期待し過ぎてるような気がしていてここじゃないところの方が大事なんじゃないかというのをあえて議論のために申し上げたいと思います。
何を変えず何を変えるべきなのか?より実効性のある教育改革の道を探るべくこれからの社会はどんな人材を求めどこへ進もうとしているのか討論を深める。
せっかく今日経営者の方もいらっしゃいますから岩瀬さんなんかはどんな人材を求めているのかななんていうのを聞きたいんですけど。
そうですねやっぱり主体性を持ってですね。
(笑い声)やっぱり自分で…問題とか宿題を与えてやってくる人はいくらでもいるんですよね。
そうじゃなくて自分で何をやるべきかとかここをもっと変えるべきだと思って問題設定して行動できる人っていうのが一つじゃないかと思います。
でも主体性だけあり過ぎてもウザくないですか?
(岩瀬)それはあってですね我々採用する時に「自分の頭で考えられる人材を」というのをうたっていて最初にすごく「重い課題」って呼んでるんですけどちょっと難しい論文を書かせるんですね。
そうすると入ってくると「これやって」って言うとすごい自分の頭で考えちゃって「やっぱりこれやらないでいいと思います」とか言ってき過ぎちゃう。
やっぱバランスだと思うんですよね。
「いいからやれ」って言うんですけど。
なので頭でっかちになり過ぎてもいけないとは思うんですけどあるステージからは与えられたものだけやるのじゃなくて多分藤井さんも一緒だと思うんですけど自分で次何やるかって言わなくてもつくっていける人がいいなと思ってます。
僕たまたま今就活中の皆さんにアドバイスをするワークショップをオンラインでやってるんですけどその皆さんが悩むのはコミュニケーション能力の低さなんですよね。
まああるアンケート結果なんですけど企業側に採用する人材に何を求めるのか。
11年連続第1位は「コミュニケーション能力」です。
これ欲しいのに小中高大で教わってはいない。
じゃあいきなり面接で見せろと言われてもどうしようもないんじゃないかと今の就活生が結構怒ってます。
二極化していくのかなというのはちょっと思っていてなんか誰でもできる仕事で言った事を何でもやって下さいとかっていうのって別に正社員じゃなくても全然よかったりして今で言うと結構クラウドソーシングとかそういうものもありますし逆に言うと誰でもできる仕事がいろんな国の人とかいろんな人にどんどん行き渡っていくからこそじゃあ自分だったらどうやるのかという事を考えていかないと価値が出せないというか今までどおりの乗っかってそのまま価値を出せるかというとそれはできなくなってきてるかなという事なのかなとは思います。
1つだけそれでねやっぱり自分の頭で考えるっていうのは単に企業で職業人になるために必要っていうだけじゃなくって市民としてというそういう側面もあるわけですね。
ここは外しちゃいけないんじゃないかなと思いますよね。
与えられた仕事をやるだけっていうそういう職に就いていくとしてもでも市民としてその地域とかね一人の家庭人として生活していくって時に自分の頭で考えざるをえないようなそういう状況がすごくあるわけですよね。
そこを考えないと学校…特に公教育なんて事を考えた時にこれ大学ではないですけどね全員にどういう内容を身につけさせていくのかとかねこれは学校が得意とする事は何かって事につながりますがその議論になってこないんじゃないかなと思いますね。
その時に考えた上で結果何が得られるのかっていうのが結構見えにくいところもあるのかなと思っていて。
何でそれをやらなきゃいけないかみたいなところが割と難しいのかなっていうのはやっぱり楽な方がいいわけで普通に生きていたらあまりつらい事をやりたくないとか自分の頭で考えない方が楽なわけじゃないですか。
でも頭で考える事によってこういう結果が得られるんだよみたいな将来的なわくわくする未来を見せられるかどうかというのも結構大事かなっていうのは。
考えない方が楽ですか?楽なんじゃないですか基本的には。
でもそれをそうじゃないと思ってる人がやっぱイノベーティブなふうに…方向に行くんだと思うので。
でも日本って大人があんまり考えなくてもいい社会ですよね。
エリートにすごい甘いなと思っててだって一回大企業とかに入っちゃえばそれでもう収入とかも上がってっちゃうわけじゃないですか。
しかもある年齢を越えちゃうと考えなくても誰とつながってるとか誰を紹介できるとかだけで仕事が回ってっちゃうじゃないですか。
だからほんと最近僕頭使ってないんですけど。
(笑い声)まず1つカルチャーショック。
日本に住み始めて22年以上がたってますが今の「考えない方が楽」っていうのはちょっと聞いてショックでしたよ正直。
アメリカ人多分100人に聞いても100人が「クリエーティブな仕事したくないなぁ」と言う人いないと思うんですよ。
何か頭使って楽しいクリエーティブな仕事したいというのが多分基本姿勢だと思うんですね。
何でアメリカ人はそうなんだろうと思ってましたけどちょっとみんな頭を貸して下さい。
教室というものを想像して下さい。
授業中の教室。
どういう絵になっているんですかね?これアメリカの教室だと手が挙がってる絵になります。
「先生!はいはいはい!」。
「Me!Me!Me!」って小学生ぐらいは言うんですよね。
日本の教室みんな多分想像ついてるのはメモをとりながら聞いてる。
もしくは聞いてない…かなと思うんですけど。
以前僕ある授業のためにパワーポイントを用意しようと画像検索したんですよ。
「教室」。
日本で「教室」って画像検索するとこれが出てこないんですよ。
アメリカで「classroom」って検索するとパッと出る。
それってアメリカだけなんじゃないですか?そうなんですかね。
僕ノルウェー留学してたんですけど授業中手を挙げてたのってアメリカ人だけで。
(笑い声)あとはみんな後ろの方から座って黙ってましたよ。
まあ確かに迷惑なぐらいかもしれないですけど。
でもその時点から参加型でやってるんですね。
日本に来て英会話学校とかやっててその時から自分も気付いてるし周りから言われてるんですけど小学生は元気。
それ小中高大とどんどん元気が…なっていく。
手が挙がる発言するそういう生徒の姿が見えなくなる。
今僕らパックンマックンとしてあっちこっち講演会とかやってるんですけど同じ事ですよ。
小学生に「今からクイズやるけどやりたい人?」って言ったらみんな手挙がるんですよ。
小中高でどんどん減っていって一定の年を超えたおばちゃんがまた参加するんですよ。
なぜか分かんないですけど。
それありますよね。
(パックン)でもその若い頃から参加させる言う事を聞かすんじゃなくてみんなで話し合いましょうというのがアメリカの教室の運営のしかたなんですね。
「グローバル」というキーワード。
高大接続改革プランにもスーパーグローバル大学の設立支援など世界を視野に入れた教育がうたわれている。
その一方で東大や京大が世界のランキングでは順位を落としているというデータもある。
更に文科省の有識者会議では「G型大学」「L型大学」というキーワードが話題となった。
G型はごく一部のトップ大学に限定され残りはL型として学問より実践力を重視するという。
二極化するグローバルとローカル。
こうした世界における日本の教育戦略をどう考えるか?グローバル化を考える時G型L型って二極化させる事について皆さんどのようにお考えしてるかというのを聞きたいんですけど。
今日も議論してて難しいなと思ったのはやっぱり大学を一様に議論してるし学生も一様に議論している事。
で「多様性多様性」と言うならまず大学のあり方も多様であってもいいし多様な企業のニーズもあるし多様な学生もあるのでやはりこういう事も含めて一律で議論してる事が難しい問題を間違った方向に導いてるのかもしれないと思いました。
そういった意味ではグローバルローカルが正しいかどうかはさておき一様に捉えるのじゃなくていくつかのカテゴリーに分けて考えていくっていうアプローチは正しいかもしれないと思いました。
日本は「G」とか「L」とか言ってるんですけどアメリカは基本的に「J」ですよ。
J?はい。
自己満足。
(笑い声)完全にアメリカ中心に考えてるし動いてるのが大半の方々なんですね。
まあ何が違うかというとまずアメリカ社会自体が結構グローバル化してる。
多民族国家でもありますしまたアメリカの内需が半端ないです。
アメリカだけで商売しても全然文句ないんです。
その一方日本はやっぱり市場が縮小してる中なかなか日本だけに目を向ける企業も大変だと思いますしローカルな問題を考えててもグローバル的な観点で考えるのは大事かなと思うんです。
あくまでも僕は日本でしかできないお笑い芸人ですから非常にローカル的な仕事なんですけど。
その二極化でいえば文科省もスーパーグローバル大学をいくつか指定してそこを支援してくって話もありますが「スーパーグローバル」って英語なんですか?
(笑い声)少なくとも僕の時代のアメリカにはない言葉ですね。
スーパーグローバル…う〜んなんかベリーユニークみたいにちょっとなかなか形容されない単語なんですけどこのグーロバルは。
でもスーパーグローバルもグローバルも僕は21世紀だったら別に前提でいいんじゃないかなと思うんですよ。
「一部の学校だけがグローバルで他はローカルです」みたいな感じよりは…。
僕は反対ですよLGのその分け方は。
「ごめん!ローカルですから英語しゃべれませ〜ん」とか「横文字使うなよ」とか「スーパーグローバルって…すいませんカタカナで書いてくれよ」とかもうそういうのは正直やめた方がいいと思うんですよ。
なんかグローバルになるって…日本人の人にグローバルで仕事したいとかって言う時って結構最初にみんな「でも英語が」とか言うんですが海外でいったら英語しゃべる当たり前でそこからどうするかっていう考え方なんですよ。
そうすると生きぬく力が単純に大事なだけであって日本で何かやりたいと思って…じゃあビジネスを作るにしたって結局はいろんな人を携えていろんな価値観の人たちをまとめていかなきゃいけなくて根本的に大事な事は一緒だと思ってるんですよ。
その生きぬく力みたいなところをどうつけるかなんでグローバルなのかローカルなのかというのはおっしゃるとおりあんまり関係ないような…。
ただ今大体人口の半分ぐらいが大学に行くような時代で一様な教育が難しいというのもそのとおりだと思うんですね。
だからそこでどう分けるかみたいな話って結構大事かなって気もしてくるんですけど。
ちょっとそれ…いいですか?グローバルローカルをね大学の種別と対応させるってちょっと違う気がするんですよね。
だから社会の問題にしてもそうだし…身近なね。
それこそ農業の問題これ絶対にグローバルな問題とつながってくるじゃないですか農業必要と思ったら。
例えば私淡路島ですけども極端な話淡路島っていうのはたまねぎとかで有名なんですけどそういうのを例えばネットとかで載せてそれで海外に発信して淡路たまねぎブランドとかそうやって売り出していく事もできると思うんですね。
そういうビジネスチャンスが広がっているのが今の時代なんだろうと思うんですよ。
そう思うとグローバルとローカルといったもので分けるっていうのはちょっと違うかなと思うんですがただ産業構造どういうふうな労働者が必要なのかっていう事のその種別に対して高等教育とか高校教育がどう対応するかという事はあるかなと思うんですね。
知識集約型というかそうやって世界の人と対話したり共同していくようなそういう高度な知識とか専門性が要求されるような人材とそうではない極端なところでいうと人間ならばある程度誰でもできるというふうな…言ったらあれですけれどもそういう単純労働もあるし…。
ある種そういった職業的な需要が階層化していく事に対して高等教育どう考えていけばいいのかという議論はそれは一つは必要なのかなと思うんです。
先崎さんはいわゆる地方の大学で教鞭とってるわけですけどこの辺りの議論どう見ます?そうですねちょっと極論的に言うと僕はこの「G型」「L型」っていいなと思ってるんですよ。
あえて投げかけるけど。
何でかっていったらですね地方ってどういう場所かっていうと実は大学っていうのはそんなに重視されてないですよ。
高校までの学歴が全て…。
ちょっと極論的に言うと。
「お前どこの高校だ?」とか「俺はもちろんここの高校だ」。
それで成り立ってるんですよね。
それにもかかわらず東京まで出てくるとか多分石井先生はですね地元に帰ったら「博士」とかあだ名が付いてるかもしれないけど僕の友達でそういうのがいたんですよ大学に入った時に。
やっぱり極めて…何つうのかな特殊といったら失礼なんだけど飛び抜けた人材として東京の門をたたいたり京都に出ていくっていう感じがやっぱり僕のイメージとしてあってその人たちは簡単に言うと18っていうのは一つの決断で都会へ出てくんですよ。
そこに残った人たちっていうのは例えば地元の国立大学に行って市役所に入りたいとか結局地元の中で生きてく事を選択してるのが18歳であるんですよ。
やっぱ大きく。
だからそういう意味でいうとG型L型の一つのケースはシェークスピアを教えるんじゃなくて…というあれですよね。
それっていうのはものすごくやっぱりテレビという媒体で難しくて僕は発言が。
というのは現実というのを僕は毎日見てるから現実から即したらそれは「二極化をなんとか…」とかねそれはちょっときれい事かもしれない。
もしかしたらほんとに地元の事を教えた方がいいかもしれない。
なぜなら地域活性なんて言葉はないんですよ。
いわき市の地域をどう活性するかという事にしかならないしそこではすぐに次に出てくるのは人脈ですよ。
「あいつはこことここでこうつながってるんだ」とか。
それの連続によって地域って成り立ってる。
この側面をもって後半はしゃべると…。
こうして討論前半戦は終了。
後半は討論の場京都大学東京オフィスに集まったオーディエンスの声から議論は展開する。
皆様に質問したいのが…まあここにいらっしゃる皆さんだいぶ学歴が高い方たちばかりだと思うんですけれども実際に日本で教育していく上でなかなか勉強が得意じゃない子というのもいると思うんですね。
どうしても今の日本は勉強が得意な子がどんどんどんどん得していくような仕組みになってしまっていると思うんです。
多様性というのを考える時に例えば勉強以外…勉強が苦手な子もいると思うんですけどそういう子たちが活躍できるような世の中にする何かヒントであったりこういう考えがあるかなというのがありましたら是非皆さんでお話しして頂ければと思いました。
ドイツにはマイスター制度というものがあって専門職を大体10歳とかから決めてメカニックならメカニックIT関係のパソコンを直す人とかだったらそういう仕事。
もう若いうちに決めてその専門職に就いて道を極めてしまったらそれはもう見事なマイスターとなりまして必ずみんなが学業で優れる人材とは限らない。
みんなに平等なチャンスを与えるという選択肢もあると思うんです。
でも日本はほんとに分厚い中流階級が自慢だと思うんですね。
僕もこれ大好きですしアメリカの貧富の格差が非常に嫌い。
勝ち組であっても。
ちょっと!笑うとこですよ。
(笑い声)…であっても嫌なんで。
是非その一億人中流階級というその体制を保ちながら21世紀に対応した教育にしてもらいたいです。
結局こういった創造力とか最近はコミュニケーション能力とかね思考力とか言われてるのは今言ったグローバル人材とか…というふうなものと親和性があるんですよ。
そうすると一部のグローバル人材をつくるために学校制度全体をトータルにそっちの方向に持っていっていいのかどうかっていうそういう議論はあるんですよね。
そこがやはり全ての子供たちにとってどういうふうな教育とか学習が求められるのかってそこでふるいにかけていかないと具合悪いとこがあるんじゃないかというふうな気はしています。
他に何かありますでしょうか?今保育士をしています。
今ずっと聞いてて小中高大出てきましたけど幼稚園とか保育園とか今話題にはなってなかったんですけど絶対につながるものがあると思っていて今すごいお話されてたので創造力の話をしますけど…。
保育園って6歳まで…幼稚園もそうですけど0歳から6歳までってすごい重要な時期で人間形成ほんとに必要なところでして例えば保育士の工夫次第でですね創造力っていうのはある程度つくる事ができるかなと私は思っていて。
じゃあそれのあとにですねそのまま小学校に行った時にその培った創造力がどうなっていくのかがすごい疑問で。
例えば保育園とか幼稚園も今多様化が進んでるので普通じゃなくてこだわってその保育園なり幼稚園に入った場合そのあと義務教育に行って苦労するんじゃないかとか。
幼稚園小学校中学校高校大学がどうつながっているのかなっていうところが疑問で何かその辺りご意見がある方いらっしゃいましたら是非聞きたいと思っています。
僕は日本の公立の幼稚園に子供を入れてるんですけど大満足です。
ほんとに子供がしっかり日本の教育の良さも身について…。
例えばハンカチを忘れない。
上履きを必ず履き替える。
「前へならえ」はできるよ。
でも創造力がすばらしいですよ。
あんまり否定的な事僕の幼稚園で言われてないと思うんですよ。
「はいみんなで空の絵を描きましょう」。
「何だその太陽。
太陽は赤だろう」と言ってないんですよ。
黄色い太陽でもオレンジ色の太陽でもいいと。
あんまり創造力殺してないんです。
幼稚園生のあの素質を持ったまま小中高大まで進む事ができたらいいと。
だからなんかもう幼稚園とか保育園とかを義務教育にして大学とかもうどうでもいいんじゃないですかね。
(笑い声)あっ逆に?逆にね。
一つね接続って問題あるじゃないですか。
その接続の問題って何かというと幼稚園から大学まで全部つなぐっていう話なんですね。
で小中連携幼小連携とか連携ものがすごいはやりですが注意しなきゃいけないのは上の学校の論理を下の学校に下ろしていく事になるのはこれなかなか難儀な話なんですね。
例えば幼小っていう事でいうと小学校の授業のやり方みたいなものを早期化して幼稚園でやっていくとかねとなると幼稚園らしさがなくなっちゃうんですよね。
そういう事はかなり広まってるような気がしていて。
幼稚園って体験の中でいろんな事をグチャグチャ学ぶのが大事やと思うんですけどもそうじゃなくて教室に座って小学校の授業の予備校みたいな形になってるそういう幼児教育も広がってるように思うんですね。
むしろ接続って事を考えた時に上から下にというだけじゃなく下から上。
それでいうと例えば高大だったらば高校でやってる事の中の豊かなものを大学が学んでいくとこもあると思いますしそこの双方向での対話ってのが大事なんだろうなと思いますね。
あともう一方質問があったので…。
4月に転職したばっかりで昨年度までは研究所や大学で理系の研究者と教員をしておりました。
僕の少なくとも知ってる教授たちというのは採用しない人材というのがありまして国際的なキャリアがある人マインドがある人ですね。
あと新しい領域の研究をする人。
要するに国際競争力があるつけなければならないと文科省が今一生懸命改革してるんですけどそういう人は採用しないと。
まあちょっと極論ですけど。
なのでその教授たちのマインドを変えない限りまずそういう人材が大学に来ない。
来ないというかはじき出されてしまう。
やっぱり大学ってそういう場所なんですか?なかなか答えにくいところですがでもタコツボ化が進んでるのはあると思いますよね。
もともと…「白い巨塔」の話じゃないですが日本の大学って講座制とかねそういうのをモデルとして…。
ある種村社会的な部分ってどっかあるんですよ。
それが恐らく今のこの状況の中で学術分野の細分化が進んでいくとそれに乗っかってくると結局それがどんどんどんどんタコツボ化するわけですよね。
そこで養成される研究者も視野が狭くなりがちという事があってそれのもともとの村落共同体的な価値観とそれからタコツボ化というふうな事の合成によっていろいろと進みにくい。
それをタコツボを越えてというのがやりにくい状況にあると思うんですね。
(岩瀬)そこは研究者としての顔と教育者としての2つの顔を持たなければいけないというところが課題ですよね。
優れた研究者であっても必ずしも優れた先生ではないという事があると思うので…。
やっぱり先生たちのマインドを少し変えるとかあるいは評価の仕組みを少し変えるとか。
僕は一義的にはまず……という事がすごく大切な気がします。
岩瀬さんの「先生が変わらないと」って話なんですけどこれそもそもの話は「高大連携」という高校と大学をどう接続していくかって話なのでちょっと今までは大学の話だったから高校の方に少し力点を置きますとですね多分「先生が変わらないと」っていうのはかなり現状難しいですね。
なぜなら現状において高校の先生とか学童保育の先生とかもそうだと思うけど極めて忙しいです。
めちゃめちゃ忙しいです。
そこには更にどういう問題が起きているかっていうと学校の先生とかってよくちょっとした事件が起きるとすぐニュースになりますよね。
何でニュースになると思いますか?あれはどっかで学校の先生とか警察官とかっていう人は道徳的な権威を帯びた人だと思ってるわけですよ。
要するにちゃんとした人である。
教え諭すなんか偉い人っていうんですか道徳的に偉い人…であるにもかかわらず一方で僕たちはモンスターペアレントって言葉があるように日々の生活の中でほとんど下働きに近いような事を学校の先生はさせられてるんですね。
この差は何かっていうと社会が学校の先生をものすごい引き裂いててほとんど…何て言うんですか事務職をガンガンやりながら途中で教えてるようなそういう何て言うんだろう小間使いって言ったら失礼なんだけどそういうような事をやらせてる一方でだけど僕たちはどこかでこの人たちに対して何か特別な教育を施してほしいって期待してるんですよね。
…っていうここのところを踏まえた上で学校の先生たちが恐らく相当苦しい仕事をさせられてる。
だからその中でどうやって高大接続をするのかっていう話にしていかないと議論がまとまらない気がする。
先崎さんがおっしゃったように日本の学校っていうのはもともと丸ごと担おうとするしそういうふうな事が期待されるんですよね。
だからもともとの西洋で近代の学校っていったものが始まった時っていうのは非常に限定的。
だから基本的には……というふうなそういう発想なんですね。
で価値観とかそういったものの教育っていうのは家庭教育であるとか教会とかそういったところでやっていく。
そういうのは全部日本の学校っていうのはしょい込む全人教育というのはしょい込みがちなわけですよ。
もう一つはそれこそ学校の外側の方の先生とか学校に対しての目というのはどんどん厳しくなるわけですよね。
そうすると計画どおりにやらなきゃいけないとかね……ていうふうな事で大胆な取り組みが先生方できない状況なんですよ。
それでいて試行錯誤を許さないような状況で子供たちに考える力を育てましょうというのはちょっと難しいかなと思うんですよね。
(岩瀬)今おっしゃったような課題を解決するために打たれてる手とか取り組みってあるんですか?地域の力を学校に生かしていくっていうふうな…そういうふうな取り組みも進んでいたりもしますけれどもでも国際調査の中でも日本の先生っていうのはものすごい労働時間長いんですよね。
その割にはあんまり報われてないというふうなそういう状況がありますのでここを一刻も早く改善しない事には優れた先生が教師にならないなろうと思わないというのもすごく問題だと思うんですよね。
この前フィンランド行ってきたんですけどフィンランド教育すごいっていうじゃないですか。
でも僕が見た学校は別に普通だったんですよ。
日本と別に特に変わらなくて普通に黒板使って普通に教えてて何て事ない学校だったんですけど一個違うなと思ったのは先生の休みがすごい長いんですよ。
ふだんも裁量労働で昼間の2時3時で帰る日もあるし夏休みは完全に2か月間休み。
一切登校とかの義務がないっていう。
だから日本もこういう大きい言葉だけ立派なプランをやるんだったら先生の忙しさ何とかすればいいなって事をすごく思ったんですけど。
今古市さんがおっしゃったのに僕は賛成で。
僕は今日は結構ですね制度設計論者として言いたくて簡単に言えば特にまだ大学よりも更に小中高がそうなんですけど簡単に言えば事務職員がやるべきである事を学校教員がやるんですよ。
文化祭があってマラソン大会があってそれから地域の人たちとたこ揚げ大会だとかですね永遠に続くわけですよね。
だからそういうような事を制度として事務職員は何人おかねばならないとかそういうような事をやって頂く中から自然と創造的な教育をやる人も出てくるだろうし何人かはさぼるだろうし…だけど社会って大枠ですからさぼるやついてもしかたないんですよ。
大枠でいい方向にいくならば。
だからその辺がどういうふうに考えていらっしゃるのかそのお力のある先生に是非政府に関わって頂いてやって頂きたいんだけどな。
まあ今日いろいろ話してきまして最後は教える側の話までいったという事ですけれども最後にもう一度より具体的な目指すべき教育改革というのを皆さんに話して頂きたいなと思います。
教育改革を本当に実現可能でかつ効果的なものとするには?再び東京大学第二十八代総長小宮山宏の提言を聞く。
私の答えはね…そっちの方向に向かうべきだと思う。
社会人の経験者をもっと学生として大学に入れるとこれがとても重要だと思ってるの。
日本が特殊なんだよ。
大学に入学する人の年齢がほとんど18なんだよ。
18.ちょっとなんですよ。
ところが大体22〜23ですよ欧米の大学というのは。
それは数年社会に出てるんですよ。
これはねとても僕いいと思いますよ。
まず本人が目的意識持ってるよね。
社会見てくるから。
それから批判力持ってますよ。
教えられる事に対して。
私の信念はですね社会が重要とする課題がある時にそれに対応する学問は必ずあるべきだというのが私の信念なんですね。
それでいくつかやったんですけどその中の一つは高齢化の問題です。
文学部の先生だの医学部の老年医学の先生だのロボットの先生だのいろんな人を集めてスタートしたわけなんですが工学部の中で自然と進んでいく理学部の中で自然と進んでいくこれはやらせときゃいいんだよいい大学では。
だけどその高齢社会だとかね地球の温暖化だとかねこういうのをねそれこそ俯瞰的に全体としてやっていくようなものってのはできっこないんだよ。
ほっとけば。
先生たちそんな事やれないもん。
そんな事やってたら論文書けないから。
だからそういうものは総長総合大学が大学として支援しなくちゃ領域にまたがるような事っていうのはできないわけですよね。
だからまたそういう事が社会では要求されてるわけですよ今。
総長がやらなくちゃならないっていうのはそういう事だよ。
そういう事をやるのは既存の仕組みでは大変で更に言うとちょっと関係してる人は多いわけですよ。
心理の面から病理の面からテクノロジーの面から高齢社会ってものを自分は意識してやってるんだって先生たちはたくさんいるわけだよね。
そうするとそういうものを作ろうという事にはこの人たち不思議と反対するんだよ。
俺の分野を侵すなってわけだよ。
これが抵抗ですよね。
ほとんどそうなんですよ。
社会をねよくしていこうとする時にビジョンというのは意外とあるんだよ。
こうすればこうなればいいんだこうすればいいんだって事はあるんですよ。
ところが今のシステムってのがあるわけですよ。
そうするとここには今のシステムで生きてる人たちがいるわけですよ。
そうするとここからここにね移ってくっていうのが大変なんだよ。
…というような研究分野ができてきてるんですけどもそれはこういう状況からビジョンへどのようにして向かえるかって話だよね。
やっぱりいろいろ変えるのって大変だなって話を元総長が言うと重みがありますよね。
理想の大学像っていうふうな事が出てきましたけれどもそれでいうとやっぱり大学教育もそうですし小学校中学校高校もそうですけど学校教育が得意とするのは要は頭の中での認識というんですか……教育というのが多分一番得意とするところだと思うんですよね。
でも創造力とか創造性っていった時に学校教育の中でギリギリできるって事を考えた時にはそれを創造力を教育するっていうふうな発想なんかちょっとおかしな気がするんですよね。
というよりも今までの自然と創造力とかっていったものは学校教育でカリキュラムになってなくても育ってきたんじゃないかなって思うんですね。
大学であればサークルとかそういったところで自分たちで学ぶ場を作っていく文化っていうのをもうちょっとちゃんと再評価していった方がいいんじゃないかなっていうふうな事を思います。
パックンは今日どうです?聞いてみて。
個人的な意見だけをまとめさせて頂きますと僕は自分の子供を日本の公立の小学校に送らせるぐらい日本の教育を信じてます。
大好きです。
だからといって変えられないとは思わないです。
まだまだ成長する余地があると思います。
僕は今東京工業大学でコミュニケーションの授業を教えてるんですけど僕の授業に通ってる…もう国立大学ですよ。
みんな偏差値が高くて頭いい子ばっかりなんですけど自己主張ができる子が少ないです。
「どう思いますか?」と聞かれて困る子が多いです。
ですから自分の意見を持って自分で情報を収集して処理して更に出力して伝えるそういう技術がこれは21世紀の日本人にとっては大事なスキルであってたとえ専門職に就いても職人さんになっても主婦になってもサラリーマンになってもサラリーウーマンになってもイノベーターになっても何になってもそのスキルはあっていいと思います。
僕の授業は理科系大学の中の文科系の授業であってその履修する学生はちょっと楽できるかなと多分最初来るんですよね。
ましてやタレント教授ですから。
教授じゃないし非常勤講師ですし。
楽しようと多分いらっしゃる方多いんですけど僕はアメリカというか一流大学式のやつでガンガン宿題を出しますしそれを答えてもらって授業で参加型にしてます。
例えば何をやるんですか?
(パックン)一番最初は自己紹介。
視覚情報を用意して自分の立って面白い話ができるように自分関連の物語ができるように。
あとはディベートの練習させてみんなの前でリピートさせるとかディスカッションさせるとか。
で常に授業でこういうやり取りをしてるんですけどもう本当にこれ最初迷ったところで。
「じゃあいきますよ。
自分の説得力を上げるためには人はどうすればいい?どう思いますか?アイデアない?」って聞く…。
この状態で手が挙がらないんですよ。
それがすごい不思議で。
「じゃみんな手を挙げて」って言うとみんな手が挙がります。
素直ですからみんな手を挙げて。
「じゃあ自分の説得力を上げるアイデア聞きたいんですけど答えたくない人手を下ろして」って言うと1/3ぐらい挙がったままになるんですよ。
だからほんとは1/3は分かってたわけですもんね。
意見を持ってるんだけど…。
持ってるけど言えない。
参加したいけど今までそういう授業に通った事がない。
自発的に手を挙げる習慣がないからまずそこから直すんですね。
それで授業が終わった段階では結構みんな変わってくんですか?
(パックン)もう半年でみるみるうちに。
みんなコミュニケーターとして上達しまして。
何か得るものが必ずあるんですよ。
じゃあもしも仮に半年間の授業でコミュニケーション能力がつくのだとしたならばこの高大接続改革プランとか別にいらなくないですか?パックンみたいな先生が大学に1人いて半年間教えたらそれで別にいいんだったら…。
そのとおりですよ!でもその僕みたいな先生が一人一つの学校にできるまでは結構改革必要だと思うんですよ。
言っとくけどすごいですからね。
(笑い声)パックンのいない学校では違うプランを使ってやるしかない…。
あしたからでもできるようなプチ改革をやってもいいんじゃないかなと思うんですよ。
例えば幼稚園小学校で……という制度をやればいい。
生徒が自分の家にあったものとかカバンにあったものとか公園で拾ったものとか何でもいいから持ち込んでみんなの前に立って説明する。
「これは私のお父さんの財布から取った千円札です」とか。
(笑い声)もちろんそれは駄目なんだけど「お父さんからもらったなになにです。
僕にとってこういうものでいつもこういうふうに遊んでます。
質問ありますか?」と。
で他の生徒が質問してくる。
4歳5歳の段階からプレゼン能力コミュニケーション能力を鍛えてる。
これだったら先生たちが大した負担もなく来週からでも始められますかね?…あら?大学1年生の時に基礎演習っていったらいいのかなあったでしょう。
これは1年生に今でいうところのディベート力に近いようなものを自分で何を考えてるのか発表させてそれを教員が聞いてるっていう授業があったと思うんですけど1年生段階で終わってしまって特にそれが何かその今の創造的な事に役立ったかというとちょっと疑問な気もしますけれど。
でもそれ大学1年生の話で僕は小学校1年生の話をしてる。
それを幼からスタートして小中高大でずっと続いてて一流のコミュニケーターになれると思うんですね。
(岩瀬)やっぱりカリスマ先生に頼る事なく制度とか仕組みでできる事いっぱいあるなと思って。
今の話聞いててもですね。
じゃあどうやったら授業のクラスの半分の人手を挙げさせられるかっていうとすごく簡単なんですよ。
留学してた時そうなんですけど手を挙げた回数を点数つけて一定以上挙げてない人落第させるんですよ。
そうするとやっぱり挙げなきゃいけないっていうのがあるからみんな必死に挙げるじゃないですか。
それたった一つの工夫なんですけど…。
(石井)それは…すみませんそこはねもう既に中学校は内申書で「関心意欲態度」というのが入った時点でそういう事があったんです。
でもうまくいかなかった。
何でですかね?
(石井)やっぱりそれはねそういう形でアメリカと例えば日本でいうとその辺りの…自分がここにいるよって事を自分はこういう事を考えてるんだという事を常に主張し続けなければいけない国とそうではなくてむしろコミュニティーの中でねいるとそれだけでそれこそ考えなくて済むっていうのはそうだと思うんですよ。
そこにいる事がむしろ自分の生活の安定であるとか居心地の良さにつながるというふうなそういう文化的な風土が結構あるんだろうと…。
(岩瀬)何をしてうまくいかなかったと言ってるんですか?
(石井)そういうふうな事をする事によって逆に…僕も例えば中学校の時だったかな手を挙げた方がポイントがつくみたいな仕組みでやってる学級があったんですよたまたま担任の先生の方針で。
だからその1年間はみんな手を挙げたんだけどでもクラス終わったら結局また挙げなくなるんですよ。
その仕組みが終わっちゃったら。
継続なんじゃないですかね。
僕らの基礎演習も1学期で終わったからであって子供の頃からずっとやっていればそれが当然だというので。
それじゃなくてもいいんですけど言いたかった事はすごくいいカリスマの先生に期待するんじゃなくてありたい態度を促すようないろんな仕掛けというのを継続的に工夫し続けなきゃいけないんじゃないのかなと。
だからそういった点で考えると入試変える事がほんとに今一番やるべき事なのかっていうのが分からないなと今日思いました。
だから今日の話ずっと教育の話なのか社会の話かっていうのが難しくて結局教育がいくら変わっても社会が変わらなかったら意味がないって話をしてきたと思うんですよね。
だっていくらみんなが手を挙げるようになったからといって社会にいる大人たちが手を挙げる人を嫌がってたら結局それってなんか無駄に終わっちゃうわけじゃないですか。
だからパックンがつけてるコミュニケーション能力は絶対いい事だと思うんだけどでも果たしてそれがその能力が果たして理系の研究者として生きてく子たちにとっていいかどうかはまだ分からないわけですよね。
実際今の日本のコミュニティーでは。
(パックン)いい事です。
学校の発表とかいろんな場でコミュニケーションの能力は理科系も必要としてると僕は信じてますしまた前の履修生が戻ってきて就活の結果とかを教えてくれる事もあるんですよ。
パックン先生が教えてくれたいろんなスキルを生かして就活でなんと第3の希望のところに入れたと。
ちゃんと役には立ってると。
(パックン)そうそうそう。
それでは藤井さんいかがですか?教育っていうまあ制度でもし変えていくんだとしたらビジネスと近いところっていうと割とシンプルにしていくというか。
いろんな変数があってやらなきゃいけない事がすごく多すぎてしまうと思うんですけど。
それぞれ今多様化している中である程度細分化してそれぞれの機関である程度指標を決めて個人個人も大学に頼るとか教育機関に頼るんではなくて自分の価値観を形成した上で選択するっていう事がすごく大事だと思うので。
それぞれの教育機関というか大学だったりとかがどういう方向を目指してるのかをきちんと明確にして割とシンプルにするみたいな。
それを全部やろうとしないでここに行けばこういう事が身につくんだなっていうのが割と明確になってると個人としても「じゃあこういうところに行こう」みたいな事が見えてきますしその先にどうしたいかというのが描いてから入っていけるような仕組みになったらいいなというのすごく漠然とした話ですけども。
今の大学はあまり分からないという事ですかね。
ここに行けばこれが身につくかという事が。
なんか単純なレベルだけでできれば高いところに行きたいみたいな話なんで何を学んでどういう人間になりたいかと思って入ってる人はやっぱり少ないのかなとは思いますけど。
岩瀬さんはいかがですか?今日話に出た自分の頭で考える力とか表現するコミュニケーション力だとか生きていくためのいろんな知ってこなきゃいけない事これらは必ずしも大学だけで教えるべきものじゃなくてやっぱり小中高あまねくみんなが生きてく上で必要なものなのでそういったものは大学に押しつけるべきじゃないと思います。
で今の大学に一番僕が求めたいのは入ったらきちんとそこで教えられる事を勉強するという仕組みづくりじゃないかと思ってて。
そこで3つ提案があるんですけど。
1つは先生の教えるという事についてきちんと評価をしてもっと上手に…2つ目がその裏返しとしてやはり先生が教えるという本業に専念できるようにいろんなその事務的な作業をできるだけ軽減するような取り組みをする。
3つ目は学生が勉強するようなインセンティブがなければいけないので例えば卒業する時企業側が必ず学校の成績提出を求めるとか。
アメリカだとGPAっていう点数が一つの指標になるのでそのためにみんな勉強するんですよね。
だから今の3つでちゃんと大学入ったらその中身は何であれ一生懸命そこで習得しようという箱をつくる事が先だとしてそれがあって初めてじゃ次はこれを教えようというどんどんステップが取れると思うんですね。
今の日本の問題はそういうふうに大学に入ってもきちんと何か習得しようという場に必ずしもなってないという事だと思うので今言ったような事が一つ理想というか提案したいなと思います。
さあ先崎さん今日はいかがでしたでしょうか?今回は少し具体的な話をしようかと思ってるんですけど例えば今日の話の流れ全体の雰囲気としてコミュニケーション能力であれ何であれ社会に出て有用な人材をどうつくるかというところが大学でどう求められてるのかって話になってるんですよね。
だけど大学って必ずそうすると反発する考え方があって理系の方はもしかしたら次から次へと新しい事に向けてクリエーティブにやってくんでしょうけど恐らく人文科学系の人たちはそうじゃなくて大学の意味というのは社会の一切役に立たない本を読むような時間が大事なんだとか僕も理系の一般教養非常勤講師でやって授業の最初に「この授業は一切あなた方が社会に出て役に立ちません」と言うと笑いが起きるんですよね。
それぐらい理科系の人にとってそれは新鮮で変な先生なんですよね。
ただもしかしたら社会の中で挫折しかかった時とか自分がどういう混乱に陥っているかという事を言葉にするっていう技術を身につけておく事は大事だって付け加えるんですね。
何が言いたいかっていうと社会人になる事は今どう考えたって大学特に地方大学で求められてるわけですから就職率で。
そういった中でもし制度設計として何ができるかなって思ったら僕が一つ言えるのは多分理系にとっても文系にとってもやった方が恐らくいい事って…これって簡単で社会人になってから新しい人からメールが来たりすると非常に文章が長くて読みにくい人のメールとかたくさんあるんですよね。
その時にパッと見て分かる文章というのはそれは独自な個性を持った小説家になるなら別ですけれど社会人が理系であれ文系であれ基本的な文章の書き方を勉強しておくって多分大切な事でもし知識偏重じゃなくて違う形で教育の制度を改革していくなら一つあるのは文章を社会人としてきちんと書く能力を小さい頃からやる事。
新聞のニュースでもいいですけどそれをまず情報としてきちんと整理整頓する。
これは技術で何とかなるんですよね。
僕は今回は個性的な教育についておしゃべりを今してるわけでなくてある程度の能力をみんながつける方法は何なのかなぐらいしか国って多分できない気がしているので。
そうするとそういう能力…まずは見た目というか形式というかそれを整えるというのは知識教育以外で一つあるのかなと。
でもなんか今日聞いてると意外と大学の話してるとなんかこう基礎的な事が重要だったりとか。
結局最後作文の話でしたもんね。
高等教育の話をしてきたけれども。
どうでした?古市さん今日は。
結局そうですよね。
僕やっぱり何かをがらっと変えるって事にあまり賛成じゃなくて。
がらっと変えた時ってがらっと変えた気分になるんだけど実際中は変わってなかったりもすると思うんです。
細かな事変えてくって事は大事だとは思うんですけど創造性とかって言葉に振り回されて変なふうに変わっていかなければいいなっていう事は思いました。
「創造性」とは「未知の状況への対応力」だ。
まだ見ぬ未来を切り開く知性を現在の教育の価値観の中から生み出せるか?制度が整うほどに新たな才能が息苦しくなるのならまさにジレンマだ。
「教える」のではなく「対話する」「分からせる」のではなく「共感する」…。
そんな知恵の共有を広げるためにジレンマの試みは終わらない。
2015/04/26(日) 00:00〜01:30
NHKEテレ1大阪
新世代が解く!ニッポンのジレンマ「大学のジレンマ?教育のジレンマ?」[字]

大学、教育の議論が熱い!知識偏重から創造力重視へ?どんな入試でどんな人材が?元東大総長も今だから話せる本音で提言。京大の東京オフィスからお送りする90分SP版。

詳細情報
番組内容
大学、教育の議論が熱い!文部科学省が策定した「高大接続改革実行プラン」をめぐり、高校、大学、そして社会人教育まで、新たな在り方の議論が広がっている。どんな入試でどんな人材が?知識偏重から創造力重視へ?偏差値主義からの脱却への筋道は?元東大総長も、今だから話せる本音で提言。教育の成果はどう測れるのか?…ジレンマは尽きない。さまざまな経験を持つ異色論客で、京大の東京オフィスから送る90分SP拡大版。
出演者
【出演】教育学者…石井英真,ライフネット生命代表取締役社長兼COO…岩瀬大輔,日本思想史研究者…先崎彰容,パトリック・ハーラン,株式会社Famarry代表取締役…藤井悠夏ほか

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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