『教師の友』95年9月号掲載
「この国のよそ者」
ヘブライ11:13〜16
【説教例】
1952年、札幌で、浅見仙作という84歳のおじいさんが静かになくなりました。その仙作さんの話です。
仙作さんは1868年、新潟県に生まれ、若いころ北海道にやってきました。ずっと農業をしていたのですが、いろんな災害にあって苦しむ中で、キリスト教を信じるようになりました。
50歳を過ぎて体を壊し、農業をやめて札幌でおふろ屋さんを始めました。「人の身も心も清める素晴らしい仕事だ」と言っていたそうです。仕事のほかに、北海道各地を訪ねてたくさんの人にキリスト教を伝えました。
仙作さんが年をとってきたころ、日本は中国との戦争を始め、やがてアメリカなとたくさんの国々と戦い始めました。仙作さんはいつも、戦争は神さまのみこころに背くことだから絶対反対だと言っていました。戦争が激しくなってくると、軍や警察は、そんな仙作おじいさんのことを、じゃまに思うようになってきました。
1943年7月、仙作さんは突然、警察に捕えられてしまいました。罪をでっちあげられて、75歳のおじいさんは、翌年2月まで零下15度以下にもなる札幌警察の地下ろうにいれられてしまったのです。
それから裁判が行われ、5月、仙作さんは、日本の国に逆らい天皇に逆らったとして懲役3年を言いわたされました。仙作さんは、こんな間違った裁判はやり直さなければならないと、すぐに東京の大審院(今の最高裁判所)に訴えました。
仙作さんを応援してくれた人は多くはありませんでした。皆、天皇や軍・警察に逆らうことは怖かったのです。
けれども、ある日、仙作さんの若い友人の本田作平という人がこんなことを言いました。
「キリスト教が日本の国に合わないと警察が言うのは本当のことです。無理に合わせることはありません。キリスト教は、天皇を神とする今の日本の国には合わないものだと思います」
仙作さんははっとしました。そうだ、確かに今の日本の国は間違っている。人間である天皇を神さまとあがめる日本の国が間違ってる。正しい神さまをあがめようとするキリスト教が、この国に合わないのは、当然なのだ。
仙作さんは、たとえどんな判決が出ようとも、裁判では自分の信ずることをはっきり言おうと覚悟を決めました。
翌年3月、裁判が開かれることになり、仙作さんは弱った体を励まして札幌から東京へ向かいました。東京大空襲に焼け残った建物で行われた披判では、仙作さんは裁判長に自分の信ずることをはっきり訴えました。三宅正太郎裁判長は、ていねいな言葉で質問し、仙作さんの答えにうなずきながら耳を傾けていました。
6月、裁判長は仙作さんに無罪の判決を言い渡しました。仙作さんは、日本の国よりも神さまを信じとおし、裁判に勝ったのでした。日本の国が戦争に敗れる二か月前のことでした。
【黙想】
ずっと前、何かで読んだ記事がみょうに心に残っている。歌手のアグネス・チャンが「日本の若者をどう思うか」と尋ねられ、言下に「自立していない。特に、国家から」と答えた、というのだ。中国にルーツを持ち、イギリスの植民地香港から来日し、またカナダで学んだ彼女は、国家というものを異化することのできる、きわめて冷静な目を持っているのだろう。
言われてみれば、若者に限らず、国家から自立した意識を持つ日本人は、そう多くはあるまい。
自分たちは地上ではよそ者であり、仮住まいの者であると言い表すことは、どんなに難しいことか。日本の社会にあっては、今日でさえ「キリスト者である自分たちは、ここでは、つまりはよそ者なのだ」と言い切ることは決してやさしいことではない。
それを思うと、あの戦争中、一農民本田作平が「キリスト教が今の国体に合わないと当局者が言うのは本当のことで、合わせようとしたり、又合うものだと解釈する者が基督者の中にも近頃多くあるが、それは間違っている。私はキリスト教は天皇を神とする今の国体に合わないものだと思っています」と言い切った事実はとてつもなく重い。
まして、その信仰を治安維持法違反に問われた浅見仙作が、大審院で無罪判決を勝ち取ったことは、奇跡のように思える。
浅見仙作は、内村鑑三を師と仰ぐ無教会の信者で、とくにその絶対非戦の思想や再臨信仰が当局からにらまれたのだった。しかし彼は、地上の権力に妥協することなく、信ずるところを貫いたのだ。彼は、もはや出て来た土地を思わずに天の故郷を熱望したのであり、そして神は彼の神と呼ばれるのを恥とせず、彼のために都を準備したのではなかったか。
(浅見仙作とその裁判については、武田清子著『土着と背教』新教出版社、325ページ以下を参照)